case-03 神断

 よくない気配がねっとりと肌に絡みつく感覚。過去の経験から、それが禍身かみからの威嚇、あるいは最終通告であることを知紅ちあきは知っていた。

 ベテランといえども、禍身祓かみはらいとしての力の弱い知紅でさえそれを確かに感じ取っているのだから、禍身を討ち斃し神をも薙ぎ祓う珠緒たまおなら、殊更に強くそれに苛まれているだろう。


(ここまで来るとオレでもわかる。禍身の息遣いが)


 雑木林に入って既にかなり奥まったところまで来た。

 ここに至るまで、いくつかわかったことも多い。ひとつは、ここの禍身は明確に人間をターゲットにしているのではなく、この山に近付く者を無差別に殺めていること。もうひとつは、その犠牲者たちの末路。ここの禍身は自らの糧として惹き込んだ犠牲者たちを百舌鳥モズが早贄を作るように木々の枝に括りつけていたり、あるいは地面を掘って粗雑に埋めているようだった。地面から生えた枯れ木のような腕や、明らかに人として曲がるべきでない方向にねじ曲がった体躯が木の枝からぶら下がる様子には、おぞましさ以上にその意図の掴みにくさが知紅の首をかしげさせた。


(あれが百舌鳥の早贄と同じ意味を持つとすれば、禍身にとってあの亡骸は『保存食』ということなのか? ならば、禍身にとっての食事とはなんだ? 人の霊魂、ではあるまい。禍身がそれを狙うのはあくまで彼らの目的を果たすための手段であり、人を害すための攻撃方法だからだ。禍身が最も好むのはケガレ……即ち悪徳であるはずだ。しかし、死んでなおも肉体にこびりつくほどのケガレとはなんだ? ここの禍身はあくまで山に近付く者に対して無差別に攻撃しているはず。ケガレの強い者ばかりが近付いているわけではないはずだ。事実、まだケガレを宿しきらない子供でさえ被害に遭っているのは、いったい……?)


 道中、知紅はひたすら思考を続けた。禍身の性質の根本を突き止めることで何か対策が練られるのではないかと、観察と推察を繰り返しながら真実を見極めていく。

 だがそれを繰り返すほど、今回の禍身があらゆる矛盾を抱えた存在となっていく。そこで、知紅はひとつの仮説を立てる。


(……だとすれば、さっきの亡骸の周囲に「あれ」が無かったことにも説明がつく)


 ふと、珠緒の足が止まり、繋いだ手をぎゅっと強く握られた。

 隣を見遣れば、彼女の光のない黒い瞳がまるでテールランプのように赤い輝きを放ち、明らかな警戒心を露わにしている。

 彼女の視線を辿った先に……いた。大きさはおよそ2メートル。黒い泥のようなそれは、どこが目でありどこが顔なのか、そもそも人間のように手足や首といったパーツに分かれておらず、もしかすればこちらを向いていないかもしれないというのに、知紅も珠緒も「間違いなくこちらを見ている」と感じていた。

 しかし、珠緒はその視線に明らかな違和感を感じていた。さっきまで感じていたようなねっとりと肌に絡みつく気配とはまた何か違う、肌寒さこそあるがどことなく素朴で、本当にただ「見ている」かのようなその視線の意味を掴みかねていた。


『…………』


 その黒い泥のような姿の禍身はしばらくそうして二人を見つめていると、なんの前触れもなく「べちゃり」と重力に従ってその場で消えた。

 二人は互いに視線を合わせて、ゆっくりとその「泥」が残る場所へと近付いていくと……やはり、大量の黒い泥がその場に残っている。

 知紅はその場に膝をつき、開いた手で仰ぐようにして泥の匂いを嗅ぐ。予想通り、それは悪臭と言って差し支えない類の匂いではあったが、下水などに溜まった泥とは異質な匂いであることに、知紅は驚きと納得を内包した感想を抱いた。そして同時に、その泥は彼の予想を裏付けするには十分な意味を持っていた。


 知紅は少し考えると、珠緒の手を引いて山頂へと到着した。

 滝原が現地民に聞いた話によれば「何かを祀っているわけでもない」とのことだったが、とんだ見当違いだ。


「……祠か」

「あ、もう喋っても大丈夫ですか?」

「ああ。ここまで来てわかったが、どうやら言葉や呪言で引き込もうとしてくるタイプの禍身ではないらしい」


 珠緒に背後を警戒してもらいながら、知紅はその祠をくまなく分析し始める。

 素材は石を用いていて、造りはシンプル。正面は扉のような形に簡易的な装飾が施されているが、あくまで掘られているだけで開くような構造にはなっていない。左右には丸く穴が開いていて、そこから覗くと中には楕円形の石板のようなものが入っている。周囲は木々が雨風からこの祠を守るように高く高く生えていて、山の頂上だというのにほとんど麓の景色が見えない。

