最終章

case-34 突き刺さる視線

 珠緒たまおは駆け出していた。もはやあちらも隠す気などさらさら無いのだろう。それほど明らかな、わざとらしいほどの淀んだ霊力がその居場所を告げていた。

 駆け付けようとするその先で、生徒か教師か、あるいは男か女かもわからないような、夥しい悲鳴が聞こえている。

 彼女は既にわかっていた。この気配の持ち主は、おそらく妖化あやか禍身がみでもなければ御名禍身みなかみでもないだろう。だが、それらの禍身がこの盤面で切る手札として相応しいほどの、邪悪で強大な力を持つ存在であること。そしてそれが――それらの禍身を除けば今まで珠緒が戦ってきたどの禍身よりも悍ましく恐ろしい存在なのだということを。

 それでも、彼女は逃げ惑う生徒と教師の人波を掻き分けて、その気配を辿っていく。


 1年教室の並ぶ2階へと降りて、悲鳴の元を……禍々しく淀んだ気配を追って、そこに見たものは。


「あなた、は……」

「珠緒セン、パイ……逃げて……!」


 首のない四足歩行の獣が、一人の男子生徒を踏みつけていた。

 晴山空羽はるやまあきは金恵かなえの片想いの相手であると同時に、彼女を通して珠緒とも交流のある数少ない後輩であった。


「その足を退けなさいッ!」


 言葉に神薙ぎの力を載せて威圧するが、獣の形をしたその禍身は彼女の言霊をそよ風のように受け流す。

 禍身はその存在感と威圧感から、通常の幽霊とは異なり、一般人レベルの霊力でも見えるものがしばしば現れる。これが単なる悪霊や並の禍身であるのなら、一般人にも見えてしまう存在であっても自分の身を隠すことで目的を果たそうとしたり、あるいは強力な霊能者から逃れるために自らの気配を隠すという知恵をつけるわけだが――この首なしはそうではないらしい。ただ目の前に立った時の圧力だけで倒れそうになるような、文字通り的な存在感は、まるで自らを隠さずとも対峙するものを皆殺しにすればよいと言うかのような殺意と害意が満ちている。

 そして、それ故にこの首無しは珠緒だけでなく、その前足に踏みつけられている空羽あきはや、彼が決死の想いでこの教室から逃がしながらも、首なしに捕えられた彼が心配で教室の外から成り行きを見守るクラスメートたちにもその姿形が視えているはずだ。


「ダメだ……こっちに来ちゃ、ダ……うぐっ!」

「グルルルル……」

「やめてくださいッ!」

 

 首なしのどこからその音が聞こえるのか、しかし確かに鼓膜を揺らすその唸り声は、果たして見えているのかいないのか、対峙する珠緒を明らかな『敵』として捉えているらしい。

 

(いけない……この禍身、間違いなく強い。神断かんだちなしで倒せる相手じゃない。でも……ッ!)

「オオオオオォォォォォン!」

(空羽くんだけならまだしも、他の生徒たちの前で詠うわけには……!)


 神薙ぎの力。神も禍身も薙ぎ祓う対オカルト決戦兵器ともいえるその力は間違いなく、目の前のあれと戦うためには欠かせない切り札であると同時に、それを手札に持つのは今この場において珠緒しか居ない。冷静になればなるほど、今すぐにでもその手札を切るべきだということはわかる。しかし、人は異常を――異端を嫌う。人と違うことを嫌う。

 特別な力、といえば聞こえはいいが、特別とは即ち平凡と――「普通」と最もかけ離れているものだ。人命をきゅうすためであれど、そのために自らの超常を露呈すれば少なからず迫害は避けられない。

 珠緒は自らの安寧と、親友の想い人の命を天秤にかけ……選択ジャッジを下した。


 ――しかし。


 

「……詠えない? 歌詞が……神薙祝詞かんなぎのりとが浮かばない! どうして……なんでこんな時にッ!」

 


