case-17 強引な救済

「まず、今のそちらの現状について説明させてもらう」


 そうして、知紅ちあきは彼の身に起きている出来事を詳らかにした。

 

 ひとつ、男性の視界の中に潜む怪異は「処置」が可能であること。

 ひとつ、その怪異を抱えたまま死ぬと別の誰かに転移してしまうこと。

 ひとつ、その怪異はなんらかの理由でこの街から出られないこと。

 ひとつ、その怪異は男性の無意識を操り街から出ていないことを認識させていないこと。

 ひとつ、その怪異が男性の無意識を操っている間は周囲にその違和感を与えないこと。


「じゃあ、僕が会社に休暇を届けていたというのは……」

「怪異が無意識状態のあなたを操り、会社に連絡を入れていたのだろうと思われる」

「お兄さんのご飯が冷え冷えだったのも、たぶん朝から今までずっとこの席でぼーっとしてたからだよ」

「朝からここに居座っていても何も言われなかったのは、怪異によってその違和感を消されていたからでしょうね」


 金恵かなえの働きによって、怪異の新たな性質がわかったのは、その性質を把握してから動くのを基本とする知紅にとってはまったくの僥倖と言えた。

 この視界の怪異にとって、おそらくこの「無意識状態に陥らせる」「無意識状態を操る」という性質は後天的かつ偶発的に手に入れた能力であり、怪異自身もこれをまだ上手く扱えていない状況なのだろう。もう何代も対象者を入れ替えてなお「視界の怪異」の範疇に収まっているのが何よりの証拠だ。この怪異はまだ「視界の怪異」の枠を出ていない。しかしそれは逆説、将来的には「無意識の怪異」となりかねない脅威性と成長性を孕んでいることを意味してもいる。

 知紅だけではない。普段は対策・戦略を全て彼に丸投げしている珠緒たまおでさえ、この怪異は今ここで祓わなければならない危険なものだと理解していた。


「おそらく、最近のそちらの生活ルーティンはたぶんこうだ。まず普通に家を出て、ここで朝食がてら電車待ちの小休憩。そこから夜までずっとここに無意識状態でいる。しかしあなた本人の認識では実際の朝のルーティンに加えて『そのあと電車が来る少し前にこの店を出て電車に乗りこみ、普通に出勤して仕事をこなし、仕事が終わってから電車で戻って来てここで夕食を済ませて』意識を取り戻す。つまり捏造の記憶によって無意識状態と意識状態をシームレス化しているせいでそれに気付けない状態だ」

「そんなことをして、この怪異? というものになんの得があるんですか……」

「得などない。幽霊や悪霊と違い、怪異は意図的な何かをしようとしているわけじゃない。自分の性質をがむしゃらに振りまくだけの心霊災害のようなものです。だから説得の余地がない分、通常の霊よりも遥かに厄介極まりない。それを祓うのは、禍身祓いを生業とする自分でも不可能でしょう。……彼女がいなければ」


 彼女? と頭を抱えたまま視線を知紅に向ける男性。すると知紅の視線は彼の隣に座る長身の少女に向けられていて、彼女は少し照れたようにはにかんだ。


「珠緒は現代に残る最後の神薙ぎ……心霊関係なら悪霊だろうと神だろうと祓うことのできる最強のオカルトキラーです。本人が未熟なためまだ修行中の身ですが、もしそちらが怪異を祓いたいと思うのなら、この子を除いて選択肢はありません」

「そんな子供が、心霊のプロだって言うのか? ……いや、悪いが少し考えさせてもらっても……」

「本来ならそうしてもらうのも吝かではないが、今となっては早急の回答を求めなければならない事態になっている」

「なんでです?」

「その怪異がいつまで「視界の怪異」に留まっているかわからないからだ」

 

 怪異の名前は性質を的確に表したものでなければならない。つまり、今その怪異を「視界の怪異」と呼んでも問題がないのは紛れもなくこの怪異の性質が「視界」に留まっているからだ。しかし、もしもこの怪異が新たに得た自らの性質を十全に使えるようになってしまえば、その性質は「無意識の怪異」として大きく変化するだろう。そうなってしまうと、果たして知紅たちは再びこの怪異を見つけられるようになるだろうか。

