第107話 ぬくもり
一旦自宅へ入ると、流石に冷えてきたな、と感じる。すぐにお風呂は貯まってくれないから、このままだと風邪を引いてしまいそう。
体を洗い終えると、半分ほどにお湯は貯まっていた。あとは俺が入れば多少かさ増しされるだろう。
「……」
俺は最大限お湯に浸かって、ごぼごぼと息を吐く。
……どうしても、さっき見てしまった光景を忘れられそうにない。本人は結局、気付いていないみたいだったけど。
◆◇◆◇◆
私、花野井紬は、ほんの少し震えながらお風呂場に入る。玄関からここまで歩いてくる間、絶えずぽたぽたと水滴が垂れた。あとで拭かないと。
お風呂と暖房のスイッチを押して、ふと鏡を覗いてみる。
「うそ……」
鏡に映る自分を見て、思わずそう声を漏らす。
頭からぐっしょり濡れてしまっていて、蒼大くんが被せてくれた上着も、その下の制服も……もちろんびしょ濡れ。
そのせいで、下着の色まで透けて見える。
蒼大くんに気付かれていたかもしれない。
恥ずかしさと冷えた手のせいで、制服を脱ぐのにいつもより時間がかかった。
念入りに体を洗ったあと、暖かいお風呂にゆっくりと足を浸け、そして体全体を沈める。
このあと、どんな顔して蒼大くんに会えばいいんだろ……。
◆◇◆◇◆
30分ほど過ぎたことだし、そろそろ紬もお風呂から上がっただろう。
あまり紬の家のインターホンを押す機会はこれまでなかったので、俺は恐る恐るボタンに触れる。
「……紬、暖かくしてる?」
……なかなか返事がない。まだお風呂場にいるんだろうか。
「ごめん、ちょっと来るのが早すぎたかな」
聞こえていないかもしれないけど、そう言い残して俺は去ろうとする。まだ、雨は降り続いていて、風もひんやりと冷たい。
俺が1、2歩歩き出したぐらいのところで、後ろでドアがガチャリと開く音が聞こえた。
「すみません……遅くなりました」
紬は俺の背中に飛びついてきて、服の袖を掴んで引き止める。最近の紬のタックル的行動が可愛らしい。
「確認したいことがあるんですが、その……見えて、ましたか?」
「……? まあ、紬が冷えたらいけないから、家の中お邪魔してもいい?」
紬は背中にくっついたまま、俺に顔を見せることはせずに小声で問いかけてくる。
ここは、なにも見ていなかったことにするのが得策だろう。
「わ、分かりました。どうぞ」
「お邪魔します」
とりあえず納得してくれたみたいで、紬は俺の服についた水滴を丁寧に払ってから、俺の手を握って中へと導いてくれる。クロがその様子を見守ってくれていた。
「お湯沸かしてもいい?」
「もちろんです」
紬の家の台所に立つのも、初めてのことのような気がする。紬には座って休んでもらいたいところだったが、隣にいてくれるようなので何も声をかけないでおく。
「蒼大くんに貸してもらった上着、洗ってすぐ返します。……ありがとうございました」
「暑くなってきてそろそろいらないかなと思っていた頃だったから、慌てなくていいよ」
週末クローゼットの奥にしまい込んでいたら、今日紬にかけてあげることもできなかったな。
些細なことが、あとになっていろいろ変化を起こしたりするものだなあ、と実感する。
……そんなことを考えているふうなのは、上着が紬の香りに包まれて返ってくるんじゃないか、という少し邪な考えが浮かんでしまったからだ。これから雨の季節だし、衣替えはもう少し先でもいいかな。
お湯が沸いて、俺はココアを淹れる。
紬は甘いほうがいいだろうか、いやコーヒー飲むしな……と考えながらミルクを注ぐ。 ちょっと甘めに仕上がったかも。
「どうぞ、熱いからゆっくり飲んでね」
「はい。……美味しいです」
「それなら良かった」
唇にココアが付いているのに気付いて、紬はぺろっと舌の先を出す。その様子を眺めていた俺と目が合って、恥ずかしそうに目をそらす。
「蒼大くん、隣に来てくれますか?」
紬はココアが半分ほどに減ったマグカップをテーブルに置いて、ソファの座っているすぐ横をとんとんと示して俺を呼ぶ。
もちろん良いに決まっている。俺は答える代わりに、隣に腰掛ける。
「……今日の一件で、蒼大くんのことを離したくないな、と改めて思いました」
「……どうしたの、いきなり」
俺は突然そんなことを言われるなんて思っていなかったので、ちょっと驚いて聞き返す。突然だとしても、そう言われて喜ばない男はいない。
「……こんなにも私のことを気にかけてくれる人は、蒼大くんぐらいですから。もちろん、家族はそうですけど」
「紬にそう言われるほどできていない気もするけど、嬉しい」
「今日だって……荷物を持ってくれたり、上着をかけてくれたのも冷えるからだけじゃなくて……やっぱり、なんでもないです」
紬の顔がだんだんと、耳の先から赤くなっていくのがわかる。
俺の行動の意図まで気付いてしまったか……。
「……ん?」
とはいえ、知らない体でここまで来ているのでこうなれば貫き通すしかない。それならなにも言わず静かにしておけばよかった。
「……気付いてましたよね?」
「え、ちょっ……紬、ココアこぼれるよ?」
「……忘れてください」
恥ずかしさが頂点に達して我を忘れた紬はぐいぐい近寄ってきて、俺はその勢いに圧倒される。
「……将来、もっとムードがある時のことを覚えててください」
……ムードがあればいいのか。
その発言の方が後から恥ずかしくなりそうだけど、可愛いのでツッコミは控えておいた。
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