第139話 旅館の夜
「ここで別行動になるね」
「うん。じゃあ……1時間後にロビーに集合でいい?」
取り決め通り、俺たちは別々にお風呂に入ることにした。来年まで待ってほしい、と言っていた紬の意思を尊重しないわけにはいかない。
それに、このあとどっちみち部屋でふたりきりなんだし、いちゃいちゃするタイミングはある。
「うっ……さむ」
当たり前だけど、冬の温泉はお湯につかるまでは地獄だ。
できるだけ早くお湯に浸かりたい、という一心で身体を洗った。
「……極楽」
いまどき温泉につかって極楽とかふつう言わないだろ、と前にテレビを見て思っていたけれど、それは俺が真冬に温泉に浸かった時に溢れる多幸感を知らなかっただけだった。
しかも、いまは俺一人で占領できている。
この壁の向こうでは、紬も独り占めしてるのかな、と想像を膨らませてしまう。
「……こんな風で、部屋にふたりきりになって大丈夫かな」
ちょっと目を閉じて、心を落ち着かせる。部屋に戻って、「枕投げしよ?」と誘ってきてはしゃぐ紬がいてもいいし、落ち着いて他愛もない話に花を咲かせるのもいいな。
俺は温泉を満喫したのち、ロビーで小説をめくりながらゆったりと紬を待つ。
旅館浴衣を着て、小説を読むのはなんとなく風情を感じる。国語の授業でいつか読んだ、『城の崎にて』は温泉地が舞台だったな、と思い出す。
「ごめん、だいぶ待ったよね?」
「いや、大丈夫だよ」
俺が小説を閉じて、声のした方に顔を上げると、桃色の浴衣を着た紬がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
「リラックスできた?」
「うん」
「なら良かった」
頬を紅潮させて、髪を上でまとめた浴衣姿の紬はまさに湯上がり美人としか言いようがない。うなじがちらっと見えて、やっぱり湯上がりはいいな、と心のなかで大歓喜した。
「……かわいい」
ロビーで看板猫と出会った俺たちは、足を止める。紬は、不慣れなはずの浴衣でも上手くしゃがんで、猫に優しく触れている。
この光景を写真に収めて、大事に飾っておきたいなと思いながら紬が動き出すのをゆっくり待った。
「とっても豪華だね」
「こんな本格的な和食、食べたことないな」
お食事処の和室に上がると、会席料理が俺たちを迎えてくれた。
「美味しい……そーくん、連れてきてくれてありがとう」
「どういたしまして。まだ1日目だけど、そう言ってもらえて嬉しいよ」
近くの海で採れた海鮮を味わいながら、紬は微笑む。看板猫と温泉と美味しいご飯という三種の神器が揃った旅館を選んで良かった。
あとは、寝床でまったりできれば大満足だ。
「「……」」
部屋に戻ってくると、ふたり分の布団が綺麗に並べられていた。ふたりきりの夜ということが意識させられて、ごくりと唾を飲み込む。
「……ゆっくりしよう?」
「そ、そうしよう」
紬は添い寝するのなんていつも通りじゃないかと言わんばかりの表情で、俺の顔を覗き込む。
俺だけが過剰に意識してしまっているらしい。
布団に腰を下ろしてから、俺たちは向かい合う。
「……どうしたの、そーくん?」
「いや、なんでもないよ。……冬休みのことだけどさ、」
俺が慌てて話題を出すと、紬は俺の胸に寄りかかってくる。
「……緊張してる?」
俺の心音を確かめながら、紬は言う。ちょうどまとめた髪が近くにきて、ふんわりと柔らかな香りが鼻に届く。
「あ、あの……」
「紬はどうなの」
紬の腰からお腹に腕を回して、意識的ではないにしろ俺の心拍をさらに加速させた犯人が身動きしにくいようにする。
「わたしだって、緊張してる」
「……そっか」
「その……そういうこと、は早い気がするけど、それ以外なら、そーくんのしたいようにしてもいいよ」
「……顔真っ赤」
俺が最高潮に達しかけた鼓動を誤魔化そうとしてからかうと、紬は明らかに不満を伝えるような顔で、「……そーくん」と呼んでくる。
「な……」
なに、とまで言わせてくれなかった。
紬に覆いかぶさられた俺は、唇どうしが触れ合うのを感じながら布団に倒れ込む。
「……口封じ」
いたずらそうに笑いながら、紬は俺の唇に人差し指を当ててくる。普段は可愛らしさしか感じないが、今はかっこよさすら感じる。
「続き……したい」
「うん」
今の紬なら、もし俺の反応が違っていても続けただろうな、と思いながら頷いた。
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