流れついて
「死んだ?」
雨が降っていた。突然の夕立に打たれ、近くにあった屋根のある果物屋さんで雨宿りをしていたところに電話がかかってきた。
今朝、危篤状態だった友人が息を引き取ったのだという。ベランダから飛び降りてそのままICUに入ったらしいと風の噂を聞きなんて馬鹿なヤツ、と思っていたがまさか死ぬなんて。
耳元で聞こえる声が遠のく中、不思議と冷静に頭が働いていた。向かうフライト予約取れるかなとか横にいる咲ちゃんの不安そうな顔とか。
「おい聞いてんのか、病院の場所教えるから…」
「俺今東京いて、すぐ行けないから。ちょっとまた連絡する」
まだ何か言いかけていたが聞かないふりをしてすぐに通話終了ボタンを押してしまった。
飛行機、空きがあるか調べるか。ネットで、いや空港に向かい直接の方が早いな、とりあえず…
「洋くん」
名前を呼ぶ声が聞こえハッとする。
「ごめ…俺ボーっとしてて。あ、雨止みそうにないな、向かいのコンビニで傘買ってこようか」
そうだった。俺は今、東京にいるんだ。
「時間ないよね、どうしよう間に合うかな」
「洋くん、そうじゃなくて」
雨に晒された髪の毛からポツリ、雫が肩に落ちた。不安そうな顔が覗き込む、俺が死んだとか物騒なこと言うもんだからそりゃ不安にもなるだろう。だけど咲ちゃんは、踏み込もうとせず何か言い出すのを待っている。ずっと、待っていてくれてるのだ。
「あ、ごめん。ほんとに大丈夫。大したことないから、それよりずっと一緒に行きたかったお店の予約がやっと取れたんだ、これは逃せないよ」
安心させたくて笑って大丈夫と誤魔化したが何故か心臓が上下して上手く呼吸ができない。
誰が見てもいい人だとわかるほど優しい顔をしている咲ちゃんが眉間に皺を作り苦しそうに顔を歪ませ、ゆるゆると首を振った。
「そうじゃなくて」
そういってふくふくとした暖かい両手が伸び、ぎゅっと俺の手を包んだ。
「ほら、こんなに冷たい。洋くんはいつも我慢してばっかりで何にも言ってくれない。それがどれだけ自分のこと苦しめてるかわかってないよ。」
あ、泣いてる。
「ごめん、ごめんね。泣かないで、ごめんね。」
咲ちゃんのはじめて見る泣き顔をみて狼狽える。慰め方もわかってないなんて情けないと思いながらもちいさな肩をさすった。
「止まらないの。どうすれば楽になれた?思い詰めてるの知っていながら隣にいたの、私何ができたかな」
息を飲む。
あの日、あいつを目の前にして同じ事を言った俺が手を握っているような錯覚に陥り目を見張った。
「何も、出来ないよ」
あみが乗り移ったかのように同じ答えを言ってしまう。あるいは自分に言い聞かせたのか。
そう口に出したとき、あの時と同じ様な凍てつく風が吹きつま先がかじかむような気がして鮮明に記憶が蘇る。
外は真っ白に吹雪いていた。10年に1度の大寒波とのフレーズを腐るほど聞いた一日だった。家に帰ると部屋が真っ暗で名前を呼んでも返事がないから、どこかに出かけたのかなと部屋の明かりをつける。
電球が瞬き視界がクリアになる。机に目を落とすと夕飯を食べている途中だったのか、食べかけのクリームパスタが置いてあった。パスタも食べきれないほど急用だったのかと思いながらもなんだか胸がザワザワする。床に座ると、机の下に明かりがついたままの携帯が放り出されてることに気がつく。
画面が目に入った途端、吹雪にあたり冷えきった体から更に血の気がなくなり指先が痺れ震えが止まらなくなったのを今でも覚えている。
無我夢中で家から飛び出し、最寄りの駅へ全力で走った。
駅のホームにつき辺りを見渡す。いつもは仕事帰りのサラリーマンや学生などで賑わう時間だがもちろん大雪のため電車は動いていなく、ものけのからだった。
見落としがないようくまなく見渡せば座り込んでる人の姿がみえた。
「あみ!」
ホームに反響し響きわたる。
駆け寄り肩を掴むと、ガタガタと震えていた。名前を呼び揺さぶると目を覚ましてようやくこちらを見た。
「お前、なにしてんだよ、こんな大雪の中上着も羽織らないで」
足元を見てみると靴も履いておらず見るだけで背筋が凍った。つま先から血が出ており青白くなっている。
