第118話 海の上
俺たちはぷかぷかと、穏やかな波に揺られる。
「ちょっと深くない?」
紬の足はつかないぐらいの深さのところまで流されてきてしまったので、俺は心配してそう問いかける。
「いえ、大丈夫です。浮き輪がありますし。……それに、なにかあったら蒼大くんが助けてくれますから」
紬は下を見て深さを確認したあと、俺の手に触れて言う。少し怖さも感じたようだけど、安心しているようで柔らかい表情を見せる。
「それは……そうだけど」
「頼りにしてます」
改めて頼られると、なんだか照れくさいな。自分から言った紬も、みるみるうちに顔が赤くなっていく。
……海の上って、ふたりだけの世界になりそう。
賑やかなのは波打ち際なので、ちょっと離れているここなら、多少のイチャイチャなら人目を気にせずできそうだ。
ただ、紬はそんなことを考えもせず、浮き輪でふたり波に揺られているのを楽しんでいるふうなので、しばらくはその横顔を眺めるぐらいにしておこう。
「ここにいると、まるで私たちふたりだけの海みたいですね」
紬は目を輝かせて、透き通った海水をすくいながら言う。
「もっとこっち寄ってきて。一緒に見よう」
「もちろんです」
俺は浮き輪の穴から身を乗り出そうとする紬が浮き輪から落っこちないように、腕を紬の腰のあたりに回す。紬は驚いたようで、既にバランスを崩しかけている。
「……たしかに、周りの人は見てませんけど」
体勢を整えてから、紬は小声で訴える。さっき俺が言っていたことを思い出したようだ。
「紬の可愛い水着姿を見てると、つい」
むしろ、ここまでイチャイチャしたいという気分を抑えられたのは自制心が働いた結果ではないかと。
「……私も、どきどきしていないわけではないです。ただ……その、周りに人がいることを忘れてしまいそうなのが心配で」
忘れてもいいんじゃない?とかいう台詞は言えなかったが、代わりに俺は紬との距離を縮める。
目を瞑る紬に唇を重ね合わせると、ぷにっとした感触のなかに、しょっぱさと……それから、ほんのりと甘さを感じた。
「んっ……しょっぱい、です」
紬は、頬を赤く染めて俺から離れたあと、ぺろっと唇を舐める。なんだかその様子が艶やかに見えて、俺の心臓はどくんと跳ねる。
「……紬」
あと1回だけしよう、と思って、もう一度俺は紬の唇を奪う。
柔らかさを味わったあと離れると、紬は熱に浮かされたような表情から、ちょっぴり抗議するような顔に変わった。
そして、軽くぺしっと腕に触れるように叩いてくる。
「……続きはお家でしてください」
「……はい」
一旦邪念を払おうと、俺は頭まで海に浸かる。
そのあとは、ふたりで気が済むまで海を眺めたり、潜ってみたりした。
「紬は休んでていいよ、俺がバタ足で運ぶから」
「わ、速いです」
俺は陸を目指し足を素早く動かす。紬はちょっと足をばたばたさせていたが、思ったより早く浮き輪が進むことを楽しんでいる。
「だいぶ遊んだけど、無理はしてない?」
「はい。海で遊ぶのは、こんなに楽しいものなんですね」
パラソルの下で、俺たちは足を伸ばしてくつろぐ。紬は疲れてなさそうとはいえ、ちょっとはしゃぎすぎたとは思う。
俺は、そばにころがる木の棒を砂地に立てる。
「倒したら負けのゲーム、やろっか」
「やりましょう」
紬は小さな手で、案外豪快に砂を取り払っていく。
「なかなかやるね」
「蒼大くんが少ししか取っていかないだけです」
「ならこれぐらい取ってみるか」
これは倒れるかもな、とも思ったが、わずかに傾いただけで持ちこたえた。
「……蒼大くん」
じとっと訴えるような視線を感じるけど、これも戦略なので。
案の定、紬が棒を倒してしまって、俺の勝利でゲームは終わった。
「もう1回やりましょう」
「あはは、そうだね」
「いまのは蒼大くんに罰ゲームを与えるレベルですよ」
その罰ゲームというのも、たぶん可愛らしいものだろうな、と思うとついつい表情が緩む。
「……なんでニヤニヤしてるんですか」
「いや、別に?」
「木の棒みたいに半分砂に埋めますよ」
可愛い脅しだったけど、次からは真剣勝負をすることにした。
遊び尽くしたあと、俺たちは着替えて帰路につく。
「もう夕方かあ」
「あっという間でしたね」
駅のホームが、オレンジ色に照らされている。たくさん遊んだ気もするけど、後ろ髪を引かれるような思いも、もちろんある。
「……また来ましょう」
「そうだね」
「今度は、浮き輪なしでも泳げるようになりたいです」
「プールで練習でもしようか」
ウミネコが夕凪の海の上を飛ぶ中、俺たちは帰りの電車へと乗り、砂浜を後にした。
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