第79話 湯船の中で

 紬が体を洗い終える前に、俺は湯船に足を突っ込む。これぐらいなら熱くないはず。

 

 体を洗い終えた紬が、恐る恐る足を湯船につける。ちゃぽん、と水面が揺れる。


 紬は俺の目の前に腰を下ろす。


 お風呂場自体は、ふたりが体を洗うのには十分なスペースがあるのに、湯船はそこまで広くない。

 たまに、俺と紬の肌が触れ合って、お互い恥ずかしくなって目を合わせられなくなる。


 「こう、向かいあって座るのは……恥ずかしいですね」


 紬はそう呟くと、さっきまでよりも深く、顔だけが水面から出るぐらいまでお湯に浸かる。

 ……そんなつもりはない。そんなつもりはないんだけど……視界に大きな膨らみがどうしたって入ってくる。


 女子は視線に敏感だと言うから、もしかしたら俺の視線に気付いているのかも。


 「……ごめん」

 「え、どうして謝るんですか?」

 「い、いや……。紬が言う通りに、移動するよ」


 そう提案すると、紬はん……としばらく考える。


 「私のすぐ前に来てくれますか?」

 「え、うん。いいけど」


 それはまずいような、と思ったが、俺の前に紬が座るのもそれはそれで良くない気もする。


 ちょうど段差が設けられていることで、紬が足を伸ばして座り、1段下がったところ……紬の両足の間に俺が座ることができた。グッドデザイン賞あげたい。



 「いつもはできない目線ですね」

 

 紬は、俺の肩の近くで楽しそうに笑う。そして、より俺の近くに寄ってきた。

 こういう、普段通りではないシチュエーションだと、紬はやんちゃな子猫のようにいたずら好きになる。

 今日もなにか仕掛けてくるのか……?


 「さっき、髪型を褒めてくれたの……とても、嬉しかったです」


 この距離を生かしてか、紬は耳元でそっと囁く。


 「うん。ほんと、綺麗だと思うよ」

 

 いきなり近寄ってきて、耳元で囁いてきたので一瞬ドキッとしたが、前々からずっと思っていたことなので普通に返すことができた。


 「……なんだか、普段通りじゃないですか?」

 「……そう?」


 ……こっちはまったく普段通りじゃないんだけど。

 この視点からだと、普段は可愛い猫の靴下とかに覆い隠されている、紬の綺麗な足先が見える。

 それにさっきから、背中に柔らかいものが当たったような気がしている。

 たぶん本人は、意識してないんだろう。


 「……私は、どきどきしてるのに」


 紬は、無自覚に心の声が漏れているときがたまにある。

 猫の鳴き声より分かりやすく、心の内を伝えてくれる。


 この勘違いはなんとしても解消しておきたい。そう思って、俺は優しく紬の手首を掴む。


 「ひゃっ……!?」

 「……なら、確かめてほしい」


 俺は、そのまま紬の繊細で美しい手を俺の胸へと運ぶ。


 「……蒼大くんも、同じなんですね」

 「……うん」


 自分でやってて恥ずかしくなってきた。それもあってか、より鼓動は早くなったように感じる。


 そのあとしばらく、紬と俺は体の芯から暖まるようなお湯を楽しんだ。



 そろそろ上がろうかな、と思って俺はゆっくりと腰を上げる。

 まだ俺は熱くはないけど……紬は、なんとなく俺より先にのぼせてしまいそうな気がする。


 そう思っていると、紬はしっかりと俺の手を握って、引き止めてくる。


 「あ、その……」


 紬は、一度握った俺の手を離してから、俺を見上げて続ける。


 「一緒にお風呂に入れるのは、私だけの特権ですから。……もう少し、一緒に入っていたいです」

 「……わかった」


 発言のひとつひとつが、可愛らしすぎる。

 紬が満足するまで、いくらでも長風呂に付き合おうと思って俺は再び腰を下ろした。



 「紬、先に上がっていいよ」


 紬と一緒に湯船から上がって、俺は声をかける。

 紬は、髪の先から水滴をしたたらせていて、いつもよりさらに透明感が増して見える。水も滴る……とはこのことか、とひとりで納得した。


 「すみません、蒼大くんは暑くないですか?」

 「うん。大丈夫」


 紬を送り出してから、俺は顔を再び洗ったりしながらお風呂場で待つ。

 入ったときと同じように、ドアの向こうから着替えている音が聞こえてくる。


 「うわっ……!?」


 気づかぬうちに、冷水の方の蛇口をひねってしまう程度には動揺している。


 ……お風呂を出たら、紬の髪を乾かしてあげたいな、と思いながらお風呂場でそわそわしていた。


 



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