「洋くん、お迎えにきてくれたの?嬉しい」
白息を吐く。笑った唇は真っ青になっていて切れたところから血が滲んでいた。
「嬉しいって、そうじゃなくて」
「もうこれで苦しまずに2人でいられるね、がんばったね、頑張ったよねえ私たち。これでやっと報われたよね」
ああ、やっぱりだ。嬉しそうに笑う、そんな幸せそうな顔を見たのはいつぶりなんだろうと涙が込み上げてきた。
「なんで泣いて、あ、あぁ。」
冷えたからだをぎゅうっと抱きしめた。いつの間にかやせ細り肩も背中もごつごつして頼りがなかった。
「死んでないんだ、やっと楽になれたと思ったのに」
今も画面が着いたまま、机の下に放り出された携帯には「海」と残ったままだ。
『死ぬなら海がいいな』
あみの地元は海がよく見える街だったらしい、だからなのかよくぼやいていた。
「死ぬなら海だったんじゃねえのかよ」
少しでも体を温めようと着ていたダウンを彼女に着せる。俺が寒いからと突っぱねようとしているがそんな気力どこにもないようだ。
力なく笑う。
「よく覚えてたね。」
忘れてくれてもいいのに、と抱きしめ背中を摩ってくれる。
「あのねえ、洋くんが私の海だよ。私、もう君の元から離れられないの、外へ泳ぎ出せないから。もうここでいいと思っちゃった」
「だったらせめて、俺がいるときにそうしてくれよ。何もこんな大寒波の日に選ばなくても暖かくて穏やかな日にすればよかったんだ。」
手を握る。自分の体温によって温められ、皮膚が熔けて混ざり合う。
「だって今しかなかったんだもん。
洋くん、一緒に死んでくれる?」
そう綺麗な顔で微笑んだ。息がつまり何も返せない、それが俺の精一杯の答えだった。
「…俺、何ができたかな」
そう彼女の真っ黒になった瞳を真っ直ぐ見つめた。
「何も出来ないよ」
逸らすことも無く見つめ返しそう答えた。
あぁ。俺、あいつになんて言ったんだっけ。
「何も出来なくない。一緒にいよう、辛くても苦しくても泣きたくなってもずっと一緒にいるよ。何があっても私が全部受け止めるから、だから忘れないで。そのことも全部、忘れなくていいから私とこの先ずっと一緒に生きてこうよ」
咲ちゃんの声が雨音をかきわけ優しく耳に入る。
頬に手を添えられそっと涙を拭う、泣いてたことに気が付かなかった。
ぎゅっと抱きしめる。俺よりも2回りも小さいはずなのに大きく感じられた。
「ほんとはずっと、そう言われたかった。」
苦しかったよね、いっぱい我慢したよね。もう自分を責めなくていいよとたくさん背中を摩ってくれる。あのときとはと違う暖かな手で。
雨の中、屋根の下で抱き合う姿を見兼ねたのか果物屋さんのおっちゃんが出てきて傘を貸してくれた。空港に向かう道中、咲ちゃんがフライトの空きがあるか調べてくれてちょうどキャンセルがでたらしいのでタクシーをつかまえ急いで向かうことにした。その間、ずっと手を握ってくれた。
帰りの飛行機まで時間があり、なんだか落ち着かなかったので屋上テラスで飛び交う飛行機を眺めることにした。
「1人で帰れる?」
ひとり、という言葉にドキリとしコーヒーを啜って息を整えた。
「実は嘘だと思ってるんだ。俺を引き戻すための最悪な嘘だって。帰ったら仁王立ちで待っていて今更何しに来たって許さないって。…自信がないんだ。こんな事になってからのこのこ会いに行くだなんてあまりにも卑怯すぎる。」
大きな飛行機たちが飛び立っては降り立ち、また飛び立ってと止めどなく繰り返している。小さな男の子がそれを見てはしゃぎ嬉しそうに手を叩いて、きゃきゃと笑う声が響いていた。
「それでも、いいんじゃないかな。」
頬杖をつき眩しそうにその風景を眺める咲ちゃんが言う。
「会いに来てくれたんだもの、それだけで幸せだよ」
なんたって私がそうなんだからとぽつり、呟きはにかんだ。ああ、そうだなと涙が滲む。
「咲ちゃんに会ってたら、あいつも思いとどまったんじゃないかな。咲ちゃんの優しさにふれたなら明日も生きてみるって言ってくれたんじゃないかな」
もしも、もしかしたら。自分からでてくる言葉は後悔ばかりでただひたすら頷きながら何も言わず聞いてくれた。
