case-28 名を持つ者の支配者

 長野県皆神山。かつて「名を持つもの全てを支配した」と言われ、名のある霊能者たちが無数の犠牲を払いながら、この山そのものを「器」として封じたとされる。

 霊能者曰く、悪霊への畏れと神への信仰は源流を同一のものとし、悪霊に対して「おそろしい」と思うことはそうした存在への肯定であり信仰であるという。

 故に、悪霊と神の中間にある禍身かみもまたこれと同じ。御名禍身みなかみを封じた霊能者たちは、御名禍身への恐怖心がむしろそれに力を与える行いであると考え、人々に「御名を支配する禍身」は「皆の神」となり恐怖の対象ではなくなったという虚偽を流布することで御名禍身への力の供給を絶ち、これが今日こんにち「皆神山」と呼ばれる由来であるとされる。

 

「着いた……が、まずいな。峠を登る際にも無数の悪霊が跋扈していておかしいとは思ったが……やはり皆神山の封印に綻びが出始めている。いいか、これから先は決して本名で互いを呼び合ってはならない。今ここに居ない者も含めて、誰の名前もだ」

「あだ名はおっけー?」

「ああ。本名でなければ好きにしろ。あと、僕と呉内くれないもそのままでいい」

「わかりました。じゃあ、行きましょう。カナさん」

「たまチャンから初めてのあだ名呼び、こういう状況じゃなかったらめっちゃうれしかったんだけどなー!」


 いかに霊力を持たないとはいえ、実のところ金恵かなえもこの山が近付くと共に、少しずつ周囲の不穏な空気は感じ取っていた。

 そしてこの山頂に到着すると同時に、その不穏さの正体もうっすらと理解し始めていた。皆神山の標高は659メートル。通常、標高が100メートル上がれば気温は0.6℃程度下がると言われているが、少なくとも3℃か4℃下がったような肌寒さではない。残暑残るこの季節に、冷房の効きすぎたコンビニに入ったような、急激な温度の変化。

 加えて、明らかな息苦しさを感じる。通常、標高700メートル弱の山の酸素濃度は約92パーセント。高山病となるのは酸素濃度75パーセントの2500メートルがラインだとされる。無論、それより低い標高でも発症しないというわけではないものの、過去に親の趣味に付き合わされて登山経験と高山病経験を同時にクリアした金恵からすれば、今感じているこの息苦しさは標高に対してあまりにも強すぎると感じていた。

 そして何より、目に映る何もかもがうっすらと暗い。サングラスとまでは言わずとも、潜水用のゴーグルをした時のような、明らかに彩度を欠いた景色が彼女の視界を埋めている。

 普段、珠緒たまおたちが言う「霊」と呼ぶようなものは未だ視えないものの、その「存在感」は否応なしに感じ取ることができた。


「チアキさん、見当たらないね?」

「お前の予想通りなら、そもそもこちらに見つかるのを良しとしない状況なのだろう」

知紅ちあきさん自身の意思で隠れてるってことですか?」

「ああ。厄介だな……」


 普段、白心ばくしんが禍身や霊能者といった強力な霊力を持つ者を探す場合、その霊力を探ることで凡その居場所にアタリをつけて探している。それは以前、珠緒たまおが県外までその探査範囲を広げて知紅を追う、と脅したものとほぼ同様のものだ。そう豪語するだけあって、珠緒の禍身に対する探知能力は高い。探知能力がというより、対禍身討伐能力に関連した神薙ぎとしての能力値が軒並み高いわけだが、白心がその珠緒に視線を向けると、彼女の表情は随分と険しいものだった。


「どうした?」

「薄い……ような気がします」

「薄い?」


 想像していたよりも随分と抽象的な表現に、今度は白心が眉をひそめた。


「御名禍身と呼ばれる禍身がどれほどの力を持つ存在なのかはわかりませんが、少なくとも白心さんのお話では、それが歴史や伝承に残るほど極めて危険な禍身であるということはわかります。ですが……未だ封印が完全に解けていないにも関わらずこれほどの瘴気を放つ存在にしては、禍身としての存在感があまりにも薄い」

「封印がまだ効いている、というポジティブな意味ではなさそうだな」

「はい。むしろ、禍身が意図的にその存在感を消しているかのような……」

「それって、今のチアキさんみたいに?」


 不意に呟いた金恵の言葉に、珠緒と白心の背筋が凍る。

 


 その瞬間、まるで地鳴りのような音を伴って「それ」がその存在感を露わにする。

 大地が揺れ、大気が震え、真昼に相応しくない暗闇が皆神山を覆うように纏わりついていく。

 そんな暗闇の中で、しかし珠緒たちは誰一人としての居場所を間違うことはなかった。


「知紅さんッ!」

 

 珠緒たちの視線の先――この暗闇に紛れて、先ほどまでは間違いなく何もなかったはずの場所に、明らかな「気配」がその存在感を主張する。

 これまで常に自分たちを助けてくれた人物の暖かなそれとは断じて異なる、異様なほどに冷たく禍々しい雰囲気が、まるで値踏みするように三人へと視線を向ける。


 