 対象者の無意識だけを支配するだけでも脅威だというのに、この怪異は対象者が「店に入ってから食事に一切手をつけずコーヒーを片手にぼーっとしている」という紛れもなく不自然な行動を周囲に悟らせないようにしている。つまりこれは対象者ではなく「周囲全体の一部の意識を無意識化させている」ということかもしれない。もしそうであるならば、今ここで彼を帰らせることすら危険が伴う。今ここで怪異を祓うか、ここで彼を逃して怪異の性質が変化しないことを祈るか、怪異の性質が変化して二度と捉えられなくなるか。今見えている道筋はこの3つだ。


「…………」

「珠緒。古鐘こがねさんを連れて先に用意を始めていてくれ」

「わかりました」


 実を言えば知紅はこの時「たぶんこの男性は祓うのを断るだろうな」と考えていた。それは明確な根拠があるわけではなく、長年の勘のようなもので「この男性は怪異を祓うよりも、確かな思考さえ曖昧なこの日常を続けていく方が楽なのではないかと考えている」ということを見抜いていたからだ。そして、その考えはまさしく本人の脳裏を駆け巡っている最中だった。

 正直、知紅にとってこの怪異は確かに脅威だし、「無意識の怪異」となってしまえば祓うどころか見つけることも難しいことも理解できている。だが怪異の数少ない美点は、それらは決して積極的に人間を害そうと考えているわけではないということだ。あくまで自分の性質を発揮する最適な存在として人間を選んでいるだけで、この怪異が「無意識の怪異」となったところで、せいぜい対象者への影響が「視界に変なものがチラつく」ことよりも「他人にあんまり気付いてもらえない」がメインになるくらいの差であろう。しかも、この性質は意図的に対象者を探している時にはその力を発揮できないのか、心霊関係に関しては全くの無能力である金恵に見つかっている。紛れもない脅威であることは十二分に理解しているが、当事者の犠牲を呑み込めるのなら周辺人物の安全を脅かす存在でもないため放っておいても問題のない怪異と言って差し支えない。

 ――普通の霊能者はそう判断するだろう。たったひとりの犠牲で多く人々の安寧を守れるのなら、それでいいのだ。


 しかし禍身祓いは違う。

 彼らはオカルトの脅威に気付くことさえできない人々を守るために禍身にさえ抗う影の防人もりびと

 知紅はその固く閉じた口をゆっくりと開く。


「今回、あなたという「視界の怪異」の対象者を見つけられたのは、我々禍身祓いにとってもあなたにとっても極めて珍しい状況です」

「え……?」

「少なくとも、自分は今回の怪異を追う気はありませんでした。生きている内に見つかれば対処できるかもしれない、くらいの気持ちでした。あの神薙ぎの少女もおそらく同じです。普通に考えて、「ただ変なものが見えるだけで気にしない人は敢えて誰かに言うこともしない幻覚みたいなもの」が見える人を探すなんていうのは現実的ではないし、やり方を間違えばこっちが「オカシイ人」として職質なり補導なりされるかもしれない。あなたにとってどうかは知らないが、我々にはあなたを探すメリットなど何ひとつ無かった」


 それは紛れもない知紅の、そして多くの心霊関係者にとっての本音なのだろう。

 見えないものの対処。実感のないものからすればインチキ商法とも思えるような仕事だ。相手から金を出して求められていても、普通は関わり合いになりたくない。

 だが、それをしなければならないのが禍身祓いという仕事で、彼自身それを耐え忍ぶだけの忍耐力を持ち合わせてはいる。が――、


「今回、我々があなたにこうして説得を試みているのは、オレの仕事のためでも、あなたの身の安全のためでもない。あなたを憐れむ心はあれど、あなたが救いを求めないのであれば放っておいても構わないと思っている」

「では、なぜ……」

「……あの古鐘という少女が、あなたを救いたいと思っているからだ。オレは彼女に恩があるんだ。姪をひとりぼっちにしないでいてくれたこと。姪の親友でいてくれること。オレのような怪しい仕事をしている人相の悪い男が身近にいると知れば、誰もその姪である珠緒には近付こうとしない。だが彼女は違った。彼女は珠緒を友達として接し、オレの存在を知ってなお「友達の伯父」として普通に接してくれる。だからオレはあなたの求める求めないに関係なく、あなたを救わなければならない。彼女の恩に報いるために」


 だから、と知紅は男性の分の注文票を手にとって、静かにその視線をぶつける。


「オレも、あまり強引な手段はとりたくないんだ」

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