case-15 不思議な少年

 視界の怪異。

 金恵かなえが「対オカルトの切り札」として頼った人物は、をそう称した。性質は明確にして単純。不気味なものが不意に視界をチラつくというだけの、ただそれだけの怪異だ。何か直接的に攻撃を仕掛けてくるタイプでもなければ、悪質な幽霊を引き寄せる類のものでもない。そもそも、まず怪異側に攻撃的意思がないのだという。だからというわけではないが、彼――『禍身祓い』の知紅ちあきは、金恵の後輩の姉のことは残念だと思うし、彼女が義憤に燃える気持ちも理解した上で、それでもこの怪異を追うことには渋い表情を返した。

 彼女が怪異を追うことを止めはしないし、その意思が気高く尊いものであることも認めた上で、それでも怪異は怪異。たとえ今回の怪異が近付くだけで危険なものではないとしても、やはり霊に対しなんの抵抗力も持たない普通の人間である彼女が自発的に心霊関係の事件に関わろうとすることには、言葉にしない部分で制止しようとしていたのだろう。

 同時にそうした心配を、見た目の派手さとは裏腹に他者の感情や思いやりの機微に敏い金恵はしっかりと感じ取っていた。むしろ、そうした聡さと敏さを持ち合わせているからこそ、彼女はその派手な見た目の割に、親しくなる相手を選ばないのかもしれない。本来あまり関わり合いそうにないタイプであるはずの珠緒たまおを「親友」と呼び合うに躊躇わない現状が、それを裏付けていた。

 ともあれ、金恵はひとまず怪異から手を引こうとする気持ちと、姉を喪ったバイト先の後輩を慰め、その原因となった「視界の怪異」をどうにかしたいという気持ちが綯い交ぜになり、もやもやとした気持ちを抱えていた。だがやはり知紅の言う通り、視界の怪異に限らず端からは見えないものに悩む人物を探すというのは、心霊関係でない普通の怪我や病気でも難しい。あれから既に三週間が経過したものの、彼女はこうして通学やバイトの休憩、あるいはそれらの休日を利用して街をぶらぶらと歩き、適当なカフェやファミレスに入って窓際の席から外を見つめる日々を送っている。無論、成果は今のところ出ていない。


「やっぱ無理かぁ……」


 誰に聞かせるわけでもない独り言が、テーブルに伏す彼女の口から溜息を伴って吐き出された。

 視界の怪異。見えないものに悩まされる人物を探す方法を、彼女なりに考えてはみた。しかし考えれば考えるほどに、この怪異にとって最も恐れるべきタイミングは、既に逸してしまっていた。――そう、後輩の姉の視界に居ついていた頃のことだ。だが彼女はそれを口にすることだけはしなかった。

 なぜなら、このチャンスをものにするためには、知紅にアクセスできる自分と同じ職場にいる後輩が、姉の悩みを真面目に聞いて、それを姉を喪う前に相談していた場合に限るからだ。言い換えれば「あの時ちゃんと姉の悩みを聞いていれば助けられたかもしれない」と、意味もなく残酷な事実を叩きつけるような言葉を、金恵は口にしたくなかったのだ。


(後輩ちゃんのお姉さんは結局あれがノイローゼになって死んじゃったって聞いたけど、今あれに憑かれて……あ、怪異に意思はないから憑いてるわけじゃないんだっけ? まぁいいや、あれの影響を受けてる人が同じようなことになってるってわけじゃないかもしれない。大人の男の人とかなら「あーなんかキモいのいるなー」で済ましてるかもしんないし……)


 そう、この怪異が最も厄介な部分は、その醜悪な外見でもなければ影響対象が毎回ランダムで変化することでもない。

 ただ「不意に見えてしまう」という一点を除いて、対象者には一切の害がないので人によっては「必ず見てしまうが気にせず生活できてしまう」という点だ。本人がそれを「邪魔」の一言で片付けられるタイプの人間なら、もはや誰にこれを治めてもらう必要もないし、日常生活でそれを悟らせる挙動もしないだろう。そして何より、現代日本においてそういった人種は決して少なくはないのである。


(そもそも、視界の怪異アイツがまだこの街に留まってるって保証もないんだよねー……)


 伏した体はもうこれ以上どうにも下がらないというのに、まるで無力感という底なし沼に嵌まるがごとく彼女の意気は消沈していく。


「……君、怪異を探しているのかい?」

「えっ?」


 不意に聞こえてきたのは、男にしては甲高く、女にしては力強く、子供にしては精悍で、大人にしては初々しいような声だった。

 声を辿るように、伏したままの体勢で顔と視線だけをそちらに向けると、そこには艶のある長い黒髪を襟下あたりで束ねた小柄な少年が、薄暗く光のない瞳で微笑んでいる。


「えっと……だれ?」

「ああ、ごめんね。お姉さんが失しモノに頭を悩ませてたみたいだから、声をかけちゃった。僕は伊織いおり。お姉さんは?」

「金恵。えっと……伊織くん、さっき怪異って言ってたけど、君ってもしかして見えるタイプの子?」

「ん、まぁちょっとね。それで? お姉さんは何を……なんの怪異を探してるの? 僕にできることなら相談に乗るよ」


 伊織と名乗るその少年は、そう言って金恵の座るテーブルの向かいに座り、店員を呼んだ。


「アイスコーヒー。お会計は別で」

「かしこまりました」


 いきなり話しかけられて驚きはしたものの、金恵はこの少年に対して彼女自身も驚くほど警戒心を抱かなかった。警戒心と猜疑心の隙間をするりと抜けるような独特な雰囲気は、まるで浮世の者ではないかのようにさえ思えた。しかし、さすがに初対面の、それもまだ小学生ほどの子供に対して「君もしかして幽霊だったりしない?」などと訊けるはずもなく、金恵は少しだけ困惑しながらも話を続けた。


