およいで

あ、この日だ。

頭から酒をかぶり、おろしたてのドレスにゲロをぶちまけられた瞬間そう思いました。

神様がやっとチャンスを恵んでくれたのだと。

心做しか遠くから鐘の音が聞こえ、お店のシャンデリアがキラキラと煌めき、床に落ちてきた光の筋の合間を縫って手を差し伸べられた瞬間、それが天使のものではなくボーイの田代さんの手だったこと気づく。

やっと現状を飲み込めたところで、髪の毛がシャンパンでベタベタになっていること、アルコールと食べ物が胃の中でドロドロに溶け合った吐瀉物の強烈な異臭をドレスから放ってることに気づき思わず吐き気を催した。が、私はもういい大人なので唇をぐっと噛みなんとか堪えられた。

「おい、モタモタすんな。あの客はやく出せ、出禁にしろ。出禁。」

「田代さん、3番テーブルのかたがお怒りで…」

「今忙しいの見てわかんねーのかよそれくらいお前が対処しろ!」

私の右腕を掴みツカツカとロッカーへと進んだ田代さんは荒々しく扉を閉めた。

「こんな忙しい日になんだよあの客、金落とせば済むって話じゃねーだろ。あーここらへんのドレスでいいよな、とりあえず着替えてきて」

田代さんの声は聞こえてるはずなのに何を言ってるのかさっぱり理解できていなかった。反応できずボーっと立っていると返事がない私を不思議に思ったのか、ドレスを探す手を止め私の方に振り向いた。

「あー、あみさん大丈夫?」

大丈夫?

あれ、大丈夫ってなんだっけ。私っていま大丈夫なんだっけ。

田代さんの言葉を何度も復唱してみた。大丈夫、だいじょうぶ、ダイジョウブ。

あ、田代さん、イライラしてる時の顔。

「大丈夫です!」

反射的に口から言葉が出てきたところで私、大丈夫なんだと理解出来た。

「でもさすがに気分悪くなったんでちょっと外の空気吸ってきてもいいですか?すぐ戻るので」

「あ、そうだよね。ごめん俺もイライラしてさ、無理しなくていいよ。治ったら戻ってきてくれるかな。ほら見てわかると思うけど、今日人手足りてなくて」

「はい!大丈夫です!」

口角をぐいっと上げ歯をみせる。

昔から嘘笑いが上手だった。親戚で集まるイベントでイヤミを言われたって上手に笑えたし、女子トイレで「あみってぶりっ子だよね、キモい」と親友だと思ってた子が悪口を言っているところに鉢合わせたときも、面接の際乗った満員電車で痴漢にあい時間に間に合わなかった日も、愛犬のハルくんが死んだ日も。顔から笑顔がぺったり張り付いてしまってそれが剥がれることはなかった。

田代さんが部屋から出たのを見計らい、ロッカーの荷物を全部とって裏にある非常ドアへと急いで向かった。

扉を開けると熱風に押されてよろけそうになる。夏のネオン街は色んな匂いがして気持ちが悪い。

長い長い階段を駆け下りる前にヒールを脱ぎ裸足で燦然と光る街をひたすら歩いた。

すれ違う人々が私の淡い青色のドレスを指さし笑ったり怪訝な顔をみせたりしたが気にならない。

見知った顔にもすれ違ったが、気まずそうに見て見ぬふりをしてくれた。まあもう会うことは無いだろう。

「イタっ」

そう歩きつづけていたら左足に鈍痛が響く。

足の裏を見てみると割れたガラス瓶が刺さっていた。あー死ぬほど痛い。けどどうでもよかった。ガラスを抜いて歩きつづける、血が出て傷口から菌が入って壊死しようがもうそんなの、私にはどうでもいい。