 ――腹に据えかねる。


 

 天に轟くいかずちのように低き男神おがみの雄叫びのごとく。

 深海に響く水流のように静かな女神の唄声のごとく。

 せいべつを超越した人ならざる者のゆるやかな声色が、珠緒と白心の心臓を鷲掴む。


「我が名はカミナ。脆弱に尽きる皆々の掲げる神が、御名禍身と畏るる我であるとおぼえよ」


 知紅の顔で。知紅の口で。知紅の声で。

 見る限りは間違いなく呉内知紅のそれで、目の前の禍身は自らを「カミナ」と名乗る。


「御名禍身……! その力を以て呉内の名を縛り手操たぐっているのか!」

「是である。我が支配力は名のある者すべてに及ぶ。とはいえ、この傀儡――呉内知紅くれないちあきに恐ろしきまがつ者よ。名を縛ってなお我の支配に抵抗した者は後にも先にも此奴こやつのみである」

「……紛つ者?」

しかりである。人々が我々をまがつ者と呼ぶに同じく、我々からすれば人にありながら人に不相応な力を持つ者など、紛つ者と呼ぶに相応しい」

「霊能者のことか」


 三人の中で、禍身との交渉の場に長けているのは場数を踏み続けた禍身祓いの白心のみ。

 口下手の珠緒は言うまでもなく、相手の意見や全体の状況をできる限り把握してから言論を開始するスロースターターな金恵は、こうした突発的な対話には向かない。


「交渉の意味があるかはわからないが、こちらの目的は貴様の再封印と呉内の奪還。大人しく従う気は――」

「敵に意を問うとは寛容おろかな。無論、非である。紛つ者にて永らく封じられた我が屈辱、拭い払う時が漸く訪れたのだ。その命が惜しくば、我が目覚めの余韻を噛み締める今、この日出ずる地を去れ」

「なら、交渉は決裂だ」

「滑稽である。愚かである。神を前に――脆くか弱き人類ヒトが自らの意を徹そうなど言語道断あってはならぬ。故に早々に前言を撤回する。貴様をこの地から逃すなどと炉端の石にも足らぬ者に不相応な慈悲を見せた我の失態である。人類ヒト支配者カミ不敬ナメるなど……如何なる理由を並べたところで許容ゆるしがたい」

 

 

 ――神罰しんばつである。



 ゆっくりと、人を差すために伸びた指が白心を捉えた瞬間――彼の頭上に鋭い光が閃く。白心を、そしてその周囲の全員を灼き払うには十全な力の奔流が

 だがその直前――彼の言葉の意味を理解した珠緒が、その閃きよりも僅かに早く二人を突き飛ばし……、


「たまチャン!」

「――――」


 彼女だけが、神罰の火にその身を灼かれた。


「た……、たまチャンッ!!」


 直後、金恵はすぐさま珠緒へと駆け寄り、白心はそんな彼女たちを庇うようにカミナと対峙、四節に折りたたんでいた大幣を瞬時に連結し槍のように構える。

 

「愉快である。今日こんにちでは斯様な玩具が在ろうとは」

「玩具かどうかは、貴様の身で味わってから決めろ」


 一瞬のにらみ合いを経て、白心は素早くカミナへと肉薄する、が……。


「無意味である。同じ形を得たとはいえ人の力が神へと至るとでも夢想したか。此奴も傀儡といえど我が分身わけみ。人が神に迫るなど、思い上がりも甚だしい」

(こいつ……ッ! まるでこちらの攻撃を全て読んでいるかのような、いや……違うッ! 予測や予知のそれではない! これは……常人離れした動体視力と反射神経ッ!?)

「心得たようだな。然り、なんのことはない。人の児戯にも等しい身のこなしでは、我が目から逃れることさえできぬ。ただそれだけのことである」


 ありとあらゆる動きを「その場で視てから動く」という……まさしく「神」にも至るほどの力を持つ禍身。

 肉体が知紅のものであることを無視しても、そもそもの地力の違いを見せつけられた白心は僅かな隙に一転、防戦を強いられた。

 しかし相手の動きを視てから行動を選べるカミナにとって、相手が防御態勢に徹底したところで「守り切れない部分」を見つけることはあまりにも容易い。

 

「ぐっ……!」

「驚嘆に値する。貴様の防御を潜るため威力を抑えたとはいえ、この手より放たれた閃きは曲がりなりにも神罰の火。ただのヒト風情に防がれる謂れなどないはず」

「貴様のような支配者カミはそうやって、人類ヒト見下ナメてるから足を掬われる」

 

 何を、と言葉を返そうとするカミナの視線が、白心によって遮られていた彼女それに気付いた時には、遅い。



神罰かんばち



 天から降り注ぐ光が、カミを貫く。

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