case-07 一番大好きなもの

 夜は既に23時を回り、眠りに就く者も多い中で、珠緒たまおがその異変に気付くことができたのは僥倖と言えた。

 普段なら日付が変わっても長電話に付き合わせられることも少なくない金恵かなえが、いつもそうしているように9時ごろLINNEを送っても既読すらつかない。普段ならどんなに遅くとも3分以内に返事が返ってくるくらいLINNEに張り付いている彼女が、SNSや他のメッセージアプリのDMですら連絡がつかない。単にこの日だけ早寝をしていただけかもしれないが、不自然という言葉があまりにもしっくり来てしまった珠緒は、すぐにパジャマから普段着に着替え直し、彼女の住むアパートへと駆けだした。

 金恵は地方から上京して一人暮らし。入学式から積極的に声をかけてくれた彼女に、最初はその今どき風の容姿ギャルっぽさに警戒心を抱いたこともあったが、それが単なる人懐っこさだとわかると、珠緒も徐々に打ち解けた。彼女が間に入ってくれたおかげで、クラスで浮くこともなく溶け込めている。珠緒にとって一番大好きな人が知紅ちあきだとするのなら、一番大事な友達は間違いなく金恵だと今では断言できる。

 だからこそ、珠緒は躊躇いなく駆け出し――不自然に鍵の開いた彼女が玄関先で倒れていることに気付いた。


 一人暮らしをしている金恵は、実家からの仕送りとは別に、放課後はファミレスでアルバイトをして小遣いを稼いでいる。

 いつも9時ごろ連絡が来るのは、彼女がアルバイトを終えて家に着くのがその頃だからだ。つまり、彼女が玄関に眠っているのは、アルバイトから帰ってすぐ――部屋に入る間もなく夢の世界に旅立ってしまった、ということだろう。

 ひとまず、このままでは風邪をひいてしまいかねないと考えた珠緒は彼女を抱き上げ、部屋のベッドへと横たわらせた。意識のない人間を持ち上げるにはそれなりの筋力とコツが必要だが、神薙ぎの力は心身の鍛錬によって力を増すため、精神鍛錬の一環として身体のトレーニングも欠かさなかったのがこういう場面で役に立ったのは想定外の幸運だったと言えよう。やや露出の多い彼女の着こなしのおかげで、どこかで怪我をしてきたというわけではないのは間違いなかったが、しかしだとすれば、よほどファミレスでの仕事が大変なのだろうかと思い、珠緒は首を傾げた。

 彼女のバイト先であるファミレスには、ひと月かふた月に一度くらいの頻度ではあるものの、珠緒も足を運んでいる。

 店員の態度や表情は柔らかく、客の中には近場の常連のような者もちらほら。店員の何人かは珠緒が金恵の友人だと知ると、次からは珠緒が来るたびに金恵に接客をさせてくれて、それを見ていた彼女は金恵と他の店員の仲も悪くないのだと安心していた。何より、珠緒は不満や愚痴はけっこう容赦なく口に出すタイプで、あまり溜め込む方ではない。そんな彼女の口から出るバイト先の不満はせいぜい「トイレの清掃は清掃員さん雇ってほしいー」だとか「バイト代もうちょい上げるか9時以降も働かせてくんないかなぁ?」だとかで、対人トラブルや常軌を逸した多忙さに起因するものではなかった。


「ぁ、ァ……」

「金恵さん……?」


 不意に、ベッドで眠る金恵が呻くような声をあげながら体を起こした。目を覚ましたのかと思って近付くと――その異変に気付いた。

 金恵は上半身を起こして顔を俯かせた態勢のまま、その口から涎を垂らし、左目だけが開いて白目を向き、「ぁ、ァ……」と小さく呻きながら首をぶんぶんと横に振っている。

 寝相、で片づけられる状況ではない。明らかに異常――いや、霊害が起きている。


「部屋の夢の怪異……!」

 

 原因が思い当たるとしたら、ひとつ。

 確かに、夢の中での出来事は聞いていたが、眠りに就くまでの経緯を金恵から聞いてはいなかった。今の状況からして、おそらく部屋の夢の怪異は「眠った相手の夢に現れる」のではなく「対象を強制的に眠らせて夢を見させている」のだろう。だとすれば、彼女が眠りに就いて既に2時間と少し。夢の中の時間が現実世界とリンクしているとは思えないが、だからこそ金恵が今あの夢の中でどうしているかも推し測れない。なら、今ここで珠緒がすべきことは――今すぐ、一刻も早く彼女に神断を突き立てること。


「失敗したら、金恵さんはどうなるかわからない……けど、やらなければ助からない!」


 覚悟は決めた。

 もしも失敗すれば、その時は自分も彼女との友情に殉じることも吝かでない。

 そう肚を括ると、彼女はその両手を合わせて――詠う。


 ――開けよ、黄泉の路へと続くとびら。

 ――明けよ、君の路をも照らすひかり。

 ――神すら知らぬ遥かな旅路。

 ――我が導きに委ね参れ。


 アパートの上から突如として降り注いだ一筋の光が、神薙ぎの手の中で神をも断ち斬る威容を露わにする。


「できる……やってみせる! 今、金恵さんともだちを助けられるのがわたしだけなら……珠緒わたし友達わたしとして、その役目を全うする! だから成し遂げてみせます! ――お願い、神断ぃぃぃっ!」




 