足の痛みを代償にしてでも会いたい人がいる、会っておかなければならない人が。

入り組んだところのビル三階にやっとたどり着き、カランカランと鐘がなる。

「いらっしゃいませー!あれあみちゃんだ!」

大きな瞳が私を捉えてさらに大きくなる。

「久しぶりやね、元気にしてた、ってえ!?どうしたのその格好やばいまって、ゲロ?お酒?何!?」

お店が暗くて遠くからは見えなかったのか、近くで私の惨状を目の当たりにしあたふたしはじめる。

「こんな格好でごめん、来てそうそうで悪いんだけど絆創膏持ってない?」

これ、と足の裏を見せるとユキちゃんの悲鳴がカラオケの爆音よりもお店に響き注目の的となった。


「もー!何してんの?こんな足で来るって、あーん痛い。どうしよう痛い。バイ菌入って足切る事にならない?死ぬ?明日直ぐに病院いこ」

ユキちゃんが汚れを丁寧に拭き取ってくれて、よくよく見てみると思ったよりざっくり切れていた。

こんなので死ぬわけないでしょ、ただの切り傷だと小突く。

私よりもあたふたして半べそで痛い?痛いよね?と消毒を塗ってくれている姿を見ていると安心して急にお腹が減ってきた。

「腹減ったなユキちゃん。まだ帰らないの?」

「ええ?まだ帰んないよ~、今日ちょっと忙しいんだよね。みすずさんがね、裏で待ってていいよって、ほら私の服に着替えてて」

「え、いいよ。私今酒と吐瀉物まみれで汚いから。」

「だめ、着替えて。ご飯作ったげるからいい子に待っててね」

そう右頬にエクボを作り笑った顔を見て、3年前のことを思い出した。

ユキちゃんと出会ったのは寒い冬の時期で、たしか年末だった気がする。雪が降っていた。

ピークが終わって一段落し、コップを拭きながら一服している時だった。

鐘が鳴ると同時に外の寒い冷気が入ってきて声をかけたらベロベロになったユキちゃんが入ってきた。

「やばい!めっちゃ雪、みて!ねえそこのおねーさんきて、はやく!」

「は?ちょっと、やめろって」

グンと掴む手が掴まれた腕が凍りそうなくらいキンキンに冷えていて首まで鳥肌が立った。

「うわ、まじだ。ちょー降ってんね」

「でしょお。あ、私のなまえ〜雪乃っていうの。生まれた時雪降ってたからだって、わらっちゃう、安直すぎない?」

「いいじゃん、可愛い名前だよ。」

そしたら振り返って、へにゃりと笑った。嬉しそうに、右頬にエクボをつくって。

その瞬間、ちょっと意味わかんないと思うけど生きててよかったとユキちゃんに救われてしまったのだ。

その後急に眠ってしまった彼女をお店に運んで、仕事を終えたあと起こしても起こしてもいびきをかいてぐっすり眠っていた。そのまま置いていくのはなんだか可哀想になったので家に連れ帰った。

お昼頃に目を覚まし、さっきと同じように悲鳴を上げる。何度も謝られたし何度も頭を下げられ、せめてご飯作らせてくださいと泣きつかれて作らせたわけだけど、速攻で作られたオムライスがなんとまあ美味しくって、そのまま友達になったのだった。

あの日のことを思い出しながら渡された洋服に身を包む。

ユキちゃんの匂いはふわふわしてて石鹸とか赤ちゃんみたいないい匂い。もったいなかったので煙草は吸わないでおいた。

2時を回ったころお店はCLOSEになり締め作業をおえた彼女が顔を出した。

「足大丈夫?あれ、煙草吸っても良かったのに」

「あーうん。空腹すぎて吸えなかった」

「ええなにそれ。あっみすずさん」

のれんから心配そうに顔をだしたのはここのオーナーだ。

「足怪我したって聞いたけど、どうした?」

「みすずちゃん久しぶり。すんませんなんか」

「ヤダ謝らないで。ほらちょっと飲んで帰ったら?もうお客さんいないし」

そう言って目元に笑いジワをみせた。みすず、なんて可愛い名前をしているが本当の名前は三郎で出会った時は髭が生えていたし筋肉ムキムキ。

それが出会ってまもなくの頃だった、三郎さんとして、ふたりで居酒屋に行った時もじもじ落ち着きがなくて告白されるのかなとか呑気なこと思っていたら深刻そうな顔をして、「前から女の子になりたかったんだ。あみちゃんみたいに華奢で小さいかわいい女の子」と打ち明けられた。

