花のお江戸の肩矢ぶり★御天馬隊見参!

不二原光菓

第1話 肩矢の少女(1)

 吹き付ける向かい風が容赦なく少女の華奢な身体を襲う。激しい気流にともすれば投げ出されそうになりながら、少女は愛馬の背に顔を埋めるようにしてしがみついていた。後ろで結んだ頭巾の端がバタバタと音を立てて背中を叩き、細い手は手綱を握りしめ、負けるものかとばかりに紫色の唇を噛みしめる。

 直接冷たい風が顔に当たらないようにうつむいてはいるが、白頭巾で覆えない目の周りはもう痛みを越えて感覚すら無い。どうせ、前を向いても何も見えない。早朝の雨のせいで上空まで濃い霧が立ちこめている。

 相当な速さで滑空しているはずだが、こうも周囲が白いと、まるで白い箱の中に閉じ込められているようだ。果たして本当にすすんでいるのかどうかすら定かではない。

 気力がみなぎっているときには結気ゆうきが彼女と愛馬を取り囲み、かなり速度をあげて飛行しても風圧や冷気から彼らを守ってくれる。しかし今は疲労が結気の織りをほころばせ、彼らを包む空間はずたぼろで、すでにほとんど障壁の体をなしていなかった。


 本来なら上野城から目的地の戦場まで、まっすぐに向かえる天馬に乗れば半刻もかからない距離である。しかし、視界を奪われ方向すら解らないこの状態では、果たして目的地に近づいているかどうかすら解らなかった。

 だが、良いこともある。この霧は白い天馬の姿を隠し、人知れず自陣に近づくための格好の隠れ蓑になっていた。待ち伏せる罠や間諜が跋扈する地上を馬で駆け抜けるよりも、悪天候でも天馬を駆るほうがずっと早く安全に目的地に着くはずだ。


「あと少しよ。銀香ぎんが、がんばろう」


 少女は天馬の首に右手を添えて、自らにも言い聞かせるように話しかける。天馬は答えるように大きな羽を数回羽ばたかせた。だが、その左の羽には血しぶきが飛び散っている。すでに褐色に変った血の元をたどれば、行き着くのは少女の左肩。血にそまった細い肩は人質救出の際に、敵方が放った矢で背後から刺し貫かれていた。

 伏見での探索、そして不眠不休の救出作戦の際の手負いで、少女の体力は限界に近い。唇が切れるほどかみしめて、ともすると飛びそうになる意識をなんとかつなぎ止める。


「さて、着くのが早いか、体力が尽きるのが早いか……」


 冷たい風をできるだけ肺に送り込まないように、ゆっくりと鼻で息をしながら、血染めの白装束に身を包んだ少女は馬体から大きく身を乗り出して絶望的に白い眼下を眺めた。風はビュウビュウと傍らを行き過ぎ、まるで永劫とも言える時が過ぎていく。


 気力も潰えそうなその時。

 天馬の耳がピクリと動いた。立てられた両耳がそろって左方に傾く。耳の向いた方向に馬首を変え速度を緩めてしばらく飛ぶと、乗り手にも風に乗ってかすかに鉄砲の音と地響きにも似た叫び声が聞こえ始めた。

 やはりこの方向で間違っていなかった。

 少女は、安堵のため息をもらす。反動で吸った息とともに、鼻腔にどことなく焦げ臭い匂いが飛び込んできた。

 白馬は一旦高度を上げると、今度は風を切って降下し始めた。速度が上がったことによりさらに強い向かい風が吹き付けて人馬を揺らす。矢羽根に風が当たり刺さった矢がブルブルと震えるたびに、少女は顔をゆがめて歯を食いしばった。開いた矢傷から止まりかけた血がまたじわりと滲む。しかし肩に目をやることもせず、少女は霧の中を突き進んだ。

 こちらの方角とは解っていても肝心の戦場の様子がはっきりわからないのは極めて心もとない。時折気まぐれに空いた霧の隙間からちらりと地上が確認できても、両軍が入り乱れている上に土煙が立ちこめてどこが自陣なのかどちらが優勢なのか判断が付かなかった。

