第117話 可愛いお願い

 「……速いです」


 紬は俺の方をちらっと振り返ると、もうひと段階バタ足のギアを上げる。


 それでもやはり、俺と紬の距離は徐々に近づいてくる。ただ、それと同時に岸までの距離も少なくなっていくので、抜かせるかは微妙なところだ。

 

 ざばん、と紬は立ち上がり、ばしゃばしゃと水を飛ばしながら走る。

 波打ち際まで来て、俺は隣に並びかける。……胸の差ぐらいで、俺が負けてしまっただろうか。


 紬の胸の膨らみをちらっと見て、それは差ができるな、とか思ってしまった。


 「……私の勝ち、ですね?」

 

 俺はこくりと頷く。ひとつ強力なお願いをできる権利は失ったけれど、紬は何をお願いしてくるのかかなり気になる。


 「じゃあ、約束通り……なんでもひとつ、いいよ」

 

 そう言うと、紬は俺をつんつんとつついて、海の家の方を指差す。紬の指に脇腹を突かれると、ちょっとこそばゆい。


 「……ふたり用の大きな浮き輪を借りたいです」

 

 ちょっと恥ずかしそうに口を開くものだから、もっと大胆なお願いをしてくるものだと思っていた。


 「お願い、それでいいの?」

 「……蒼大くんは恥ずかしがるかな、と思ったので」

 「そんなことないけど」


 俺は笑いながら返す。海に来たのなら、恥ずかしさなんか捨ててはしゃがないと損だ。

 着いてからずっと遊んでいたので、休憩も兼ねて海の家へと向かうことにした。


 「紬、かき氷でも食べる?」

 「食べましょう……! 少し暑く感じてきたところですし」

 「ちょっと待ちそうだけど、並ぼうか」


 紬は目を輝かせて頷く。ご飯を出してきたときの猫みたいな、可愛い顔だ。



 海の家は当然繁盛していて、かき氷にもほどほどの列ができている。


 前の子、可愛くね?という声が並んだ直後に聞こえてきたような気がして、俺は紬の手を引き寄せる。紬の驚いた表情が、横目にちらっと見えた。

 後ろからため息が聞こえてきたが、俺は紬の手を離さない。


 紬と俺は、ブルーハワイとストロベリーのかき氷を買って、俺は紬の希望通り、ふたり用の浮き輪を抱えて海の家を後にする。


 「……ちょっと、びっくりしました」


 そう言う紬の頬は、暑さのせいもあって紅い。


 「やっぱり、紬を他の人に見せたくないとかいう気持ちが湧いてきた」

 「いつだったか、私に『紬は猫よりヤキモチ焼いてる』とか言ってきましたけど、蒼大くんもじゃないですか」


 紬は数ヶ月前の俺の発言を引っ張り出してくる。たしかに、紬の言う通りだな。


 「……俺もだね」

 「そうですよ」


 紬は、してやったりと言わんばかりの笑顔を見せて言う。


 「そういうことだから、かき氷食べ終わったら……人が少ないところにでも行こうか?」

 「わ、わかりました」


 俺は開き直って、紬を誘ってみる。海で男と遊ぶのははじめてと言っていた紬でも、俺の発言の意図を察しておどおどと返事をする。

 ここまでは中学生レベルぐらいのイチャイチャしかしていなかったけど、ちょっとぐらい年相応のイチャイチャをしたくなってきた。


 話していると、すぐ俺たちの本拠地であるパラソルのところまで戻ってきた。


 「……つめたっ」


 一口かき氷を口に含むだけで、熱くなった脳と体が急に冷やされるような感覚になる。あっという間に氷は解けてしまって、またスプーンを口に運ぶ。


 「……うう」


 紬は、冷たいものを食べ始めると起こる頭痛に悩まされている。


 「大丈夫? こうしたら良くなるとか聞いたことあるんだけど」


 そう言いながら、俺は紬の額にかき氷の容器をぴたっと当てる。


 「……良くなってきました。ありがとうございます」

 「それなら良かった」


 最初は冷たさに驚いたみたいだったけど、いつの間にか痛みがなくなったようで、今度はそのことに驚いているみたいだ。


 

 「お礼です。……どうぞ」


 紬はストロベリー色に染められた氷の乗ったスプーンを差し出してくる。口に氷を運ぶと、甘い味がじんわりと溶けていった。


 「ありがとう。かき氷はストロベリーとブルーハワイのどっちがいいか決めきれないね」


 そう言って、俺もブルーハワイのかき氷をすくって紬の方に差し出す。


 それからずっと、お互い相手に自分の持つかき氷を食べさせたので、ブルーハワイよりもストロベリーを食べたように感じる。

 


 「そろそろ行こっか」

 「まずは、ふたり用の浮き輪で遊びませんか? 勝ったのは私ですし」

 「そうだったね」


 ふたり用の浮き輪を進水させ、俺たちはふたつ空いた穴にそれぞれ入る。ぷかぷか浮かんでいるだけで、なんだか楽しい。


 「人が少ないところ、ありますか……?」

 「あんまりなさそう」


 好立地な海水浴場には、人が少ない場所なんてあるはずがないか……。


 紬を可愛がりたいな、という一心で、なにか方法はないか考えた。


 


 




 


 


 





 


 


 

 


 


 




 

 

 

 

 


 

 

 


 


 

 

 


 


 

  

 

 




 

 

 

 


 


 



 

 

 


 




 



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