驚きすぎて何を言っていいかわかんなかったけどとりあえず、華奢で小さいは無理だと思うけど女の子にはなれるんじゃないですか、だって三郎さん可愛いし。と答えれば翌週からメイク講座が始まって今に至る。

みすずちゃんは本当に可愛い。仕草だって女の子らしいし、喋り方とか話の内容だって乙女そのものだ。それに目がキラキラしてる。恋する女の子の、あのキラキラで可愛い瞳。

私が化粧を教えたはずなのにどんどんと濃くなったメイクはなんともいえないが。

「最近顔出さないから心配してたのよ。今日だってなにがあったの?酷い顔」

「別に、大したことない。酒掛けられてゲロぶちまけられただけ」

「なにそのお客さん、最悪サイテークズゴミ。」

「コラ、汚い言葉やめなさい」

「だってえ」

横で鼻息を荒々しくさせ机をバンバンと叩き小学生みたいな暴言を吐いた姿を見て愛おしくなった。

「それで飛び出して逃げてきたのに、足に怪我したって?アンタってほんとう、ツイてない」

ハッ、とから笑いして見せた。

みすずちゃんの言う通り最近の私、とことんツイてない。

いつもなら難なくこなせることがいきなり出来なくなってしまう。

お酒をかけられる前に払い除ければよかったし、嘔吐してしまう前にボーイさんを呼ぶべきだった。

事前に回避できたことなのに私の判断が鈍ってしまったせいであんなことになってしまい、私だけじゃない他の人にも迷惑をかけてしまった。

「ね、ツイてない。飛び出してきちゃったけど今頃どうなってるかな」

「もうそんな店心配する必要ないよ、あみちゃんを足蹴にするやつなんて尚更。もうほんとに腹が立つ」

私より怒ってるユキちゃんがみすずちゃんにまあまあと宥められてる姿を見てほっとする。あれ、怒ってもよかったことだったんだと気持ちが楽になって安心できた。

「帰ろっか。ほんとにお腹空いた」

「そうだね。みすずさん、お先に失礼しますお疲れ様でした」

「おつかれさま。あみちゃんもたまには顔だしなさいよ、寂しいじゃない。なんならそんなとこやめてまたウチにくればいいわよ、ね?」

「うん、考えとく。みすずちゃん、ありがとう」

みすずちゃんの優しい顔をみて胸が痛かった。ごめんね、もう私決めたから。

そう口には出せず、2人でお店を出た。

「何食べたい?冷蔵庫なんかあったかなあ」

「オムライスがいいな」

「あみちゃん、私が作るオムライス好きだよね。そんなに美味しい?」

「美味しいっていうか。あ、美味しいんだけど。なんでユキちゃんが作るオムライスはホワイトソースなの?」

ユキちゃんが作るオムライスは珍しく、ケチャップよりも手がかかるであろうホワイトソースだった。

「ああ、私ケチャップが嫌いでさ。小さい頃あの真っ赤な液体が血に見えて怖かったの。そしたらお母さんがホワイトソースで作ってくれてこれなら食べれるでしょって。そこからかな」

「…なんかいいね。うん。やっぱり今日オムライスがいい」

傍らでなにそれと無邪気に笑う顔が街灯に照らされて火照った赤いほっぺがキラキラ光った。

本当はうちで出されたオムライスもホワイトソースだった。母がたまには珍しいもの作ってあげるねと私の誕生日に作ってくれたのだ。旗まで立ててくれて、どんなプレゼントよりも嬉しく、早く食べたくてうずうずしながら父の帰りを待っていた。

まあ父の癇癪によりそのオムライスは床でぐちゃぐちゃになり、食べられなかったのだけれど。

そんな思い出はどうでもよくって、最後の晩餐にはユキちゃんのお母さんから受け継がれていった優しいホワイトソースのオムライスが食べたい。

一緒に食べられたらもう私は、この人生に悔いはない。

オムライスだったら材料があると家に帰り手際よく作ってくれる。

そんな後ろ姿をみて母はあの時、どんな気持ちで作ってくれたのだろうと、あの日どんな気持ちで床にとびちったホワイトソースを片付けたのだろうと今になって考える。

家がおかしくなったのはあの頃からだなあ、もうずっと連絡を取ってないけど元気かな。久しぶり入った連絡が訃報だなんてちょっと笑える。あの人たちにとってはどうでもいいことなんだろうけど。

