第2章

case-12 迫りくる脅威

「ケガレバコ付きの母禍身を祓った、か……」


 それは幼い少年の声だった。

 優しく、穏やかで……感情の抑揚をまったく感じさせない声だった。


「あの母禍身……幼霊の地縛禍身も引き連れていたから、ケガレバコを使えば相応の力を得ると思っていたけれど、やはり生きる人間の力はおそろしいね」


 周囲は暗い木々に覆われて、少なくとも近くに人の気配や息遣いを感じられるような民家は何ひとつ無い。

 少なくとも、知紅ちあきたちが九尾の禍身と戦った森林公園からは遠く離れたそこで、その少年はまるで「見ていた」かのようにそう告げる。


の力はもちろん、やはり『彼』の存在は大きい。どちらかが依存しているわけでも、互いに依存し合っているわけでもなく、独立した強力な個人が協力し合うことで単純な足し算以上の力を発揮できていると見て間違いはないだろう」

 

 九尾戦において、禍身を討つ珠緒たまおの圧倒的な力は確かに強力な切り札であった。しかし、あの戦いを勝利まで導いたのは彼女という切り札の存在だけでは足りていなかった。

 それが特に顕著だったのは、地縛禍身たちによる攻撃を『神罰かんばち』によって撃ち落としたあの瞬間だろう。あの判断をあの時できていたのは、他の誰でもなく知紅ちあきたったひとりだった。珠緒の手札を知り、状況を広い視野で見渡し、地縛禍身の攻撃の性質を逸早く見抜いた知紅でなければ、あの指示は出せなかった。

 あるいは、戦いがもう少し長引いていれば、珠緒自身もその判断ができただろう。しかし戦いにおいて「もう少し時間があれば」などという仮定は存在しない。あってはならない。

 一瞬の判断が戦況そのものをガラリと変える戦いの中では、一秒後の保証さえどこにもない。だからこそ……あの一瞬で『神罰で地縛禍身の動きを封じて本体の激昂を誘って相手の冷静さを奪い、接近戦に持ち込んで一撃でケガレバコを摘出する』という戦略を見出し、それを「神罰で地縛禍身の動きを止めろ」という必要最低限の言葉だけで「その後の流れ」全てを連鎖的に引き起こさせた知紅の手腕は、間違いなく一流の戦略家であり指揮官だと言えるだろう。


「先日の『部屋の夢の怪異』でも、彼の言葉があの子さえ知らなかった神断の使い方を教え、さらにそれを成功に導くための言葉を送ることで不安定な成功率を万全へと押し上げた」

 

 部屋の夢の怪異を薙ぎ祓ったあの一件は、珠緒にとっても博打に等しい戦いだったと言って過言ではあるまい。

 もしもあの直前に知紅のアドバイスがなければ、珠緒は金恵かなえに神断を突き立てることができなかった。仮にできたとして、怪異だけでなく金恵の精神や記憶ごと刈り取っていた可能性が極めて高い。そんな彼女の不安を取り除き、いざと言う時には信じるべき相手を「彼女自身」ではなく「彼女を諭す自分の言葉」へとすり替えることによって責任の逃げ道も用意していた。その全てを珠緒が理解していたとは思い難い。だからこそ――彼女の知紅に対する絶対の信頼が、あの奇跡を導いたのだ。


「……でも、まだ僕の方が強い」


 まるで何かを惜しむように、まるで何かに縋るように、少年は夜空を仰いだ。

 

「あの子も、彼も……どちらも優秀な神薙ぎと禍身祓いだ。この数年でどんどん力をつけているし、最近はあの子の方から積極的に禍身に接触しているし、彼のアドバイスのおかげもあってか自分の力をきちんと理解し始めたことで急成長を遂げている。少なくとも、禍身を討つことに関してあの二人を上回る存在は現代には居ないだろう。だけど……それでも、まだ僕には勝てない」


