第1話 転校の日、飛び降り少女、母のメッセージ


 僕は新しい学校の校門前に立ち、古びたレンガ調の縦長建築物の屋根軒下にある黄金色の紋章をぼんやりと見あげた。

 中心にある山のシルエットは、天音島のシンボルである天音山だ。それに向かって立つ鳥居は、なんといってもこの島の信仰の強さを強調しているように思う。真ん中にドカンと「天音」とよくできた印鑑で刻印されたような字体がこの島、そして学校の名前。

 天音高校、と僕は小さい声で呟く。

「グッドモーニング、転校生さん」

 鈴のような元気な声がして、隣を見るとしゅっとした目尻と力強い笑みの女子生徒が右手を差し伸ばしてきている。

「ナイストゥ、ナイストゥミッチュー、真島春香、同じクラスの学級委員長よ、サンキュー」

 一本も仲間外れのない毛髪を後ろに整然と纏めた春香は、全てにおいて脂色のブレザーと相性抜群。

「日本人です」

 いや、日本人の血が流れているかは、分からない。でも一応、日本育ちなので。

「そうなの、ハーフっぽいからてっきり――」

 手を引っ込んで、気まずそうにした春香。

「あるあるですから」

 そう、田舎にいけばいくほど、あるある。だから最初に「日本人です」と断っておく。宇宙語を忌避するためだ。それでも、宇宙語を使われ続ける年配の方をどうするかというと、ギブアップ。

「はじめまして、モテ期がまだの茂木ナナシです、よろしく」

 今度は、僕から手を差しのばした。

 一瞬、ポカンとした顔をされた。冗談がキツかったかもしれない。

「んな訳、ないよね?」

 顎に指を当てて、独白のように春香は呟く。瞬く間、表情を取り繕って、

「自己紹介が、日本のおやじですね」

 ふふ、と笑いながら僕の手を軽く握る。そして、

 あっ、と何かを思い出したかのようにポケットから小袋を取り出し、僕に渡した。

 さらさらと音がする白い小袋を受け取って、表面に書いてある字を読む。

「お清めの塩、なんでこれを」

 身を見まねだ、と言わんばかりに春香はもう一袋の塩を破って、左肩から右肩の順に、軽く振りかける。最後に、残った塩を自分の頭にかけた。

「ジャパニーズカルチャーよ」と、ぐるりと体を一周回して、決めポーズ。

 出た、宇宙語。

「最近いろいろあるからね学校、この島、だから君も――」


 キャーーーーーッ!


 突如、校内の奥から甲高い悲鳴が聞こえた。

 春香ちゃん、と一人の女子生徒が走って来て、僕を警戒するように一瞥してから、春香の耳元で呟く。

「――みさんが、部活棟の屋上に!」

 春香は一瞬口が開いて、また表情を取り繕って、行こう、と女子生徒の手を引っ張って走っていった。僕はジャパンニーズカルチャーをポケットに突っ込んで、なんとなく彼女たちの後を追った。


 東を背に建てている部活棟は、朝日を背負っている。春香の姿を見失った僕は見物人の中に割り込んで、目を凝らして屋上の人影を捉える。

 女性のシルエットがその端にぎりぎり立っている。確か、何みちゃんとさっきの女子生徒が言った。

 保守的なロングスカートは、風に摘ままれたように乱暴に靡く。その華奢な体はいつバランスを崩してもおかしくない状況だ。

「勇美ちゃん、同じクラスの子よ」

 いつの間にか隣に立っている春香は首を上げたまま言った。僕に、多分。そして彼女は勇美に向かって声を上げる。

「勇美ちゃん!頼むから戻って」

 そうだ、そこから離れろ、話を聞こう、と野路馬たちが相次いで叫ぶ。

 そんな中に交えて、奇妙な呟きもあった。

「祟りよ、きっと」

「やばい、笑わなきゃ」

 笑う?周りの生徒たちの顔を見渡すと、背筋が寒くなった。

 みんな、笑っている。

 人が飛び降りようとしているのに、笑っている。

 大半は、目と口が分離しているような印象を受けた。中にも、愉快に、人の苦しみを楽しんでいるような、陰湿な笑いを浮かべたものもいた。特に目立っているのは、飛び抜けて体が大きいクマみたいな男と、その脇にいる二人の女。