「はい、あみちゃん。大変お待たせしました」

「ありが…と」

「どうした?」

「これ、」

目の前に出されたオムライスに、旗がたっている。あの日同じような旗が。

「ああ、これ。私ってやっぱり馬鹿だよね。ピックを買おうと思ってカゴに入れたらこのお子様用の旗だったの。使うところないな~って思ってたけど、この日のためだったんだね。はい、あみちゃん今日はよくがんばりました!」

ああ、やっぱりユキちゃんって私にとって天使なんだと思う。

勝手に涙が溢れてきた、もうずっと泣いてなかったのに。

「え!嫌だった?ごめん、ごめんね。お子ちゃまだよね茶化してるわけじゃなくて、ほんとごめんねえ」

「違うの、そうじゃなくて」

涙を一生懸命拭いても拭いてもでてくる。優しい暖かな手が私の背中を撫で続ける。

「わたし、もう死にたくて」

ピタリと手が止まる。顔を見てしまえば、冗談だよと誤魔化してしまうだろう、だけどユキちゃんにだけは嘘をつきたくなかった、ユキちゃんだけには

「うん」

そのままぎゅっと抱きしめられる、生ぬるい夏風が風鈴を揺らした。

「あみちゃんが決めたことなんだから、何も間違ってない。」

心の中で復唱した。間違ってない。

これまで何度否定されたんだろう。何でそんなこともできない、そんなんじゃ社会に出られないぞ、それじゃダメだ、あみって何も出来ないよね。そう、ずっと間違ってた。かき分けかき分け泳ぎ、行き着いた先にさえもみんなが望む私はいなかった。

それなのに、ユキちゃんは私を受け入れる。こんな事にまで優しく包んで肯定してくれる。

「わたし、ずっとそう言われたかった」

思わず口に出してしまう。そう、ずっと受け入れて、抱きしめられることを望んでいた。


「うん、間違ってないよ。あみちゃんは何も悪くない。自分が悪いってそう言い聞かせてずっと我慢してたんだよね、えらいねえ。」


ふわふわあったかいユキちゃんの体に包まれて心地よく揺蕩う。

ああ、私、あなたの体の一部になれたらな。

ユキちゃんの言葉に頷くことはとてもじゃないけどできなかった、甘えてるような気がして何も言えなかった。「疲れちゃったね、食べれる?ラップして置いとこうか」と優しさにさえも首を横に震る。こういうことには簡単に否定できることが無性に悲しくなった。優しさを無下にしたい訳じゃない、でも私を受け入れることはあまりにも難しいのだ。

「食べる、冷めちゃう前に」

冷めてしまう前に、私も。


その後のことはよく覚えてないけど、見もしないテレビショッピングを流しながらお皿に乗った分ちゃんと完食して家に帰ったんだと思う。

何事もなく、いつものように日々生活をこなして今日を迎える。

ペンを握った手は少し汗ばんで紙を湿らせていた。

さっきまでお昼のワイドショーが流れていたはずなのに空を見るともう夕焼けで染まり、5時のチャイムが子供たちを家に帰しているようだ。

私に優しい顔で笑いかけてくれた人たちのことを思い出す。

幸せで心がいっぱいになって私も思わず笑った。

手紙を書きあげたらそこら辺にある適当な封筒に入れ、まだ読み終えていない雑誌に挟んで深呼吸をした。

もしも、生まれ変われるなら愛おしい人たちの体の一部になりたい。

体の内側から、あなたの優しい声を聞いてあなたが見ている綺麗な風景を眺め体内を優雅に泳ぎ、踊って、ほほえみ微睡むのだ。

そう、未だ来ない未来を考えながらまだ暖かい飲みかけのコーヒーをおいてベランダへ向かう。

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