 珠緒が神薙ぎの力を発揮する際に詠うそれは、正しくは神薙祝詞かんなぎのりとと呼ばれるカミ殺しの祓詞はらえことばであり、神断の召喚とそれを行使するために必要な運動能力の加速を行うために必要なパスワードのようなもの。だが、神薙祝詞には単なる祝詞と明らかに違う点がひとつだけある。それがの有無である。

 神にせよ禍身にせよ、支配者を害す反逆の力を振るうにあたり、尊びの心を失うことがなきよう、何者にも縛られず無法の存在であることを許された古代神薙ぎが自ら課したたったひとつの制約。それが――自分の行いが決して間違いではないと納得できるか。これから行う全てが自らの利得のためだけの行いではないと納得できるか。そうした『赦し』を確かに得て初めて、神薙ぎの魂には神薙祝詞が降りるのだ。

 だが、今の珠緒は空羽を守るために、自らを犠牲にしようとしている。自らを害し、自らを投げ打ち、自らを棄てようとしている。自己犠牲とは尊い行いであると同時に……自分も周囲も傷付けることのある諸刃の剣。故に、彼女の心がそれを許しても――彼女の魂はその残酷な献身を良しとはしなかった。


「たまチャン!」


 戸惑いと焦燥が駆け巡る中、教室の外から聞こえたのは聞き慣れた声。

 この状況で、あの禍身に踏み敷かれた彼を見て、思わず駆け寄ろうとするも寸前に思いとどまった様子のその声は、スマホのスピーカーを最大音量にして珠緒へと向けた。



『詠え、珠緒』



 その声が、その言葉が意味するものを、珠緒はわかっていた。

 霊能者に対する人々の視線を、霊能者が受け続ける迫害を、珠緒よりも長らくそう在り続けた彼が理解していないはずもない。それでもなお――彼はを促した。

 たとえ誰に迫害されようと。たとえ何が敵になろうとも。今ここで詠うことで救える命があるのならそれを掴み取るべきだと……その果てに彼女が受けるあらゆるものから、自分が護るという覚悟の籠もった声色で、彼はそれを『赦した』のだ。

 

 ――開けよ、黄泉の路へと続くとびら。

 ――明けよ、君の路をも照らすひかり。

 ――神すら知らぬ遥かな旅路。

 ――我が導きに委ね参れ。


 天空に暗雲が立ち込め、大地を揺るがす轟音を伴い、眩い稲光が校舎を貫き彼女の身へと降り注ぐ。

 それを見ていた誰もが悲鳴を上げる中、たった一人の親友だけがそれに悲しげな視線を向けながら、悔しそうに消え入りそうな声で「おねがい」と呟く。

 そんな声が届いたか否か、珠緒は他の誰にも気づかれることのないよう小さく頷き、そして目の前の首なしへと手にした槍を突き付ける。


「最後通告です。その足を退け、この場から去りなさい」

「ゥオオオオオオォォォォンッ!」

「交渉決裂。ならば……首だけでなく四肢も落として差し上げましょう!」


 直後、まるで青白い光が閃くような速さでもって、彼女の鋭い一撃が首なしの身体ごと窓を突き破り校庭へと落下した。

 多くの生徒や教師が窓から視線を送る中、彼女はそれらの視線を受けてなお集中を切らすことなく首なしの反撃をいなして切り結んでいる。


(この首なし……先ほどの遠吠えからそうではないかとは思っていましたが、おそらく首がないのではなく首だけが不可視の状態になっている。それも……無数の呪詛が込められた禍々しい動物の霊魂がひと塊になっていて、一撃でも貰えば神薙ぎの力さえケガレに浸食されかねない。そういう意味では、御名禍身に操られてた時の知紅ちあきさんより強力で凶悪です……!)

