第108話 ふたりの朝とそれぞれの放課後
「おはよ、紬。傘、入っていいよ」
「はい。なら……傘は置いていきますね」
紬がとことこと歩いていって、玄関に傘を立てかけているのを見守る。
昨日の反省を生かして、というより、あれから雨は降り続いているので、俺たちはひとつの傘にふたりで入って登校することにした。
今日あたり、梅雨入りが宣言されるんだろうな。
「上着、ありがとうございました」
「うん。ちょっと今朝は冷えるし、着ていこうかな」
紬はシワひとつない、畳まれた上着を俺に渡してくれる。
さっそく上着に袖を通すと、いつも紬から感じるほんのり甘い香りがふんわりと広がった。雨がしとしと降る中に、俺の周りにだけ芳香を放つ花が咲き乱れているかのようだ。
「いい匂いがする」
「そ、そうですか……私としては、蒼大くんの安心するような香りがあまり感じられなくなるので、ちょっと残念ですけど」
紬は、嬉しそうにしながらも少し悩ましそうに呟く。
「最近、紬の発言がどんどん大胆になっている気が」
昨日の発言といい、男子高校生をどぎまぎさせるには十分すぎる。いまも、たぶん顔は赤くなっているだろうな、と感じる。
「……蒼大くんのせいですよ」
紬は、頬を赤く染めてそれだけ言うと、そそくさと歩き出す。恥ずかしさで雨が降っているのを忘れてしまったのか、俺の持つ傘の下から出て行く。
「紬、濡れるよ?」
「あ……そうでした」
紬は慌てて俺の隣に戻ってくる。綺麗な髪に、水晶玉のように透明な水滴がいくつも付いている。
「言わんこっちゃない」
俺はバッグからタオルを取り出すと、紬の頭を優しく撫でる。紬は俺のことを見上げながら、ちょっと恥ずかしそうに、でも嬉しそうに俺の手に身を任せてくれた。
「あ、せんぱい!」
休み時間、廊下をひとりで歩いているところを優愛に捕まえられた。
「けっこう目を引くからやめてくれって言ってるだろ」
俺らの学年でも可愛い後輩がいるって話題になるくらいなんだから。ほら、射殺すような視線が痛いじゃん……。
「なおさら、遊びに行きたくなっちゃいます」
「うざ……」
周りの視線なんて気にならない、という風に優愛は絡みを続けてくる。
俺が迷惑そうに言うと、そろそろ本題に入った方がいいと勘づいたらしい。
「今日は私一人で部活をしてもいいですか?」
「どうした急に」
「猫ちゃんに囲まれながら勉強したいな、と思ったんです。ちゃんと部活はしますから」
「ん……まあ、俺ひとりで決めるわけにはいかないから、紬にも聞いてみるよ」
絶対捗らないぞ……とは思いつつも、俺には別に反対する要素はない。今日は授業参観があるらしく、早帰りなので紬とどこかに行ったりできそうだし。
「分かりました、ありがとうございます!」
「まだ決まったわけじゃないけどな。
……心配だし」
「私なら、大丈夫ですよ」
優愛はきょとんとした表情を見せたあと、自信ありげに胸を張る。
「いや、猫たちが」
「私のことを心配する素振りぐらい見せてくれてもいいと思います」
俺は間髪を入れず、勘違いの訂正をする。
優愛はじとっとした湿気たっぷりの目で俺のことを見つめる。ただでさえ雨で湿度高めなのに……やめてほしい。
「まあ、優愛なら任せられるかな、と思って」
そう思ったから部活に入ってもらったわけだしな。休み時間がそろそろ終わるから帰ってもらいたいな、ってのもありました。
「え……! それなら許してあげます」
優愛は鼻歌を歌いながら、わかりやすく上機嫌な様子で帰っていった。
そのあと、紬に相談してみたら、今日一日は任せてみようということに決まった。
チャイムが鳴って、クラスは慌ただしくなり、それぞれ思い思いの放課後を過ごし始めている。
「蒼大、今日どっか寄らねえか?」
「……今日は紺野家に好かれてんのかな」
「別に、普段から嫌ったりしてないけど?」
何変なこと言ってんだ、というような風に陽翔は言う。
天然なのか、こいつ。ちょっと天然でイケメンとか、向かうところ敵なしじゃないか。
「そういうことじゃないが……。まあ、帰り道はちょっと厳しいけど、帰ってからなら大丈夫」
「おっけー、じゃああとでな」
「おう」
俺たちふたりの様子を見守りながら立っている紬が視界の端っこに映ったのに気付いて、俺は急いで話を終わらせ、そちらに向かう。
「ごめん、遅くなった」
「大丈夫ですよ。蒼大くんは遊びに行くんですか?」
「あ、うん。どこか行こうと思ってたりしてたら……ごめん」
「いえ、大丈夫ですよ。私も前から氷室さんと買い物に行く予定があったので、今日行こうと思います」
何を買うんだろうか、と気になって尋ねる言葉が喉元まで出かけたが、俺はぎりぎりそれを抑える。
女子ふたりで買いに行くものなんて、きっと聞かない方がいいに違いない。紬と出会って1年、俺も多少は成長した。
「……帰りの傘にも、入っていいですか?」
「うん。今日紬と過ごせるのはこの時間しかなさそうだし、ゆっくり歩いて帰ろう」
そう言って、紬を傘の下へと誘う。けれども、紬はなにか言いたげな様子で立ち止まっている。
「その……もし時間があれば、伺いたいです」
「もちろん。……この時間しかないってことはないね」
俺も陽翔も、そこまで夜遊びをするタイプでもないので十分時間はあるだろう。女子会のふたりはなおさらだ。
「ありがとうございます。その、最近は……ひとりの夜は、ちょっと寂しかったりもするので」
「それは、俺も感じるかな」
「……これは、お互いのせいですね」
朝の会話を踏まえてなのか、紬はいたずらそうに微笑む。
「間違いない」
俺たちは、共犯であるという事実を確かめて頷き合ってから、帰り道を歩き出した。
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