「怪異に詳しいの?」

「詳しいというか、まぁそういうものを感じやすい体質でさ。だいたいどんな怪異なのか、教えてくれたらたぶんお手伝いとかアドバイスくらいならできるんじゃないかな」


 伊織はにこにこと静かな笑みを浮かべながら、金恵が話し始めるのを待っているようだった。

 彼女は少しだけ悩み迷いつつも、知紅と珠緒はあくまで「居場所がわからないのでは解決は難しい」と言っていただけで、別に「解決できない」というわけではないようだった。そして、この少年は「解決する」というわけではなく「アドバイスならできる」と言っているだけで、この子に危険が及ばない範囲なら、自分にできることの範囲なら、そのアドバイスを元に自分が行動すればいいだけではないか。そう考えて、これまでの経緯を話した。


「……なるほど。君が相談した人によれば「視界の怪異」というのは、確かに絶妙な命名かもしれない。確かに「あれ」は、そう呼ぶに相応しいモノだ」

「知ってるの!?」

「しぃー。……静かに。他のお客さんの迷惑になるのは、よくないんじゃないかな」

「あっ……」


 ばん、と立ち会がる彼女に、店内の視線が一気に集まる。伊織の注意ではっとして他の客に頭を下げると、改めて席に着いて伊織にも「ごめん」と謝った。


「……知ってるの?」

「たぶんね。それに似た特徴の怪異を知っているよ。に対する処置は僕にはどうにもできないけれど、対象者の居場所くらいなら感じ取れるはずだ」

「すごい……!」

「いや、君が頼った人物の言う通り、怪異というのは災害みたいなもので自我を持たない。だからさえ合わせられるなら、あれらは自らの気配を隠す術がないんだ。僕はたまたま、とりわけ怪異のチャンネルと繋がりやすいみたいでね。それを普通の霊能者よりも遥かに強く感じとれるんだ」


 そこまで言って、少年は「けど驚いたな」と、何かを思案するような素振りを見せた。


「さっきも言った通り、あれを「視界の怪異」と名付けた人物はとても聡明な霊能者と言えるだろうね」

「どうして? 視界にちらっと映るから、視界の怪異なんじゃないの?」

「無論、そう受け取ることも可能だよ。でも霊能者にとって「名前」というのはとても大事なものなんだ。こと幽霊や怪異といった肉体を持たない魂や概念に対して、名付けというのはそれ自体の性質を決定付ける要因になる。本質から逸れすぎた命名は、まるで呪い返しを受けるように命名者を害するからね」

 

 つまり、知紅は決して「視界に映る怪異」という意味だけで安易に「視界の怪異」と名付けたわけではないと伊織は語る。

 確かに、彼自身も今回の怪異を「目で捉えて視神経を介して脳で「視る」という人体のシステム上、今回の怪異が「脳」に作用するものだろう」と言っていた。だとすれば、もしもこれが「視界の怪異」ではなく「目に映る怪異」と名付けていれば、彼はおそろしい霊害に苛まれたかもしれないということかと伊織に訊ねると、彼は少し呆気にとられた様子で目を見開くと、少し間を開けてくすくすと笑った。


「ああ、なるほど。狙ったわけではなく結果オーライだったわけか」

「結果オーライ?」

「ああ、そうだね……これでは説明不十分だ。うん、ちゃんと話すよ……くっくっ、でも本当におかしいよ。なるほど、こんな偶然もあるんだね」

 

 彼はそれからしばらく静かに笑った後、ようやく落ち着いたように話を改めた。


「簡潔に言えばね、あれは決して「脳に作用する怪異」ではないよ。もちろん目でもない。あれはまさしく「視界の怪異」なんだ」

「……ごめん、どういうこと?」

「うーん、そうだね。説明が難しいな。つまりね、あれはいわゆる『認識』そのものに影響を与える怪異といえるんだ。夢を見ている時、目は開いていないよね? だから君の相談を受けた人物もそれを「目に影響を与えているわけではない」と判断したんだと思う。寝ている時、夢の景色を認識するのは脳だからね。だからそういう結論になってしまったのも仕方のないことなんだ。でも、それは結果が同じというだけで本質は異なる。なぜなら、あれは脳に干渉してるわけでもない。あれはに干渉しているんだよ」

 

 見えている景色に干渉する怪異。

 つまり、目でも脳でもなく「視界」という概念そのものに干渉する怪異。

 それこそが「視界の怪異」の本質だと伊織は語る。


「いやぁ、君が相談した相手は慧眼かつ強運だよ。仮にあれを「目に映る怪異」「脳認識の怪異」「景色の怪異」と名付けていたら、どれであってもダメだっただろう。まさしく「視界の怪異」であるあれをそう名付けた時点で、間違いなく優秀な霊能者なんだろうね」

「そうなんだ……」


 伊織はまたも少し笑って、「さてそろそろお暇しようか」と自分の分のレシートをとった。


「あれに限らず、今この街で起きる怪異はすべてこの街から出られない仕組みになっている。「視界の怪異」を追いたいなら、ここではなく駅の近くを見張ってみるといい。君の目が節穴でないのなら、きっとすぐに見つかるはずさ」


 じゃあね、と言って伊織はそのまま金恵を残して去っていった。


「この街の怪異はこの街を出られない……? でも駅って……街でてっちゃうじゃん……」


 少し考えた後、金恵は「彼」に連絡を入れて店を出た。

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