「グルルルルル……ゥオオォンッ!」


 神断かんだちまといは雷撃によって加速された思考伝達速度と実際の運動能力のラグを修正しようとする肉体がリミッターカットすることによって通常では有り得ない加速を行う。神薙ぎの力そのものが、禍身との戦闘に際して霊力を戦いに最適化して全体的な運動性能を底上げしていることも含めて、ことスピードという点において神断・纏に対処可能なのは御名禍身のような「神眼」を持つ者だけだと思われていた。

 しかし、目の前の首なしはおそらく獣としての卓越した動体視力に加えて、珠緒の筋肉の収縮、爪先の向き、呼吸の入れ方などを無意識に判断し、それらのファクターを「思考」というフェーズを挿むことなく「直感」という形で認識、回避あるいはカウンターを叩き込んでくる。

 あらゆるプロセスに「思考」という根拠を求めようとする人間霊では絶対に得られない動物霊だからこその動きに、珠緒は苦戦を強いられる。


(神眼があるわけじゃない、スピードも神断・纏より速いわけじゃない。でも攻撃を打ち込もうとするとまるで1秒先を見られてるかのようにスッと避けられる。挙句の果てにはわたしがその回避を1秒以内に追えなければカウンターまで飛んでくる理不尽ぶり……。確かに、あの禍身たちがわたしに差し向けるにあたって十分な手駒です)


 思い返せば、こういった強敵を相手に珠緒が一人で戦うことはそう多いわけではなかった。

 これまで様々な禍身と渡り合ってきたが、大した苦戦を経たこともない。そんな彼に最も辛酸を舐めさせたのは何を隠そう、御名禍身によって操られた知紅が最初であった。

 確かに想い人との戦いはそれだけで彼女の手を鈍らせるものだっただろう。だがそれ以上に、彼女にとって一番悪影響だったのは「知紅の指示がない」という点だった。


 戦いは――こと接近戦というものは、一瞬の判断が生死を別つ。手にした槍を突くか、払うか。退くべきか攻めるべきか。観察・思考・決断・実行という4つのプロセスを、常に一秒先の死を回避しながら行わなければならない。だがこういう時、その前半3つのプロセスを担う後衛のバディがいればどれほどのアドバンテージになるかは、敢えて言うまでもないだろう。

 知紅が普段バディを組んでいるのは、彼が今まで禍身と戦う術を持たないこともあるが、彼の頭脳労働担当という立場が新人を安全に育成し、ベテランの安定度を高め、そして彼が常にバディと定めている者たちにとって絶大の安心感を与えていたからだ。


(やりづらい……ッ!)


 故に――故に、である。

 バディを欠いてこれまで必要のなかったプロセスを追加されたことで、珠緒の動きは明らかに精彩を欠いていた。

 まして、今はこの状況を全校の生徒と教師に見られている。明らかに尋常ならざる力を振るい、好奇と恐怖と嘲弄の視線が彼女を貫くホーム戦だからこそのアウェー戦。

 まとまらない思考と不安に揺らぐ心が明らかな隙となることは、珠緒も――そして首なしもわかっていた。


「グォォォンッ!」

「しまっ――!」


 そう、そんな隙を。さっきまでのような一瞬の隙ではなく、誰の目から見ても明らかな隙を、首なしが逃すわけがない。

 振り上げられた巨大な爪が、珠緒の喉を斬り裂い――、



 ――悪い、遅れた。



 死の恐怖に瞼を閉ざしていた珠緒が、その声を聞いて大きく目を見開いた。

 獣のように唸るエンジンの音。右手のグローブから伸びたワイヤーペンデュラムが首なしの腕を巻きつけ、強引に引っ張る彼の力に抗うこともできないまま体勢を崩す。


「ここまでよくもたせてくれた。纏になってどれくらい経つ?」

「2分くらい、でしょうか」

「ならあと1分……いや、30秒で片づけよう」


 彼の到着にようやく緊張の糸がほぐれたのか、彼女は少しだけ目尻に涙を溜めて、「もう少し早く来てくださいよ」と彼の肩を叩いた。


「すまない。……でも、もう大丈夫だ」

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