第112話 ある雨の日

 きなこは、せわしなく顔を洗っている。目をつむって、なんども手を舐めたり顔を拭いたり往復させている様子が可愛らしい。

 

 いつもこの時間は、朝ごはんを食べ終えて眠りにつくのに、起きて顔を洗っているあたり今日はこれから雨が降るんだろう。


 ぽつぽつ、しとしとと降り出した雨は、気が付いたら室内にいても雨音が聞こえるほどに強まっていた。


 「こんな日は、出会った日のことを思い出しますね」 

 「あのときも、結構大雨だったよね」


 紬は曇った窓ガラスを指でちょっと拭いてから、跳ねる雨粒を眺めている。そんな紬の横に並んで、鈍い色の空を見上げる。


 「あれから1年、経ちましたね」

 「うん、時間の流れは早いね。……もう夏休みにもなるし、予定立てときたいな」

 「いいですね」

 

 今日はずっと家に閉じこもることになるだろうから、夏休みのことを決めておくことにした。


 「……海、行きますよね」


 紬は念のため、というふうに問いかけてくる。


 「うん。それは決まりかな」

 「……準備、しておきますね」


 水着を身に着けている自分を想像してか、紬はぽっと頬を赤く染める。

 それから、少しの間恥ずかしそうにしてたけれど、なにか思いついたようで口を開く。


 「あと……花火大会にも行きたいです。高校生の間で行けるのは、たぶん今年が最後ですから」

 「そっか。来年のこの時期は……うわあ、想像したくない」


 そろそろ進路のことも頭に置いておかないとな、と思う。漠然と、獣医学部とかを志望したいなという思いはある。


 「蒼大くんと同じ大学に行けたら、とか思ってしまいますね」

 「行きたいところが同じだったらベストなんだけど」


 逆はまだ良いとして、紬の本来の希望でないところに進路変更してもらうわけにはいかない。


 「でも、行きたい学部は同じようなところでしょうから、揃う可能性は十分あると思います」

 「そうだね。まあ進路のことはもうちょっと先でもいいか」

 

 もし遠くなら、ふたりで一緒に住もうか、と言うのはもうすこし先まで取っておくことにする。




 ふたりで話し込んでいるうちに、雨はさらに強くなり、遠くで雷が光るようになってきた。

 紬は、遠雷が響くたびに、不安そうに窓のほうをちらちらと見やる。


 「蒼大くん、洗濯物は大丈夫ですか?」

 「降り込んできてそうだし、取りに行ったほうがいいね、ありがとう」


 手伝いましょうか、と申し出てくれる紬に、1回外に出れば全部取ってこれるから大丈夫だよ、と返す。

 実際そうなんだけど、下着とかあるからな。紬に取ってきてもらうわけにはいかない。


 いざ外に出てみると、ちょっと行動するのが遅かったかも、と感じるほど雨は激しく降っていた。……まあ、そんなときもあるよね。


 雨粒を浴びながらも、洗濯物を回収して戻った俺を、紬はタオルを手に待ち構えてくれた。

 

 「ありがとう、紬」

 「いえ。お礼を言われるようなことでもないですよ」


 気遣いからのこの発言は控えめに言って惚れる。

 とりあえず、洗濯物はお風呂場にでも干して無理やり乾燥させよう。


 「落ち着きそうな気配すらないね……」

 「むしろ、また勢いが増したような気がします」


 たしかに、雷が光ってから音が聞こえてくるまでの時間も短くなった気がする。音が響くたびに、紬はちょっとずつ縮んでいるようにも見える。


 突然、目を開けていられないほどの光が差して同時に轟音が響き、それから部屋は真っ暗になる。


 これはすぐ近くに落ちたみたいだ、と冷静に考えていると、隣りにいる紬が急にしがみついてくるのを感じた。


 「子供の頃から……雷は苦手なんです」


 そう言って俺から絶対離れたくない、と言わんばかりに俺の片腕を両腕でがっちりと固定している。


 「……なら、毛布取ってこようか。光とか音とか、感じにくくなるから」

 「も、もう少ししたら良くなると思うので……行かないでください」


 紬は、俺が立ち上がって部屋に毛布を取りに行こうとするのを引き止める。

 さっきまでクールな様子だった紬の変化にはちょっと驚いた。けど……発言ひとつひとつが可愛らしいな、と思う。


 「ここにいるから、大丈夫だよ」


 怖がっている彼女にかける声として適切なのかはわからないが、俺はそう紬に話しかける。

 紬は、こくりと頷いてみせてくれた。


 そういえば、きなことクロも雷が鳴り出してからは俺たちの前に姿を現してないかも。猫も大きな音は嫌いだし、それと同じなのかな。


 俺は、紬をなるべく怖がらせないように、外が見えにくくなるよう、紬の顔を隠すような体勢を取った。

 しばらくしたら、この雷雲も過ぎていくだろう。



 外が少し明るくなってきて、雨はしとしと降る程度に変わった。

 

 「そろそろ、大丈夫そうかな」

 「……すみません、あんな姿を見せてしまって」

 「誰にでも苦手なもののひとつやふたつぐらいあるし、気に病むことでもないよ。俺の苦手なものの話でも聞く?」

 「聞きたいです」


 紬は本来の調子を取り戻してきたようで、食い気味に返してくる。

 俺はほっと一安心してから、とりあえず嫌いな食べ物の話からでも始めようか、と思った。

 

 




 


 


 




 




 




 

 

 



 

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