「あー……ウワサをしたら……したら……あれだ、ヘビにょろる的なのぢゃん。お昼に詠路よみじとしゃべってたせいかな、ヤバ……」


 その夢が夢であることに、金恵は逸早く気付くことができた。

 四方は白い壁に囲まれていて、いつどのようにその部屋に入ったのかはわからないが、少なくともどこを見ても出入口らしきものはなく、見上げれば天井はどこまでも上に続いていて見ることができない。間違いなく、昼に友人の珠緒と話していた「あの夢」だろう。


「いっちゃん好きなもの、かぁ……」


 一番大事なものの記憶を奪うサメ。それがこの夢の正体であり結末だということは知っている。

 だから、もしサメが目の前に現れたら忘れてしまってもいいものを答えてしまおうと、パっと思いついたものは「カサカサ動くゴキブリのおもちゃ」だった。ただ――金恵は見た目こそ紛れもない今どきのギャルなのだが、中身は割とちゃんとした優等生というか、それなりに真面目に授業も受ける常識人なのである。故に、その思い付きが結果を果たすかどうかは、彼女自身が最も懐疑的だった。

 

(いやー、でもこれ思いついてやった人くらいとっくにいるっしょ……。それであんだけヤバたんなことになってんなら手遅れみエグいんだけど)

 

 珠緒には言わなかったが、この悪夢のウワサを金恵が知った時、既にその被害に遭ったであろう生徒は8名にも及んでいた。

 彼女が珠緒に聞かせた「家族思いのセンパイ」と「天体観測が好きなセンパイ」の話は、あくまでその最初の二人であって、その話は3年生を中心として広まり、認知されている範囲で8名が「手遅れ」となっていた。しかし、この悪夢のウワサの真の恐ろしさは、その内容よりも「周囲が気付ける範囲でしか被害数を認識できない」という点にあるのではないかと金恵は考えていた。また、この話を金恵よりも早く認知していた3年生たちは、当然ながら対策として「一番大事なものを言わない」ということもできたはず。だというのに、周囲から認知できる人数だけで被害者は8名。明らかに防ぎきれていない人数だった。


(あーしのいっちゃん好きなもの……。パパに買ってもらったピアス? 詠路が誕プレにくれたマフラー? おじいちゃんが進学祝いに作ってくれた木彫りの貯金箱?)


 どれでもない。否――どれかひとつではない。

 金恵にとって、それらはどれもこれも順番のつけられない大事なものだ。その全てが宝物であって、どれかひとつでも譲ることはできない。

 しかし――この危機に陥ってこそ、彼女の聡明な頭脳と柔らかく温かい心は「そうではない」と強い語気をもって否定する。


(あーしのいっちゃん好きな……大事なものは、ピアスでもマフラーでも貯金箱でもない。あーしを喜ばせようとピアスを買ってくれたパパ。あーしに「誕生日おめでとう」って言ってくれた詠路、あーしのことを思いながら頑張って貯金箱を手作りしてくれたおじいちゃん……。あーしのことを大事にしてくれるみんなが、何より誰より大好き……)


 気付きたくはなかった。ピアスも、マフラーも、貯金箱も大事だ。忘れたくない。だがそれらを忘れてしまっても、父も友も祖父も彼女を責めたりはしないだろう。仮にそれを咎められても、金恵にとって大きな苦痛が伴うわけでもない。しかし、金恵は気付いてしまった。わかってしまった。理解してしまった。

 自分にとって本当に一番大事なもの、大好きなもの。


 本当に――忘れたくないもの、失いたくないものを。

 

 途端、身を震わせるほどの悪寒が全身を伝った。

 大好きな家族を、友人を忘れる。

 楽しいこと、嬉しいことが大好きな彼女は、それらをいつも家族や友達との何気ない日常の中で感じてきた。別段、親孝行だという自負はないが、それでもアルバイトを始めるようになって、毎日朝から晩まで仕事を頑張る父のことは素直に凄いと思っているし、実家に戻るたびに美味しいごはんを作ってくれる母のことは将来そんな人になりたいと目標にしているし、寡黙ながらも自分が泣き言を洩らすと何も言わずに傍で話を聞いてくれた祖父のことはカッコいいと思っている。友達想いだと誰かに言われたことがなくとも、高校で最初にできた友達として、お互いに趣味も性格も違うのに楽しげに話に付き合ってくれる珠緒のことを最高の親友だと思っているし、自分が声をかけたら一緒にバカ騒ぎして遊んでくれる他の友達やクラスメートたちもみんな、順番や優劣のつけられない大好きな人たちだ。

 そんな人たちのことを――忘れる。

 忘れたことにも気付かず、二度と見ることも喋ることもできなくなる。


「嫌だ……忘れたくない……嫌だよ! 嫌! 嫌!!」



 ――お前が一番好むものを言え。



 不意に、どこからでもなく頭に響く声。男でも女でも幼子でも老人でもなく、そのどれにも当てはまるような声。

 言いたくない。せめて、嘘の言葉を言ってしまいたい。だが――口は開いて、明らかに嘘ではないものが口を衝いて出ようとしている。


「一、番は……決め、られ……ない」


 嫌だ、言いたくない。そんな願いを嘲笑うように、必死に閉ざそうとする意識を離れて、口はさらに言葉を紡ぐ。


「大、好きな……みんなから、もらった、もの……全、部が……宝、物だか……ら……」


 せめて、そこで止まってくれ。これ以上は嫌だ。どんなに心が叫んでも、体は真実を吐き出そうとする。


「あーしの……あたしの、一番……大、好き……な、ものは……!」


 嫌だ、言いたくない。

 止まってくれ、止まってくれ、止まれ! と吠える心の声は――、


「あたしの、え――」



 ――お願い、神断ぃぃぃっ!



 この部屋を焼き尽くす青白い光へと届いていた。

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