社会人③

 『酷い顔してるよ、大丈夫?』


 涙で目を腫らし、全力で走って汗まみれになり、息も上がれば酷い顔にもなるというものだ。


 『心臓の音……聞こえる……大丈夫……』


 『そういう事じゃなくて。』


 浩香はハンカチをポーチに仕舞うと、僕の手を取って繋いだ。


 『あっち?』


 浩香が僕が走って来た方を指さして歩き出す。

 それに引かれるように僕も棒のようになった足を前に運んだ。


 何とかアパートまで辿り着き、浩香を部屋に案内した。


 『思ったより片付いてる……と言うか何も無いのね。』


 部屋に入った浩香の一言目がそれだった。

 初めは生活していく中で足りないものがあれば買えばいいと思っていたが、仕事を始めると文字通り『寝に帰ってくるだけの部屋』になっていたので、部屋にある家財一式はこの部屋に住み始めた頃から何も増えていない。


 『適当に座って。』


 僕はそう言って冷蔵庫からペットボトルのお茶を出してきて浩香に渡した。

 僕もペットボトルのお茶を開け、一気に飲み干し、ようやく落ち着いた。


 『何で急にこっち来たんだ?』


 真っ先に浮かんで然るべき疑問だった。

 こっちに来て以来、帰省もせず一度も会ってなかったのに、突然来たのはどうしてなのか。


 『そろそろ正斗クンの心が疲れてくる頃かと思って。』


 どうして浩香は僕の置かれた状況が分かるのだろうか。

 どうして母親以上に僕の事が分かるのだろうか。


 『それじゃちょっとキッチン借りるね。唐揚げ作るから。』


 そう言って浩香は滅多に使わないキッチンに向かったが、


 『うわぁ……先の掃除するね……』


 と言って持って来たエコバッグから洗剤やらスポンジやらを出してきて掃除を始めた。

 僕の事を見透かし、部屋が汚れてるのを見越して準備してくる浩香なんて大嫌いだ。

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