第6話

「逃がさねえよブス」


 しまった、まさかつけて来るとは思っていなかったがもう遅い。


「オンニー、大丈夫!」


 麗娜が駆け寄ってくるが、蹴られた背中の衝撃で声が出ない。


「なんだこいつも朝鮮人か、なんだよオンニって」


 三人は大声で笑いながらオンニ、オンニと繰り返している、しかし言い返すことすら出来ない。


「なんなのこの不細工な人達、お姉ちゃんの知り合い?」


 麗娜は急に冷めた目を三人に向けた、その白けた話し方と表情は心底男達を小馬鹿にしているのが分かった。三人は言われたことが理解出来ずに戸惑っている。 


「バカ丸出しの不細工な顔ね、あなた達、女子にモテないでしょ?」


 どうやらこの美しい少女から罵倒されているのが自分達だと理解すると、みるみるうちに顔を赤くしてまくし立てた。


「なんだとテメエ、くそ朝鮮人が!」


 さすがに八歳児に手を上げることは出来ないようで少し安心した、しかし窮地に立たされている現実に変わりはない、なんとかこの場から逃げださなければ。


「本当、気持ち悪い、なんか臭いし、どっか行ってよブサイク」


 臭いのはおそらく自分だ、しかし麗娜は自分よりはるかに大きい男子にもまるで臆する様子がない。


「調子にのるなよガキ」  


 山岡がついに切れて麗娜の髪の毛を掴んだ、その瞬間、まるで近くでサイレンでも鳴っているのかと思うほどの大声で麗娜が叫びだした、何を言っているのか分からないが「ギャーーーー」だの「変態ーーーー」「助けてーーーーー」といったニュアンスの言葉だ。 


 何事かと住宅街から人がわらわらと出てくる、さらに巡回中だった警察官が二人、自転車に乗って駆けつけた。


「おまえらー、なにしてるんだ!」


 山岡達は蜂の子を散らすように一目散に逃げていったが、警察官の一人が自転車で追いかけていった。そしてもう一人が近寄ってきて麗娜の前にしゃがんだ。


「お嬢ちゃん大丈夫かい?」


「うん、大丈夫だよ、ありがとう」  


 若い警察官は目を細めてウンウンと頷いている、続いて宣美の方にやってくると血が滲んだ膝をみて絶句している。


「大変だ、血が出ているじゃないか、急いで消毒しないと」 


 近くの交番に来るように促されたが、自宅がすぐそこだと告げて断った、しかし事情聴取もしなければならないという事で結局、最寄りの交番にお世話になる事にした、恥ずかしいことに若い警察官に交番までおんぶされて。


 つくやいなや水道水で傷口を洗い流してから消毒し、絆創膏まで貼ってもらった。警察官は朝鮮人にも優しいのだろうか、いや、彼はまだ自分たちが日本人だと思っているに違いない。 


「大丈夫かい、まだ痛むだろう」


 交番の奥にある畳敷きの居間で麗娜と二人で座っているとオレンジジュースを持って先程の警察官がやって来た。 


「いえ、大丈夫です、本当にありがとうございます」 


 帰りはパトカーで送ってあげるからと、冗談か本気か分からない事を言って若い警察官は笑った。


「で、あの悪ガキ達は知り合いなのかい」


「はい、同級生です」


「まったく、女の子に怪我をさせた上に、こんな小さなお嬢ちゃんにまで手を出すなんて、許せないな」


 同僚が追いかけ回しているから安心して、と付け加えた。


「オンニは気が優しいからイジメられちゃうんだよ」


「麗奈!」   


 外ではお姉ちゃんと呼びなさいと言いかけて止めた。おそるおそる警察官の顔をのぞき見るとパチパチと目をしばたかせている。


「――君たちって、もしかして在日の子達なのかな?」 


 ああ、これで優しくしてくれたこの警察官も敵に回るのだろうか、朝鮮人なら先程の男の子たちは何も悪くない、よくも騙してくれたな、さっさと家に帰れと罵倒される未来を想像する。


「僕も母親が韓国人なんだ、帰化してしまったので戸籍は日本なんだけど、そうか、もしかしてそれが理由で……」 


 え、一瞬意味が理解出来なかった、在日でも警察官になることが出来るのだろうか、帰化とはなんだろう、聞いたことがあるような気がしたが思い出せない。


「はい、まあそんなところです」


 警察官は口をへの字に曲げてうーんと唸っている、未だにそんな偏見が横行している事に驚愕している様子だった。


「今日の事は事件にした方が良いんじゃないかな、君は怪我をしている、これは立派な傷害罪だよ、幸い犯人も分かっている」


 事件、そんな事になったら親に連絡がいってしまうのではないか、朝鮮人だから虐められていると知ったら二人はショックを受けるに違いない。


「いえ、これはバランスを崩して転んだだけですから」


 自分が我慢すればいい、親にバレるのだけは何よりも避けたかった、若い警察官に懇願した、理由は自分でも分からない、とにかく親にバレるのは、迷惑をかけたくないと訴えた。


「君の気持ちは分かる、でも大人を頼って良いんだよ」


 唇を噛んで下を向いた、麗娜は不思議そうに宣美の顔を覗き込んでいる。しばらくその体制から動かなかった、しびれを切らしたように若い警察官は話しだした。


「わかった、今回のことは見なかった事にする、その代わり――」 


 辛いことや、悲しいこと、とにかく自分では解決が出来ない、親にも言いたくない、そんな時はこの交番に来て僕を訪ねなさい、と若い警察官は言った、調書を取ろうと用意していたバインダーを閉じると自分の名前を少し小声で名乗った。


「僕の名前は、林瑞俊イムソジュン、日本名は松本亮二まつもとりょうじ、呼びやすい方で呼んでくれて構わない、君たちは?」 


 亮二は優しい笑顔で二人を交互に見た。


「朴麗娜でーす」


「宣美です」


 うん、いい名前だ、そう言って亮二は二人の頭に大きな手を乗せてガシガシと撫でた、自分達が朝鮮人だと知っても優しくしてくれる大人がいた事に安心した、世界中の人々が敵な訳じゃないと分かると涙がポロポロとこぼれた。


「麗娜、宣美、これからは友達だ、何でも相談するんだぞ」


 三人で指切りげんまんすると笑顔で交番を後にした、麗娜は亮二は中々ハンサムだと帰り道で熱弁している、そして今日の出来事は二人だけの秘密だともう一度約束すると、数時間前には考えられなかったくらいに気分は清々しかった。黄昏のなか麗娜と並んで歩いていると、未来に向けて微かな光芒を感じずにはいられなかった。

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