第2話 肩矢の少女(2)

「まだか、知らせはまだか」


 指を噛みちぎらんかという勢いで、爪を噛むと床几しょうぎに腰掛けた老将は怒鳴った。シダと日輪をあしらった黒い兜の下から血走った目が覗く。

 普段は冷静な男だが、この天下分け目の大戦おおいくさではさすがに焦りを禁じ得ない様子だ。先ほどなどは、馬で乗り込んだ無礼な伝令に激情のまま切りつけて流血騒ぎを起こしたほどである。陣中のピリピリとした雰囲気は最高潮に達していた。

 その時。


大殿おおとの、あれを!」


 小姓の指し示したのは、空の彼方から急降下してくる真っ白な天馬だった。


「おお、やっと来たか」


 老将は軍配を上げ、こちらだとばかりに大きく振った。

 天馬には四方から矢が射かけられていたが、臆すること無く羽根を広げ、まっすぐに近づいて来る。だが何本もの矢の刺さったその白い馬体は血で赤く染められていた。馬上の人は生きているのか、死んでいるのか、たてがみに埋もれるように倒れ伏している。


「場を開けろ」「大殿、お下がりを」本陣が慌ただしくなった。

 本陣の中に空けられた狭い空き地に、まるで激突するかのような勢いで着地した天馬。馬からずり落ちるようにして地上に降り立ったのは年端もいかぬ少女であった。少女の血染めの左肩には深々と矢が突き立っている。

 血の気の引いた顔に、気の強そうな大きな目を光らせて少女はふらつきながらも気丈に片膝をついて控えた。


「ご報告いたします。人質となっていた小早川殿の側室、蓮殿とご子息を伏見城下から救出し、上野城にお連れいたしました」

「二人に大事はないか?」老武将が前屈みになってたずねる。

「はい、傷一つありません。今は伊賀の仲間が身辺の警護に当たっております」


 少女は懐から油紙の包みを取り出した。


「ここにれん殿から直筆のお手紙と小早川様から形見に渡されたという数珠を言付かっております」


 不遇の時代を影ながら支えた蓮という妻とその子供が、小早川秀秋の唯一の心のよりどころであった。恨みのある豊臣側に一矢報いたくても、その蓮と子供が人質に取られている以上、二人を命にも代えがたく思っている若い武将は寝返ることができなかったのである。


「そうか、母子ともに御無事か、良かったな」 


 老将の修羅と化した顔が緩み、一瞬仏の顔が垣間見える。それは策略に成功した喜びだけではなく、秀秋の今までを知っている家康の心からの安堵でもあった。


「あやつも苦労したからな」


 小早川秀秋は羽柴秀吉の甥である。一時は子供の居ない太閤の養子となり、時期後継者候補として溺愛されていたが秀吉に実子が生まれた後には掌を返すように疎まれ、毛利家の家臣である小早川家に養子に出されていた。そこで結婚させられるが、その正室とは上手くいかず、奥向きの用をしていた気立ての良い蓮との間に子供をもうけたことで、毛利家ゆかりの正室とは離縁させられている。

 運が良ければ天下人であったかもしれない青年の数奇な運命を哀れみ、秀吉からの無体な扱いをことあるごとに救ってきたのは他でもないこの徳川家康であった。


「鉄砲を撃って早く奴に知らせてやれ」


 小姓が走り、手はず通り鉄砲隊が一斉に小早川軍にむけて空砲をならす。


大義たいぎであった」


 家康はそこで初めて、片膝を突いて眼前に控える少女をまじまじと見た。蓮の救出が成功すれば天馬という不思議な生き物を操る伊賀の忍びが報告をもたらすとは聞いていたが、伝令がまさかこのような年端もいかぬ少女だとは家康も予想だにしていなかった。


「大殿、小早川軍に鉄砲で知らせましたが、動く気配が見えません」


 悟という文字が染め抜かれた旗指物はたさしものを背負った伝令が駆け込む。


「この喧噪の中だ、聞こえないのだろう。小早川軍に伝令を走らせろ」

「お待ちください」


 目の前の少女が、まっすぐに家康を見上げている。


「この戦場の中を走っても、はたして小早川殿のところに無事に行き着けるかどうか。かと言って軍勢をつけて伝令を送れば、小早川軍の近くに陣を構える大谷吉継殿に寝返りを悟られてしまいましょう。私は先ほど空から両軍の今の戦況を見て参りました。誰がどこで戦っているかだいたい頭に入っております。この手紙と数珠は私が空から迂回して背後から松尾山に陣をはっておられる小早川殿にお渡しいたしましょう」

「肩の矢はそのままで大丈夫なのか?」

「はい。上野城でも治療を勧められましたがいたずらに引き抜くと傷口から血が噴き出して天馬に乗れる状態ではなくなります。この矢を背負ったまま任務を全うしとうございます」

「よし、お前に任せよう」


 家康は大きくうなずいた。


「この翡翠の勾玉を持って行け、そなたをきっと守ってくれよう」

「ありがたき幸せ」


 少女は勾玉の護符をおし頂くとふらつきながら立ち上がった。彼女が馬の鞍に手をかけた時、ふと家康が呼びかけた。


「待て、名を何という」

「りの、と申します」


 りの……か。家康の目は少女と満身創痍の天馬に向けられる。


「その武功を讃え、そなたとそなたの子孫に『肩矢かたや』の名字を与える。我が身を呈して任務を果たした勇気を子々孫々まで伝えるため、これからそなたとその子孫は肩矢りの、と名乗るがよい」

「もったいないお言葉」りのは深々と頭を下げた。「私も天馬も最後の力を振り絞ってこの任務を果たす所存です。しかし手負いの身、この任務の後再び私とこの銀香が空を駆けることができるかどうかはわかりません。ですが、もし大殿の御子孫に何か大事が起こったときには、我が子孫が天馬を駆り必ずや馳せ参じましょう」


 言葉が終わるやいなや、少女は天馬に飛び乗り、瞬く間に上空に舞い上がった。程なくその姿は豆粒のように小さくなり、空の彼方に消えていった。


「なんと勇敢なお転婆、いやお天馬娘だ」


 家康は少女の果敢な姿を思い出し、感嘆のため息を漏らす。


「エゲレスからやってきたウィリアム・アダムズが、遙か北の国には『わるきゅうれ』という天馬に乗った戦乙女の伝説があると話しておった。さしずめあやつはこの日の本の『わるきゅうれ』だな」


 しばらくして伝令が走り込んできた。


内府だいふ殿、小早川殿が大谷吉継の陣に攻め入りました」


 小早川正秋の寝返りの報を聞き、家康はゆっくりとうなずくと、手に持った軍配を天に掲げた。


「戦乙女が勝利を運んできてくれたようだ。皆の者、そろそろこの天下分け目の大いくさに決着をつけようぞ」


 陣の中で、一斉に時の声が上がる。戦場に響く叫びはますます激しさを増し、土煙とともに空に舞い上がっていった。

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