別れ際、もう一度一緒に行かなくて大丈夫?と聞いてくれる。本当は一緒にいて手を握っていて欲しかったけど大丈夫と答えた。
「着いたら連絡するよ」
「いいよ、忙しいだろうし色々落ち着いてからで」
「…せっかく予約取れたのにお店いけなくてごめん」
「もう、謝らないでよ。埋め合わせしてくれるんでしょ?だから、待ってる。ずっと」
待ってる。
彼女の言葉は魔法だと思う。濁りなく誰かの言葉を信じられるなんて奇跡だと、青い空を眺めながら東京を後にした。
初めて降り立ったあみの地元は東京とはまた違う、じっとりとした嫌な暑さでティシャツがべっとり背中に貼り付いた。
「洋、こっち」
遠くから手を振る。自分のことで忙しいだろうに空港まで迎えきてくれたのは先程電話をきった相手だ。
「迎え、ありがとう」
「洋くんさ、なにもいきなり電話切らなくてもいいだろ。めちゃくちゃ焦ったし、あのまま連絡なかったら東京まで飛んでいくところだった」
「嘘つけよ、来てどうするんだ。」
「見つけ出すよ。もうこんな思いしたくないから」
「…申し訳ないと思ってる。」
「うん。来てくれて、ありがとう」
小一時間、山の中車を走らせれば彼女のいる場所に辿り着いた。
あみの実家は旅館を経営していて大きな屋敷だ、すでに親族が集まっているらしく中はもう賑わっていた。
連絡をくれたあみの弟、美風に連れられ畳張りの部屋に入ると奥に真っ白な棺桶が見える。あそこに、と思ったら急に心臓がバクバクして冷や汗が出た。
顔を見るのは何年ぶりだろうか、足が震える。
そろりと顔を覗くと眠ったかのような顔立ちの彼女がいて不思議な気持ちになった。
「ちょっとここら辺で座っちょって。じいちゃんに挨拶してくるから」
そういって奥にいってしまう。少し落ち着こうと棺桶から離れた場所に座った。
周りはガヤガヤしていてなんだか場違いだ、来なければよかったかなとため息を着く。
「はー実家は暑くてたまらんわ。はよ終わらんかね」
「ほんとよ。うちん子家に置いてきて正解やったわ。」
「うん正解やわ。しかもよ、何もみんな集めてすることやないよねえ、家出したっちゅう娘にちょっとやり過ぎやない?大袈裟やわ。」
「しかもあみちゃん家出した挙句、ミズショウバイやっちょったらしいよ。」
「ま!汚らしい、妹尾家の恥やわ。家も継がんでそんなこと。」
「嫌よねえ。にしても暑すぎ。喉乾いたわ、お茶も配らんでなんしちょっとやろ。」
蝉の音が会話と混ざり耳をつんざく。おばさんたちが甲高い声をあげる度、耳の奥がギンギンして頭が痛かった。
嫌だなと外へ出ようと立ち上がった瞬間、立ちくらみがし誰かにぶつかってしまう。
「あら、ごめんねえ。」
「す、すいません」
「んん?見らん顔やね。身内だけのはずやけど」
「あ、えっと。あみさんの友人です、この度は…」
「あみちゃんの友人ね!あーそうなんや」
笑顔がひく、と引きつる。陰から「友達なんておったんや(笑)」などと聞こえたが蝉の声に集中してなかったことにした。
「まー、こんな辺鄙な場所までご苦労さまやわ。友達ってだけやのに大変やったねえ」
「今あみちゃんの話してたのよ。ねえ水商売してたんやろ?友達やからなんか知っちょるやろ」
「なんか、とは」
馬鹿、掘り下げるな。そう思ったときには、もう遅く好奇心で満ち溢れたパツンパツンと今にも破裂しそうな顔をしたおばさんたちが目をキラキラ輝かせていた。
「なんかってわかるやろ。男に体売ってたとかさあ、まあ聞くまでもないか」
頭が、痛む。蝉の音でもかき消すことのできない雑音が頭をぐちゃぐちゃと掻き回す。
「やだちょっと!気持ち悪いわ。」
「あはは、それはどうなんすかね。本人から聞いたことないし」
「それはないわ、だってあの子昔から男侍らせて歩いちょったって噂やし。そんな子やったら尚更、ねえ?」
くすくす。馬鹿にしたような笑い。唾を飛ばしながら意気揚々と喋る。うるさい。もうそれ以上喋らないで欲しい。黙って。
そう思っても中々外に出ることはなく、口の中はカラカラだ。