 合戦はすでに始まっている。急がなくては。少女の焦りを汲んだのか、白馬はさらに速度を上げた。


 次第にビュウビュウと西南の風が吹き始め、上空の雲が流れ始めた。

 しっとりと霧にぬれた少女の全身は、風に体温を奪われて氷のように冷えきっている。頭巾の下でまっすぐ一文字に結ばれた形の良い唇は、普段の桜色から紫色に変っていた。しかし、少女は血の気を失った白い顔に不敵な笑みを浮かべて、ひたすら天馬を駆る。

――強い風は僥倖、程なくこのうるさい霧を完全に吹き飛ばしてくれる。

 彼女はさらに高度を下げた。 

 と、不意に流れ矢が傍らをかすめた。霧でわからなかったが、思ったより低く飛んでいたようだ。慌てて手綱を引いて馬首をあげると、左右に広がった羽が力強く羽ばたき、再び矢の届かぬ高さに舞い上がる。

 その時。まるで芝居の幕がさっと左右に分かれたかのように、霧が晴れた。

 日が射して、色を取り戻した下界。くっきりと眼下の地形が少女の目に飛び込んでくる。紅葉で色とりどりのこんもりした絨毯を思わせる山々。手前が桃配山ももくばりやま、そして左手には味方の山城が築かれている松尾山、前方の敵陣の後ろには笹尾山。戦場を貫くように川が二本流れている。そして、山々に囲まれるように広がった草っ原では今まさに激しい戦いが繰り広げられていた。

 これこそ後世、天下分け目の一戦として有名な『関ヶ原の戦い』である。


 銃声が響き渡り、いとも簡単にばらばらと人が倒れる。火縄銃は精度の悪さや、連続で撃てないという欠点はあるもののその威力は凄まじく、薄い甲冑の胴であれば貫くことができた。そこかしこに散らばった屍を土塊つちくれのように踏み越えて、槍を構えた軍勢が走ってゆく。

 その光景はこの世の物とは思えず、まるで絵巻が動いているかのようだった。ここでは命は塵よりも軽く、ただ狂気のみが支配している。叫びや銃声、爆発音、激しい音が耳いっぱいに響く。しかし少女は衝撃のあまり一切の音が消え、なぜか底冷えするような静けさの中でその酸鼻な光景が繰り広げられているような錯覚に陥っていた。

 彼女を我に返らせたのは、鋭く敵陣に切り込むひときわ目を引く赤い軍装の一団だった。


「あれは、井伊殿の赤揃え。あの勇猛な御方が引くことは無い。となるとここが最前線か」


 井伊直正は徳川四天王の一人。『赤鬼』と呼ばれ徳川軍の先鋒を務める勇猛果敢な荒武者である。彼の率いる井伊軍は軍装を赤にそろえ、音に聞こえた激しい戦いぶりで、常に対峙した敵の心胆を震え上がらせていた。


「はて、桃配山に陣を敷いておられると伺ったが」


 桃配山は壬申の乱で勝利を収めた天武天皇が陣を構えたという言い伝えのある場所である。大殿は縁起が良いとのことでまずはそこに陣を構えているはずだった。しかし、山の上は閑散として、本陣はすでに移動している様子である。

 目を転じるとなんと敵の本陣がある笹尾山の真ん前に厭離おんり穢土えど欣求ごんぐ浄土じょうどの文字を黒く染め抜いた白い旗が並んでいるではないか。大殿が自らが前線に出て鼓舞しないといけないほど危ない状況なのか。目を皿のようにして晴れてきた地上を観察した少女の顔が曇る。

 見る限り戦いは伯仲はくちゅうしていた、どちらが勝ってもおかしくない。しかし、このまま時間が経つと軍勢の多い敵側が有利なのは火を見るより明らかだった。今は日和見を決め込んでいる武将達も、どちらかの軍に少しでも勝利の臭いが漂えば、勝ち馬に乗ろうと雪崩を打って兵を動かすだろう。そうなれば、後はなし崩しだ……。

 天馬の姿を見た地上の武士達からどよめきが上がる。飛んできた弓矢をかわしながら少女は天馬の高度を下げた。鉄砲の音がして、白馬の羽根が空に飛び散る。

 体勢をくずして急降下する天馬。少女は投げ出されそうになって銀色のたてがみにしがみついた。

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