 その言葉に、分不相応な高慢さは感じられない。

 ただ淡々と、確かな真実だけを紡いでいるように、その少年の黒く昏い瞳に揺らぎは見られない。


「……予定を少し早めよう。ケガレバコ付きの九尾を祓えるなら、幾つかのプランは省略可能だ。さて……次も頼むよ、二人とも」



 ――早く、僕を討ってくれ。



 ぞわり、と周囲の木々が悲鳴を上げるかのようにざわめく。

 少年から溢れ出した無数の影は、じわりじわりとその輪郭シルエットを人ならざる何かへと歪めていく。


『この火は、この騒ぎはなんだ!? この夥しい禍身の群れは……!』

『……お、兄さ……ん……!』

『君は……いや、その怪我はどうした! いったい誰に――!』

『そんなことは……どうでも、いいんです……! あの子を……妹を、助けてください……! このままでは、あの子が生贄にされてしまう……!』

『だが、そのままでは君も……!』

『僕はもう間に合わない……。仮に間に合ったとしても、もう長くない……! だから、せめて妹だけでも……あの子を、あの牢から……この村から出してほしい……!』

『…………!』

『この村はもう手遅れだ……これだけの禍身を抱え込んでなお村が存続できていたのは、妹の自由を奪ってこの地に縛り付けてどうにかこうにか得たギリギリの恩恵だ……。だけど、そんなこと妹からしたら関係ないんだ……あの子には、あの子だけの人生が……自由な生き方があるはずなんだ……! それを奪ってまで、僕はこの村で生きたくない……!』

『なら君も一緒に逃げればいい。少しでも長く、妹と一緒に村の外で暮らそう。……君の妹は必ず救い出す。だから君も一緒に来い』

『……あぁ。それはいいな……すごくいい……。できることなら、僕もそうしたいよ……』


 目を閉じるだけで想起する。

 あの日、彼があの村に来なければ。あの日、禍身があの村を襲わなければ、今の自分はあっただろうか。妹は、村は、彼は……どうなっていただろうか。

 あの後、彼が妹を救い出してくれたところを見届けられなかったのは、未だに悔いが残る。妹と共に、あの村を出られなかったことも。

 けれど――彼らが村を出るための退路は作ったつもりだ。彼らの退路を遮るものは全て屠ったつもりだ。その結果どうなったかなど――敢えて問う必要もあるまい。


「……信じているよ。あの日、珠緒いもうとを救い出してくれた知紅あなたなら、きっと僕も救ってくれるって」


 今にも泣き出しそうなほど優しい少年の顔は――幼き頃の神薙ぎの少女によく似ていた。





「『視界の怪異』?」

「そそ、なんかバイト先の後輩チャンが聞いた話っぽいんだけどさ」


 は本当になんの前触れもなく、ある日いきなり――ふと気づいた時には全てが遅かった。

 金恵の言う「後輩」の女学生曰く、その人物――仮に「A」は、部屋で勉強をしている時、何かが視界の端で動いたことに気付いた。彼女は「それ」が何か気になり、視線をそちらに向けるが、何もない。Aは虫が苦手な上、勉強を終えたらすぐに寝るつもりだったので、寝ている時に虫が近付くのではないかと不安になった。

 椅子から立ち上がり、今しがた見たばかりの場所を――机と机の隙間は軽い方を移動させてまで確認したが、「それ」を見つけることはできなかった。

 釈然としない思いではあったものの、Aはひとまず勉強を再開しようと机に直った。が、それからまたしばらくして、またも「それ」は彼女の視界の端に現れた。

 今度はすぐさまそちらへと向き直り、「それ」が消えたであろう机と机の間を探した。しかし、やはり見つからない。

 おかしい、と思うまでにそう時間はかからなかった。いったい何が自分の目に映っているのか。集中力が切れかかっているせいだろうか。そう思った彼女は一階に降りて水を飲むと、再び部屋に戻るべく階段へと向かおうと廊下を歩いている途中――「それ」はまた彼女の視界にチラついた。「またか」と思う彼女だったが、いっそもう気に留めず勉強しようと部屋に入り、ペンをとった。

 そこで、おかしなことに気付く。


 ――なんで、あんなところで「それ」に気付いたんだろう?


 彼女は確かに、階段を降りる時には電気をつけていた。冷蔵庫を開ける時も、キッチンの電気をつけていた。

 だが、階段からキッチンまでの距離は短いながらも距離がある。とりわけ大柄でも小柄でもない女学生がキッチンを出て階段に至るまで、およそ10歩程度。

 歩いてしまえばすぐに階段まで着くが、階段はキッチンを出て右に90度曲がったところにあるため、階段の電気はほとんど廊下を照らすことはない。キッチンを出る時には当然ながらキッチンの電気も消してしまうので、光源は間違いなく階段を降りてすぐの床くらいしかないはず。

 なのに――なぜ自分は「それ」を見つけられたのか。

 ぞくん、と背筋に薄ら寒いものが伝う。あの時、間違いなく「それ」はAの視界の端にチラついた。しかし、あの時のAに見えていたのは階段の電気が照らす「視界の正面」だけ。廊下には他に彼女の視覚を補ってくれるものは何もなかったはず。なら……どうして「それ」が見えるのか。それを考え続けて……彼女は「ある実験」をした。