「ないです。絶対にない。僕ずっと一緒にいたけど時間通りに帰ってきて風呂はいってしゃんとベットで寝てるの知ってますし。」
「え何、もしかして彼氏やったん!」
しまった、と口が歪む。イライラしてつい口走ってしまったことを後悔する。
「あ〜東京いた時の彼氏?可哀想にこんなところにまで来て、騙されてたんやわ、顔だけは良いもんねあん子。」
「ははあ、なるほど。腹いせに死に顔拝み!じゃなきゃこんなところ来んよね。キャハハ、ざまあみろって感じなわけや」
違う。そんなんじゃない。
「自殺とか言いよるけど、どーせそういう病気にかかってどうしようも無くなったんやろ。」
プチ、後頭部からなにかちぎれた音がする。
頭に血が上って深呼吸をしたとき、棺桶の方から音がした。
「いい加減しないよ!!」
そう叫んだ黒いワンピースを着た女の子は立ち上がり、おばさんの胸ぐらを掴んだ。
「ちょっと、なんねあんた!」
「その汚い口であみちゃんのこと語らんでくれん?お前自分を傷つけたことないやろ、守られて今日まで生きてきたんやろ。あみちゃんは痛い思いしてまで耐えてきたんじゃ、自分のこと痛めつけてまで苦しい気持ちと向き合って生きてきたんじゃ!何を知ってる、そんな痛み想像したこともないやろ?こんなことさえも知らんのにあみちゃんのこと悪く言うな、お前みたいな歳ばっかとった老いぼれがこの世にうじゃうじゃいるせいで優しい人はみんな死んでいくんや、お前が殺したも同然や!お前が頭うちつけて死ねばよかったんに!」
「いいすぎや、やめろ」
騒ぎを聞き付けたのか、美風が止めに入るが激しい掴み合いで間にも入れない。
「死ねてなんねこの小娘、そんなん知らんわこっちはどうでもいい人間が死なれて大迷惑やわ。ちょっと、そこのあんた」
おばさんが俺の方を鬼の形相で振り返る。
「あんたもなんか言ってやりぃよ、被害者やろ!?」
被害者?俺がいつ、彼女の被害者になったんだ?
散々悪口を聞かされ挙句の果てには訳の分からない発言までされて、わなわなと体の芯まで震えるのがわかる。今にも体が爆発し四方八方飛んでどうかなりそうだ。
そうだ、俺もここで皆みたいに叫び散らせばこのモヤモヤした気持ちも晴れるのではないか。
「何も出来なくない」
咲ちゃんの優しい声が聞こえた気がした。
その瞬間、体が勝手に動き額を畳に擦り付けていた。
「もう、勘弁してください。みなさんが何を言おうと、あみはこの通り、死んだんです。死人は生き還ってきません。頼むから、もう静かに眠らせてよ…」
ボロボロ涙が出て、声が震え鼻水で息が詰まり嗚咽しながらも土下座して喋る姿はとても情けないだろうなと思った。
すごい剣幕で怒鳴り声を上げていた女の子は大声であみの名前を叫び、泣きじゃくってその場に崩れ落ちた。まるで赤ちゃんみたいだ。
「なんやみんな揃って、頭おかしいんやない?あん子の友達も変な子ばっかやと?類友とか言うやつかね、最近の子はこわいわ。」
「おい」
端から重く低い声が響き、振り向くとおじいさんが腰をあげる。
「そろそろ口を閉じろ。どんだけみっともないか、言わんとわからんのか」
あみの祖父、正さんだ。
おばさんたちはその圧にたじろぎ、ボソボソ何か言いながらもそそくさとその場から消えていく。
「男たち。何をボケっとしちょる、孫の大事な式や。せめてもみんなで出てやらんと、はよ立って説得してこい。」
おじいさんの一言でどたばたと旦那さんたちは出ていく。
美風も「ユキ、喘息出るよ。外の空気吸いに行こ、ほら立って。」となだめ、肩を抱きかかえて玄関の方へと向かった。
取り残されたのは自分とおじいさんだけだった。
「すまんね、家は血の気の多いもんばっかでな、恥ずかしい姿を見せた。申し訳ない」
「い、いえとんでもない。外部のものがしゃしゃりでて僕の方こそ申し訳ないです。」
ほら、とハンカチを差し出される。綺麗にアイロンがかかっており模様も上品なものだった。
「ちょっと話さんか。ほれ、そこに座り」
縁側の方を案内され腰掛ける。夏の爽やかな風と一緒に隣に座ったおじいさんの石鹸の香りが漂って深呼吸をした。
「和恵さん、茶と菓子持ってきてくれんね」と奥に声をかける。「はーい、直ぐに」と柔らかい返事が聞こえて何故か聞き覚えがあるような、気のせいか。
