第103話 夏の足音

 「……蒼大くん、蒼大くん」


 優しく起こしてくれる声が聞こえてきて、俺は目をゆっくりと開ける。思わず再びまぶたを閉じてしまうような、眩しい朝日が差し込んできた。

 まだ光に目が慣れておらず、紬の姿はぼんやりとしか捉えられない。エプロン……を着けているのだろうか。

 

 「朝ご飯、もう出来てますよ。蒼大くんも一緒に食べましょう」


 俺はその声に誘われて、ベッドから体を起こす。今朝はどんな朝ご飯が待ってーー。




 「……いってえ」


 ……夢か。

 ベッドから掛け布団ごと転がり落ちて、俺は今度こそ目を覚ました。危険を察知したらしく、一足先に布団から抜け出していたきなこは迷惑そうな顔を見せる。

 

 紬が起こしてくれる幸せな夢を見たけれど、現実に急スピードで引き戻されるとどうしてもテンションは下がる。

 今日の朝ごはんは白ご飯とインスタント味噌汁とかでいいや……。



 

 一緒に登校しようと訪ねてきた紬は、俺と目を合わせると、恥ずかしそうに目をそらす。

 そんな表情を見せられると、ちょっといじってみたくもなるものだ。


 「昨日は良く眠れた?」

 「……蒼大くんこそ、どうなんですか」


 答えたくなかったようで、逆に質問を返された。


 ……紬が起こしてくれる夢だったが、細かい部分はあまり覚えていない。思い出したい夢って、どうしてこう霧がかかるようにぼんやりとしていて思い出せなくなるんだろう。


 「まあ、それなりに」

 「……そうだったんですね」

 「その妙な間は……?」

 「いえ。……ただ、蒼大くんの夢には私は出てこなかったんだな、と思っただけです」


 夢は見ようと思って確実に見れるものではないし、覚えておけるわけではないということは分かっていそうだけど、ちょっと寂しそうに紬は言う。


 「紬の夢には、俺は出てきたの?」

 「あ……えっと……」


 紬はやけに恥ずかしがって、口ごもる。


 「……ノーコメント、です」


 夢の中の俺はいったい何をしたんだろうかと、ちょっと心配になった。もちろん教えてくれるはずはないけど。



 

 五月のうららかな陽気のおかげで、いつもよりも授業中に眠くなることが多くなってしまっている。

 けれど、そんなときに隣にいるもっと眠そうな紬を見ると、俺の眠気は飛んでいく。


 俺が前を向いて授業を受けていても、視界の隅に前後に揺れる紬が映る。


 そろそろ昼休みだ。昼休みは5限ぎりぎりまで寝かせてあげよう。あと午後用にコーヒー牛乳でも買ってこようかな。


 俺はチャイムが鳴ると、急いで売店へと階段を駆け下りる。たぶん、紬はいまはっきりと目を覚まして、黒板に書いてある内容を覚えようとしているぐらいだろう。


 売店……正確には、売店の前にあるいちごミルクやコーヒー牛乳が売られている自動販売機で狙いの品を回収し、俺は階段を一段飛ばしで上がる。


 

 「どうしたら、朝見ていた夢の続きは見れると思いますか?」

 「うーん……」


 教室に上がると、紬がなにやら相談をしている現場に鉢合わせた。

 真剣な顔をしている紬の質問に、氷室さんは頭を悩ませている。


 「とりあえずもう一度寝てみるしかないんじゃないかしら」

 「……そうですね」


 そうなんのかよ、と正直思った。たしかにそれ以外に方法はないけども。

 そこあたりで、紬は俺が近づいてきたのに気付いたらしい。


 「あ……蒼大くん。……もしかして、聞いていましたか?」

 「わ、悪気があったわけじゃないんです」

 「そうなの……」


 氷室さんの圧が怖いです。


 「あの……忘れてほしいです」

 「……分かった。あと紬、これ飲んで午後頑張って」


 買ってきたコーヒー牛乳を紬に渡すと、一瞬きょとんとした表情を見せたあと、嬉しそうな顔になる。


 「……これが夢の続き、でもいいですね」

 

 紬がそうひとり呟いたのが聞こえて、嬉しくなった。


 


 そして、放課後。今日はふたりきりか、とちょっと安心する。部長としては不適切な気もするが。

 ただ、あの後輩は俺に文句を言われないラインを良く心得ている。


 今日とかは特に手がいっぱい、というわけではないので猫の手も借りたい、という時に出動してもらおう。



 ぐでーっと、部室の床に猫たちは寝そべっている。暑くなってきたので、冷めたく感じる床を好んでいるんだろう。


 「もう、ほとんど夏ですね」

 「そうだね……」


 4月までは、風が吹くと肌寒いような日もあったけど、ゴールデンウィークが明けるとひたすら暑い。


 部室の窓を、猫たちが誤って外に出ることがないように気を配って開ける。外から爽やかな風が……吹いてくるはずもなく、室内と変わらない暖かい空気が入ってくる。


 「あっつ……」


 汗がだらだらと流れるのを感じて、俺はシャツの袖を捲る。


 「私も、そろそろ夏服に替える時期ですね」

 

 俺のシャツまくりを見て、紬も自分の制服に目をやりながら言う。

 紬の清涼感溢れる夏服姿を想像するだけで、さっきまで鬱陶しくも感じていた夏の暑さが、ちょっと楽しみになった。


 俺たちが出会ったころからそろそろ1年が経ち、また夏がやってくる。またさらに仲が深まる夏になればいいな。

 

 

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