第7話
「加藤俊彦、三十五点」
「あー、先生ひでえよ点数バラすなんてー」
クラスでいつもおちゃらけている加藤が満更でもないように席を立って答案用紙を受け取りに行った、クラスからはどっ、と笑いがおこる。
まさかとは思うが笑いを取るためにわざと低い点数に抑えたのだろうか、正直あんな簡単な問題が三十五点というのは俄かに信じられない、授業を聞いていれば解けるような安易な問題だ。
「木下成美、百点」
今度は「おー」や「すげー」といった声が巻き起こる、さっきまではいちいち点数を発表していなかったのに――。仕方なく衆人環視の中、答案用紙を取りに行く。
「みんなも木下を見習って頑張るように」
余計なことを言わないで欲しかった、自分が浮いた存在だと分かってからはなるべく目立たないようにしているのだから。
――成美ちゃんはどこの小学校から来たの?
私立聖望学園の中等部は小学校からのエスカレーター組が殆どで、中学校から転入してくる生徒は僅かだった、それでも最初は話しかけてくるクラスメイトが何人かいて、宣美も当たり前のように友達になれるものだと思っていた、何気なく聞かれたその質問にも当然普通に答えた。
近くで聞いていた男子が驚いたようにコチラに視線を向けているのを見ても理解することは出来なかった。その日から自分に話しかけてくる女子はいなくなり、代わりにチョンと中傷してくる男子が現れた。
在日朝鮮人が差別される事を理解した所でどうする事も出来ないと悟ってからは、少しでもクラスで目立たないように生きていこうと努力していた、そんな気持ちはお構いなしにクラスからは拍手まで起こると、宣美は椅子に座って下を向いた。
この中学校に入学してから三ヶ月、すでにクラスにはいくつかのグループが出来上がっていた。加藤俊彦のような騒がしい連中が集まったグループ、勉強が出来るグループ、大人しく自分の意見はあまり主張しないグループ。大きく分けると三つのグループが更に枝分かれして一つのクラスを構成していた、この中ならば勉強出来るグループに宣美は分類されるのだろうが残念ながら外国人枠はないようだ。
違う――。
同じ外国人でもイタリアやフランスのハーフやアメリカ人だったらきっと仲間に入れて貰えるに違いない、朝鮮人は別格なのだと分かっても原因は分からなかった。
朝鮮学校ではいかにアメリカや日本が悪い国、世界を滅ぼす危険な国だと叩き込まれた、植民地時代に日本から受けた残虐非道の数々は末代まで許すことは出来ない、許してはいけない。
偉大なる金日成総書記万歳――。
くだらない、小学生ながらに朝鮮学校の教えが間違えている、いや、脚色、捏造したものだと思っていた。疑問に感じたら自分で調べる、例え親でも教師でも正解を述べているとは限らない。
図書館で歴史の勉強をしていると学校での授業がいかに自己保身や政治思想を国民に植え付ける為の茶番であると学んだ、まんまと洗脳されて日本人を毛嫌いする単純な生徒もいたが、殆どの生徒は何も考えずにやらされているだけといった具合だった。
それもそうだろう、日本で生まれ育ち、周りには日本人だらけ、これでは自分が朝鮮人だという自覚すら持てない。
学べば学ぶほどに朝鮮半島で起きた歴史は自業自得、日本やアメリカを目の敵にするのはお門違いだと考えるようになってきたが、勿論周りの人には言えなかった、そんな事を口にすれば自分は日本人でも朝鮮人でもない得体の知れない何かになってしまう気がした。
だからこそ日本の中学校に入ることは宣美の感覚を正しい事だと肯定してくれる環境だと期待した、しかしそこで待っていたのは朝鮮人を差別する日本人だった。
朝鮮人が日本人を毛嫌いするようにまた、日本人も朝鮮人が嫌いなのだ。理由は分からない、歴史的に見ても朝鮮人が日本人に何かした記録はないのだから。
とは言え、女子生徒は話しかけてこないだけで危害を加えてくる事もない、山岡のように執念深く付きまとう男子生徒も稀だった、そう言えば今日は山岡の姿が見当たらない、風邪でも引いたのだろうか。
「木下さん、木下成美さん」