 なんなんだ、こいつら。 

 屋上に視線を戻すと、さっきまでいなかったもう一つの“影”が、勇美の後ろやや斜めに現れた。逆光のせいか、もやっとしていて人なのかは定かじゃない。手の平で光を覆うと、“影”の存在が確かになった。

「あれは?」と僕は独り言のように呟く。「誰かが危機介入に入ったのか」

 春香は僕を見て、首を傾げた。日本語だけれど、まるで僕の言ったことを理解できない、しかし意味ありげな顔とも捉えられる。彼女は僕に両手を伸ばしてきた。

 親指で、むにっと僕の口角を押し上げる。

「ナナシくんも、笑って、ね」

 すぐさま彼女は屋上に向き直して、ゲームのNPCのように声を上げ続ける。

 笑えない。

 なんで誰も、屋上に駆けつけて、助けないのか。それに、笑うって一体、何なんだ。

 一山の不気味な連中の一人になって見物をするのが、なんだか場違いで気重になってきた。僕は手刀で衆を切り裂いて、静かに離れる。 

 すると、危ない!と誰かが叫んで、反射的に振り返って見上げた。

 勇美は片足を持ち上げた。

 前列の群衆は自分が潰されないために、親切に穴を開けて、ざざめくボリュームを上げる

 ああ、できれば見たくないのだ。

 ポケットに手を突っ込んで、踵を返す。

 突然、母の声が耳元で呟いて、足が止まった。


『名無し、iは頼ム、島ヲタスケテ』


 声は物理的なものではない。それは僕が脳内で作り上げられた母の音声。何度も何度も聞いた、僕のイメージした母、茂木マリアの音声だった。

『名無し、iは頼ム、島ヲタスケテ』

 それは、僕を置いてけぼりにしてこの天音島にやってきて、それっきりになった母が、僕宛に届く最後のメッセージだった。

 それは半年も前のある日のこと。

 ピリリリンと受信通知が部屋中を響かせ、僕は今まで一方的に送られた十数通の一通として積み上げられた“最後のメッセージ”をタップし読み上げる。

『名無し、iは頼ム、島ヲタスケテ』

 今までの「ごめん、今日も帰れなかった、誕生日おめでとう」「元気?天音島の特産を送ったけど届いたかな」「仕事が忙しい、写真を送ってくれないかな」など、一応母親らしいものと、違う宗旨のメッセージ。

 それが最後で、毎月、多くて毎週メッセージが届く契りが何か、あるいは誰かによって千切られた。母の失踪を知ったのは、彼女の友人であり、僕の面倒を母親から任されたアスさんからだった。

 ファミリーレストランで。

「ごめん、なっくん、マリアさんはまだ――」

 見つからない、と嗚咽まじりに言葉を飲み込んだアスカ。 

「お母さん、どこ?」

 僕とアスカが座っている席の近くまで迷い込んだ、迷子らしき女の子が泣いている。アスカが声をかけようとした時、こら、一人であっちこっち行っちゃうから、と母親らしき女性が女の子を背後から抱き上げて、慌てて去って行った。

「アスカさん、ありがとう、僕は大丈夫だよ」

「大丈夫って、お母さんが失踪したのよ?」

 声を荒げたアスカに、僕はその不憫な目から視線を逸らす。

 失踪、失跡、消える、ロスト――、その意味の重みは、言葉を変えながら自問自答しても、見つからない。消息を失ったままの今日に至って産みの親がもうこの世にいないかもしれないというのに、実感とやらの感情は薄く、どこかそれは他人ごとのように思ってしまう。