 課題は既に終わっている。勉強はあくまで今日の授業を呑み込むための復習であり、自主学習に過ぎない。

 勉強道具をカバンに片付けて、彼女は布団に入って電気を消して目を閉じた。

 そして――、


「目を閉じたその子の視界の端っこに、顔の面積の半分以上が「目」の人面ムカデみたいなのがいたんだって」

「顔の面積の半分以上が目……?」

「ほら、前に世界史の授業で見たシュメ……シェム……?」

「ああ、シュメール人」

「そうそれ! あんな感じの顔がいくつも連結してムカデみたいになってたんだって。キモすぎてヤバいよねー」

 

 うえー、などと言いながらもからからと笑う金恵だが、彼女がそれを口にする意味が、以前と今ではまったく違う。

 あの時――「部屋の夢の怪異」の時はあくまで単なる噂話に過ぎなかった。実際の被害者が上級生とはいえ身近にいたとしても、それがオカルトの域に留まる以上はただの与太話であるはずだったのだ。しかし――今はそうではない。オカルトは確かに存在する。それを今の彼女はその身をもって知っているからだ。


「この話、チアキさんに持ってってよ。たまチャン」

「それは、もちろんですが……何かありましたか?」

「……この怪異に遭った子がさ、昨日亡くなったんだ。自分ちの部屋で、首吊って」

「…………ッ!」


 聞く限り、この怪異の性質は「その人物の『視界』に取り憑く」ものだろう。目を開けているいないに関係なく、周りの景色の明るい暗いに関係なく、本当にふとした瞬間に、前触れなく不気味なムカデがチラっと映ってすぐに視界から出ていく。そして不意にまたそれが戻って来て、また出ていく。それを繰り返すだけの存在だ。

 だが同時に――この怪異の恐ろしさはその容姿でもなければ、綺麗な景色がちょっと不快になる、程度の可愛らしいものでは断じてない。

 この怪異の真の恐ろしさとは……「逃げ場」がないことだ。

 被害者であるA自身も、この存在に気付いた時は「邪魔だなぁ」「キモいなぁ」「あんまり続くとウザいなぁ」くらいだったという。しかし――その認識は一晩眠ってすぐに改めた。

 この怪異は常に――そう「常に」彼女の視界の端に前触れなく現れるのだ。目を開けていても閉じていても、明るくても暗くても、そして「起きていても」「寝ていても」それは容赦なく視界の端をちらちらと蠢く。そして、それに気付くともう遅かった。いっそ気付かずにいられればよかった。だが「気付いた」ことが……「それ」を認識したことが、最後の引き金を引いた。


「人間、気付かなきゃスルーできることでも、気付いちゃうと思わず見ちゃうとこあるじゃん? で、その子は「それ」を無視できなかった。いきなり出てきた「それ」を毎回ガッツリ見ちゃって、そのキモさにやられる。寝ても覚めてもずっとそいつはその子の視界にいるんだよ。だからだんだんノイローゼになっていって……それで、最後は寝不足も相俟って、バイト帰りに見たにびっくりして車道へ出ちゃったところを……ってことみたい」

「…………」

「で、その被害に遭ったのって後輩チャンのお姉さんの親友だったみたいなのね。お姉さん、実はこの話をちょっと前から聞いてたらしくってさ。単なる作り話だと思ってスルーしちゃってたっぽいの。でも、実際はホントでさ。せめて話をちゃんと聞いてれば、相談にくらい乗ってれば、解決はできなくても泣き言を聞いてあげるくらいできたかもしれないって泣いてんだって。後輩チャン自身も、けっこう構ってももらってたみたいで、めっちゃショック受けてて……。いっつも接客めっちゃ頑張ってたのに……! お客さんからもすっごく評判よかったのに……! ……なのに、今じゃ見る影もないくらい暗くなっちゃってるんだ……。なのに、あーしじゃなんもしてあげられない……」


 震える声と俯く顔を隠すように、珠緒は金恵を抱きしめた。


「メイク、後でなおしましょうね」

「……うん……」


 怪異は災害のようなものだ。敵意もなければ害意もない。いきなり現れて、そして当たり前のように去っていく。

 そしてそれらは悪霊や呪いの類でなく「現象」の一種である以上、霊能者でもほとんど対処不能だ。

 だからこそ――頼れるものはあまりに少なく、多くの者が「諦め」以外の選択肢を持たない。

 

「大丈夫ですよ、金恵さん」

「…………」

「わたしと知紅さんが必ずなんとかしますから」


 その瞳は、その言葉を嘘にすることを絶対に許さなかった。

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