 だが――微かに、だが力強い神の息遣いを感じる。人々がこの山に立ち入らなくなってからどれだけの月日が経過したのかはわからないが、少なくともこの神はまだこの町の人々を見捨てているわけではないらしい。


「……なるほど。ようやく少しわかってきた」

「何がですか?」

「そうだな……今わかっていることを順序立てて説明した方がいいだろう」


 そうして、彼はあくまで現時点での仮説だと前置きして語り始めた。


 まず、禍身はここではない場所からこの山を経由してこの町の人々に狙いをつけていた。しかし、この町を長く見守り続けていた神によって妨害されてしまった。

 しかし禍身があまりにも強かったのか、神の信仰が薄れて力が弱まっていたのか、あるいはその両方か。いずれにしても神は禍身を封じることはできず、この山に留めておくだけで精一杯だった。そこで、神は禍身を討つことのできる人間……つまり禍身祓いを呼び込むために、言い方は悪いが「死んでもいい人間」を選んで山に近付け、敢えて事件を大きくした。


「死んでもいい人間って……犯罪者とか、そういうことですか?」

「神の倫理観と人間の倫理観はぜんぜん違うから、そこはわからん。神に大きな利益をもたらす存在でない限り、誰でも「死んでもいい人間」扱いされてる可能性はある」

「……なんであれ、あの黒い泥を祓えば解決ですね!」

「いや、あいつじゃない。あの泥はむしろ、禍身を押さえつけるために身動きの取れなくなった神をサポートしてる側だ」

 

 え、と腑抜けた声がその場に響く。


「さっき、大量の遺体があった場所を覚えてるか?」

「あまり思い出したくありませんが……はい」

「あれは禍身が山を穢すために自分のケガレを詰め込んだ死体を植えていたんだ。ケガレを山に伝播させて、いずれは自分の領域にするために」

「……そういえば」

「ああ。あの場に泥はなかった」

 

 さっき、あの黒い泥が二人の前から去っていった時、あの黒い泥がいたであろう場所には少量の泥が残されていた。


「え、じゃあなんでわたしのが反応したんですか?」

「それこそ簡単だろう。あの黒い泥が禍身じゃなく神の使いであるなら……禍身はあの時、オレたちのすぐ近く……あの泥の視線の先にいたんだ」


 つまり、あの禍身だと思っていた黒い泥は禍身ではなく、むしろ自分の姿を見せることで二人の背後に迫る禍身の気配を気取らせず、かつ二人を守ろうと威嚇していたのだろう。

 だからこそ、二人に向けるプレッシャーがほとんど感じられなかった。むしろ敵を威嚇する冷たい視線と、二人を安心させようとする素朴な感覚が入り混じっていたからこそ、あの不自然なほどに凪いだ雰囲気を醸し出していたのだろう。


「じゃあ、被害者の子の家のあちこちに泥があるっていうのは……」

「禍身本体があの子の元に行かないよう監視しているんだろう。こう言ってはなんだが、あの子に起きているのはあくまで霊障や霊害だけに留まっている。それでも防ぎきれていないと見るべきか、もしくはあの泥の加護がなければ3週間も保たなかっただろうと見るべきか。どちらにしても、もう限界ギリギリだろうな。少年にとっても、泥にとっても、神にとっても」

 

 とにもかくにも、もう時間が無いことは珠緒にもわかった。

 そして、知紅が成すべきことも。


「俺が禍身をこちらに誘導するよう神に語り掛けてみる。だが既に神も泥も衰弱してきてる以上、助けを乞うことはできない。お前の力で禍身を迎撃し、討ち祓え」

「わかりました」

 

 いい返事だ、と小さく笑うと、知紅は祠に向かって手を合わせる。経文や祝詞のような特別な言葉もなく、ただ心の中で神への祈りを捧げるその姿はあまりに静かで、まるで魂がここに留まっていないかのような、うっすらとした恐ろしさを感じさせた。


(乞い申す。乞い申す。我が意を悉く知り致し、我が意を悉く酌み致し、遠く尊き御君に届き給え)


 直後――山が、あるいは空が、まるで何かに怯えるように震え、怒号とも慟哭ともつかぬ絶叫が、耳でなく魂を劈いた。

  

(――あなかしこ、あなかしこ)

 

 そう心で告げると、知紅はすっと立ち上がり、珠緒へ視線を向けた。

 

「詠え」


 その言葉を合図に、珠緒は何も答えず両手を合わせてゆっくりと口を開く。


 

 ――開けよ、黄泉の路へと続くとびら。

 ――明けよ、君の路をも照らすひかり。

 ――神すら知らぬ遥かな旅路。

 ――我が導きに委ね参れ。

 


 彼女に導かれるかのように、晴天を貫き閃いた雷光は珠緒の躰へと迸り、彼女の手には雷霆と煌めく一本の槍が携えられた。

 この槍こそ、禍身を討ち斃し神をも薙ぎ祓う神薙かんなぎにのみ触れることを許された万物を貫く裁きの閃き。名を――神断かんだち

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