テストの返却も終わり授業が始まって少し経ってからだった、小声で名前を呼ばれて振り返ると、真後ろに座っていた女子生徒が消しゴムを貸してほしいと両手を合わせている、もちろん彼女とは友達でもなければ会話をした事すらないので名前も思い出せない、勉強は出来るが関心がない事に関しては徹底して排除する極端な所がある事を宣美自身も自覚していた。とは言えクラスメイトに消しゴムを貸すくらいの常識は持ち合わせている。たとえ嫌われていたとしても。
「どうぞ」
可愛げのない黒い筆箱から、日本一量産されているであろうメーカーの消しゴムを彼女に渡すと、満面の笑みで「ありがとう」と小声で呟いた。
パッチリとした二重に可愛らしい丸顔、そう言えば彼女はクラスでも目立つメンバーの中でいつも中心にいる、これは日本の学校に限った事ではない、目立つグループには必ず一人か二人可愛い女の子が存在する、まるでクラスの中心グループになるためにはそれが条件であるかのように。
「一緒にお昼食べない?」
消しゴムを貸した女子生徒から声を掛けられたのは四時間目の数学の授業が終わった後だった、この中学校には給食がない。各自持参したお弁当か購買でパンを買って食べることになる、宣美は後者だった、毎日が忙しいオモニにお弁当をお願いすることは憚られた。
「私とですか?」
何かの罰ゲームだろうか、周りを見渡してみたがコチラを気にするような生徒はいなかった。
「うん、迷惑かな?」
遠慮がちに聞いてきた彼女に悪意があるようには見えなかった、正直に言えば一人のほうが気が楽だが、断るのも躊躇われる。
「あ、はい、じゃあ」
名前も分からない彼女は「良かったー」と言うと愛らしい笑みを浮かべて自席に宣美を促した、どうやら二つの机を向かい合わせにして食べるようだ。彼女はさっそく鞄からお弁当を取り出して可愛いランチクロスを解き始めた。
「あの、私、パンだから」
なぜか顔が赤くなるほど恥ずかしかった、きっと彼女のお弁当は色とりどりの食材が可愛らしく陳列しているに違いない。
「そうなんだ、じゃあ待ってるね」
太陽のような笑顔、こんな女の子だったら誰からでも好かれるだろう、例え朝鮮人でも、その可愛らしく屈託のない素振りは麗娜を思い出させた。
購買には男子生徒がごった返している、女子も数名いるが圧倒的に男子が多い、女の子はお弁当を持参するものだ、それが当たり前だろうと暗に指摘されているようで初めは気後れしていたが、今では何も感じなくなっていた。
いつもどおりコロッケパンとカツサンドを手に取った所で手が止まる、茶色いパンを元の位置に戻して、ハムとチーズのサンドイッチと紙パックの牛乳を購買のオバサンに見せて千円札を渡した、お釣りを受け取ると「今日はこれだけかい?」と心配そうに話しかけてきたオバサンを無視して急いで教室に戻った。
「木下さんそれだけ?」
そう言った彼女のお弁当箱も信じられないくらい小さかった、フルーツまで入っているのでメインの食材はほんの僅かだ、それでお腹いっぱいになるのだろうか。
「うん、あんまり食欲ないから」
薄いサンドイッチをあっという間に食べ終えた、しかしまるで食べた気はしない。
「木下さん、私の名前わかる?」
「え?」
しまった、さすがに名前も分からないのは失礼ではないか、既に入学してから三ヶ月が経っている、しかし今更調べようもない。
「――ごめんなさい」
彼女はクスクスと口元に手を添えて笑っている、しかし馬鹿にしたような笑いではなく「だと思った」と言って綺麗にカットされたリンゴを口に運んだ。
「典子、長崎典子」
「あ、ええと、木下成美です」
彼女と視線が交差したまま時間が止まった、数秒すると二人でなにが可笑しいのか笑い声が上がる、そう言えばこの中学校に来てから笑うのは初めてかも知れない。
「成美ちゃん最高、私ずっと話したかったんだよね」
――成美ちゃん。
同級生に、そんな風に呼ばれる事は初めてで、脇の下がむず痒い感覚がしたが、なぜかすごく心地良かった。
「長崎さんは――」
「典子でいいよ」
小さな水筒に入っているのは紅茶だろうか、ふわりといい香りがした、彼女はそれを小さな口でフーフーしているが、その姿がまた可愛らしい、男子生徒だったらこの姿を見ただけで恋心を抱くだろう。
「えっと、典子――、はどうして私と?」
彼女はいつもクラスの目立つ女子グループと一緒にお昼ご飯を食べていたはず、そこに思い至った所でやっとコチラに向けられた冷たい視線に気がついた。