「洋くん、やったかな。東京おったのにきてくれたんやろ。わざわざ遠くからありがとうな」
「え、なんでそれを…」
「海風から聞いたとよ。はい、正さん」
「ああ、ありがとう」
「はい、洋くん」とお茶を受け取る。やっぱり聞き覚えのある声で和恵さんの顔をじっと見た。
「海風がね、ずっとあみと一緒におってくれたからどうしてもってねえ。彼氏がおったことは聞いちょったけどこんなハンサムな人やったとは」
「そうやなあ。こんな立派な男逃すなんてもったいないことしたもんや。」
くっ、とお茶を飲む。カラカラだった喉が潤う。
「…俺は逃げたんです。あみの気持ちから、怖くなって逃げ出した。立派なんて滅相もない。俺がもっとちゃんとしっかりしてれば、もっと彼女の気持ちに寄り添えていれば。」
振り返り棺桶の方に目をやる。中には相変わらず綺麗な顔立ちの彼女が眠っていて、毒気が魂と一緒に抜けたのか更に綺麗で、澄んだ顔をしていた。
正さんの方へ向き直り、目を合わせた。
「あみさんの死にたい気持ちを分かっていながらも俺は見て見ぬふりをして横に居座りました。そして自分勝手にその場を去ったのです。こんな業、許されていいはずがありません。」
湯のみに目を落とす。自分の情けない顔がゆらゆら揺れていた。
そっと、しわしわでごつごつした立派な手が自分の手に覆い被さる。
「君だけじゃない、みんなや。あみの傍におったもんはみんな、許されない業を背負っちょる。そう思い込んでる。背負いながらこの先生きていく」
手は離れて行き正さんはお茶をゴクッと飲んだ。
「あみがいきなり、ここから出ていくって家に来た日はやせ細って眉間に皺を寄せて険しい顔しよったわ。そんときああ、止めたって出ていくんやこの子はってなんも言わんかった。君なら知っちょると思うけどあみの家庭は最悪で、そん時は俺が口出すもんやないって黙っちょったけどそれがいかんかったなぁ。俺も見て見ぬふりした、まだそこで手を差し伸べられたかもしれんのに」
「正さん」
和恵さんが悲しそうな顔をした。庭に咲いているハイビスカスが風で揺れ1輪落ちる。
「でもな、帰ってきたあみの顔みてほっとしたわ。顔つきも良くて頬もふっくらしちょ、浮き出てた鎖骨もかくれて眉間のしわは綺麗さっぱりや。幸せじゃったって、すぐわかった。なあ、洋くん」
ザーッと強い風が吹く。風鈴が力強く鳴って葉っぱが足元を通る。
「人間は脆いからそんな業、抱えて生きていけん。だから受け止めて許してやる。許して、新しい道を歩いていかんと」
新しく歩く、その言葉を聞いて動揺する。
こんな俺が、見殺しにした様な俺に新しい道を歩くなんて…。
「僕には到底できません。無理です。あみが夢枕に立って指さして何か言ってるんです。声は聞こえないけど、でもわかる。許さないって言ってる。そんなの俺だって、許せない」
「そんなことない」
和恵さんの声が、すっと耳を通った。
「そんなこと、あの子が言うわけない。あみじゃない、あなたが夢枕に立たせてるのよ。どんな人間か自分が1番知ってるはず。ねえ洋くん、今すぐに許せなくてもいいの。もう大丈夫って思えるまでうちに来たらいい、こうやって縁側に座って私たちと満足するまで話しましょうよ。あみと一緒に、いつでもここにいるから」
ああ。和恵さんの声、あみにそっくりだ。あみの優しい声はおばあさんゆずりなんだ。
そう思った途端、ボロボロ涙がこぼれた。
大学が大変で挫けそうな日々も、なれない仕事に追われて疲弊しきった日も、寝れない夜も支えてくれたのはこの優しい声だ。
そんなこと忘れて、1人で立ってる気でいる俺はなんて大バカ者なんだ。
子供みたいにわんわん泣いた。「男なら泣くんじゃない」と言いながらも背中を撫でてくれる。
あみ。この先もずっと、俺の事海だって言ってくれたこと忘れないでいいかな。自分のこと許せるかな。
部屋の奥で笑い声が聞こえた気がした。
鼻を啜り、笑い返した。
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