「お母さんは、俺を置いて、天音島を選んだ、仕事を選んだ。でも、だからって別にムキになってるわけじゃない。俺だってもう大人だ。友達もたくさんいるし、勉強もできる。スポーツの才能もあって、ゲームだってセンスがある。そうだ、僕はバイトしようって話をアスカさんにしなかったっけ?このファミレスで、昨日面接に来たの、高校生OKだって。いつまでも、アスカさんに迷惑をかけるわけにはいかないからね――」

 出し抜けに、顔がふんわりとした暖かいものに覆い被されて言葉を遮られた。アスカの胸だ。

「バカ、泣いてるじゃないのあんた」

 そう言われて気づく、アスカのニットセーターが湿っていること。

「大丈夫よ、刑事としてマリアを探すから、母親として君を育てるから!」

 顔にぽたぽたと、アスカの涙が打つ。

 僕が自然でいられるように気を遣った、そうに違いない。さもなければ、子供のように大人は泣かない。

 

 それから何ヶ月か立っても、母の消息はないままだった。

 僕は週末になると天音島を一望できる、I県のH市の渚にある「火山の恵み公園」に足を運ぶようになった。

 関東最大の足湯公園と称されるここは、標高が高く、足湯に浸りながら見渡せる景観が素晴らしいと口コミで見つけた。僕はここに来る理由は観光ではない。この公園と隣接している渚から10キロメートル離れている“天音島”が見えるからだ。

 写真をカバンから取り出して、天音山と照らした。あれを背景に、僕、母、アスカのツリーショット。黒いニットとよく似合う金髪の母、首に光に反射したルビー色の勾玉をつけている。そして、今の顔とさほど変わらない高校制服姿のアスカ――二人の“母”が5,6歳の僕を挟んでいて目一杯の笑みを顔に浮かんでいる。僕はというと、二人よりも無邪気で、口が裂けるくらい笑っている。

 一度だけ、母に連れていってもらったことがある。写真はその時に撮ったものだろう。記憶は朧だが、船になれなくて、泣いたのを覚えている。不機嫌なのはそのせいだろうか。

 母は仕事――民俗の研究調査のためだったので、ろくに遊んでいなかっただろうか、島に関する記憶は、まるで覚えていない。あ、二つの巨大な岩に登って、怒られたことは覚えている。それくらい。

 足湯に長く浸かった足は猿のお尻よりも赤くなったので、向きを変えて横の石段に足を乗せた。

『名無し、iは頼ム、島ヲタスケテ』

 スマホでメッセージを見返した。母の声をイメージして僕は何度となくその内容を黙読していた。

 アスカに、このメッセージを見せていない。見せれば、彼女――警察がより事件性として真剣に母親を捜査してくれるだろう。それでも、見せる気が起きない。理由をうまく説明できない。しいていえば、母が他の誰でもなく、僕に寄越した理由はきっとあると感じたから。何か、僕にしか見てほしくない、僕でなければならない理由はきっとある。あってほしい。

 そう、よね。お母さん。

 写真の母に問ってみる。

 名無しは、残念ながら、僕の名だ。もちろん、名無しとストレートに指名されたことは一度もなかった。僕の名は、名無しなの?と小さい頃に何度も母に聞こうとしたが、露骨な回答を想像して、腰が抜けてしまうので、聞かずじまいになった。

 なので、名無しと書いたのは、切羽詰まる状況を想定できる。たぶん。

 分からないのは、iは誰を指しているのか。アイランド、島のことだと一番最初に頭に浮かぶが、「島ヲタスケテ」と重複するので、違う。

 母はアメリカ人なので、英語の「自分」のiとも考えられるが、「あたしは頼む」――、やはりぱっとしない。なので、他の天音島の誰かなのか。

 行くしかない。

 確かめに行くしかない。

 そう、決意をした。

 いや、させられていた。

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