ヒソヒソと聞こえるかどうか、ギリギリの声量でチラチラと様子を伺っているのは昨日まで彼女が一緒にいた人達だ、もしかして喧嘩でもしたのだろうか、巻き込まれるのは面倒だな、と考えていると彼女は机から紙を取り出して渡してきた、どうやら先程のテスト用紙だ、九十五点、一問だけ間違えている。
「あの先生さあ、いつも一問だけすっごい難しい問題出してくるんだよね、きっと百点取らせない為に」
性格悪いよね、そう言いながら紅茶に口をつけると「あっつ」と顔をしかめた、確かに全体的には難易度が低い問題だが最後の一問は少し応用が効いていて解くには時間が掛かる。
「それなのに、成美ちゃんはいつも百点、まいった、私の負け」
両手を軽く上げて降参のポーズをしている、どんな仕草も映画のワンシーンのように様になる女の子だ。
「負けって……。あんまり変わらないよ」
「とにかく、成美ちゃんに興味が沸いたの、だから友達になりたくて、いや?」
今度は机に手をついて乗り出してくるように顔を近づけてくる、長いまつ毛が至近距離でパチパチとまばたきをする、おもわず少しのけぞった。
「あ、その、嫌じゃないんだけど、いつものお友達は大丈夫なのかな?」
そちらを見ることは出来ないが刺さるような視線は気のせいじゃないだろう、それに彼女も知っているはずだ。宣美が在日朝鮮人だということを――。
「うん、大丈夫、疲れちゃった。あの子達といるの」
猫舌なのだろうか、やっと紅茶を飲み終えた彼女は再び水筒の蓋に注ぐと「飲む?」と差し出してきた。やんわりと断る。
「疲れたって……」
この会話が視線を送る人達に聞こえていないかハラハラした。
「なんかさ、あの子達の会話って人の悪口か男の子の話ばっかりなんだよね、つまんなくて」
女子中学生にとって恋愛話や他人の悪口は青春を謳歌する上で欠かせないような気もしたが、それがつまらないのかどうか、そんな話をする相手がいない宣美には分からなかった。
「それに成美ちゃんて在日なんでしょ、あのさ、こんな事聞いて気を悪くしないでね、北と南どっちなの?」
少しだけ声のトーンを落としたのは彼女なりにデリケートな問題だと理解しているからなのだろう、それにしても先程のテストの点数といい聡明なのが分かる、朝鮮人は朝鮮半島出身の人間、中学生ならば精々そのくらいの認識だろう。
朝鮮半島南北分断――。
北朝鮮と韓国は元々一つの国だった、それこそ日本から植民地にされていた1945年までは、しかし日本が太平洋戦争に敗北した事により開放、晴れて自由の身、と当時の人達が考えたのかは分からない、しかし今度は戦争に勝利したアメリカとソ連が朝鮮半島の所有権で揉めだした、要するにどちらの同盟国にするかだったが、結局南北を二つに分けて上はソ連、下はアメリカに決定した。朝鮮人からしてみたらいい迷惑だ、例えば日本が明日からは東と西で真っ二つに分けられて、これからは別々の国です。と言われても混乱しかないだろう、東京と大阪で睨み合いの戦争になるなど考えられない。
とは言え敗戦国に選択権などある訳もなく、1948年にアメリカ統治の韓国と、ソ連統治の北朝鮮が建国された。当然それぞれの国の政治思想が反映されて韓国は資本主義、北朝鮮は社会主義国家が作られる、それから僅か四十年、大した歴史もないままに二つの国はまったく別の国として成長を遂げた。
「私のお爺ちゃんとお婆ちゃんは――。北の出身」
まだ南、つまり韓国の方が良かった、北朝鮮はあまりに閉ざされた国家で何をしているか分からない不気味さがある、一方の韓国は漢江の軌跡と呼ばれるほどの経済成長で世界に肩を並べるほどの経済大国になりつつある。
日本にしても韓国にしても、結局アメリカが正しかったのではないか、ソ連は崩壊し時代遅れの社会主義が横行した故に、もともと同じ国なのに天と地ほどの差がついた。
「北朝鮮なんだ、金日成よね、いいなあ」
「え?」
聞き間違いだろうか、北朝鮮の歴史を知っていて「いいなあ」なんて感想は蛍の墓をみて美味そうな飴だな、と言っているようなものだ、真意を確かめたかったがチャイムが鳴って昼休みは終わりを告げた。「終わったら一緒に帰ろ」と言った彼女に曖昧な返事を残したまま午後の授業を受けたが、まるで頭には入ってこなかった。
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