2頁目 一色望海の握手

「おはようございます。先輩、誰かいませんか?」


 演劇部の部室に到着すると、宇佐美さんが先にドアを開いた。しかし、演劇部の部室は電気はついているけれども人の気配はしない。ところどころ学校指定のカバンがあるからもう何人かは到着して既に体育館に移動しているのだろうか。


「その声は、宇佐美さん?」


「あ、一色先輩。おはようございます」


 部屋の奥から現れたのは、黒いドレスを身にまとった麗しい女性だった。ここにいて、宇佐美さんが先輩と呼んでいることから高校三年生なのだろうけれども、ドレスを着ているせいもあってあまりにも大人びている。すらりと胸のあたりまで伸びた黒髪は、彼女がスリッパをはくためにあげていた足を下ろすと同時に、左へと大きく束になって揺れる。そのさまはまるで生き物の様だった。


「おはよう、宇佐美さん。そちらの方は?」


「あ、この二人は私の友達で今日の練習を見に来てくれたんです」


「そう、よろしくね」


 そう言いながら、一色先輩はそっと暦に向かって手を差し出した。しかし、目が見えない暦には自分に向かって手が差し出されたことがわからない。そして、それを知らない一色先輩は当然のように困惑した。


 こういうときに、説明するのは僕の役目だ。


「すみません、先輩。彼女は目が見えないんです」


 僕の説明を聞いて、一色先輩は小さく頷いた。最初は目が見えないという事実に対して驚きとか戸惑いが出るのが普通なのに、彼女はそれを全く見せない。それが気遣いからくる演技の力なのか、それとも単純に興味がないのかというのは僕には判別がつかない。ただ言えるのは、その目には引き込まれるような魅力があった。


「そうなのね。じゃあ、代わりに隣にいるあなたが握手してくれるかしら。ほら、放り出した私の手が可哀想でしょう」


 そう言いながら、手の角度をそのままに体だけこちらに向けてきた。僕はそれに戸惑いながらも手を差し出して素直に握り返す。一色先輩の背丈はほとんど僕と目線が変わらないほどに高いのに、手は女性らしく僕より一回りも小さくて、指の先はどこかひんやりとしている。このまま強く握れば、大したことない僕の握力でも、ガラス細工のように壊せてしまうんじゃないかという様な危うさと共に、だからこその妖艶さを孕んでいた。いつも繋いでいる暦の手とはまた違っていた。


 僕が手を握って上下に二回ほど動かすと、一色先輩はくすりと笑った。


「ぜひ楽しんで行ってね。じゃあ、私は先に監督と打ち合わせがあるから」


 自分の手の隙間から抜けて、それをひらひらと振ってから一色先輩は部室から去っていった。この後ろ姿すらも綺麗だったけれども、僕の中では暦が時折、館の中で見せるドレス姿に比べると衣装に着られているようだった。初対面の異性との握手という理由で多少の緊張はしたけれども、噂に聞いていたような見つめあった人すべてを惚れさせるほどの感情の動きは無かった。


「はぁ~ほんと嫌になるほど綺麗だよね」


「綺麗?」


 宇佐美さんが漏らした溜息と独り言に、暦が反応する。


「ああ、そうだよね。一色先輩って、有名な芸能事務所からモデルのスカウトが来るくらいに綺麗なの。一度、ご飯に誘ってもらったんだけど本当に男の視線が四方八方から刺さるって言うか、なんていうんだろう。言葉にすると難しいんだけど、テレビや本で決められた綺麗とか美しいじゃなくて、本能に訴えてくるような。ほんと、あんなに綺麗に生まれたら人生は楽しいんだろうなあって思うくらい」


「へぇ、そうなのね。太一もそう思う?」


「ん? まあ、綺麗なんじゃないか」


 僕は女性に対しては基本的に綺麗かと聞かれれば綺麗と答えるようにしている。相手が口裂け女だろうとだ。これが軟派な男とかそういうものじゃなくて、ただの社交辞令とか世渡りみたいなものだ。自分には甲斐性なんてないものだから、暦が隣にいるだけで手いっぱいになってしまう。


「ふうん。じゃあ、こっちを向いて」


 そう言いながら、暦は僕が何かを言う前に両肩に手をかけて、くっと捻り体を暦の方に向けさせられる。そして、そのまま心臓がある部分に手を当てられた。暦の手が、すっと自分の心臓を掴むようだった。いつも、手や腕に触れているのに、心臓の上に重ねられるだけで意味が違うように感じられて、変な汗が耳の後ろをなぞった。


「やっぱり、鼓動が早くなってる。昔から、いや昔のことしか知らないけれども太一は面食いよね。そんな美人な先輩と握手できてよかったわね」


 どうやら、暦は勘違いしているらしい。そうじゃないんだけどとは思いながら、暦の少し怒りの見える顔と、その後ろで宇佐美さんがにやにやとしているのが同時に見える。その光景を写真にまで収めようとしたから、さすがにそれは宇佐美さんに目の圧力でやめさせた。暦の機嫌をどう直そうかと僕は思考を巡らせる。


「暦ちゃん、心配しなくても大丈夫だよ。別に黒宮くんがどう思うかなんて関係なく、一色先輩は黒宮君なんてどれだけ好意的に解釈してもただのファンくらいにしか思ってないだろうし、握手なんて先輩からすれば別に大したことじゃないから」


 そういう方向の弁解か。まあ、一色先輩は男の人なんて選びたい放題なんだから確かに僕のことなんて明日には忘れているだろうけど、僕が一色先輩の容姿に対して緊張しているようなやわな男じゃないと訂正してほしかった。


「心配? 私が何を心配してるって言うの?」


 暦が、僕から今度は宇佐美さんを詰める。その剣幕に宇佐美さんもたじたじだったから、僕はとりあえず助け舟を出しておいた。


「まあまあ、僕は大丈夫だよ。暦、落ち着いてくれ」


「そうそう。それに私は暦ちゃんと黒宮君なんて事情はあるにせよずーっと手を繋いでいるんだからそんなことで嫉妬しなくてもいいと思うんだけどなあ。外だったり歩くときならともかく、たまに教室で座ってる時でも繋いでるでしょ」


 それは、暦が繋いでほしいと言うからしていただけなのに僕も暦も一気に体温があがる。しかし、その熱は長くは続かない。


「そ、それはいいから。でも、そんな事情もないのに握手をしようなんてその先輩は太一の事を気にしてるんじゃないの。だって宇佐美さんも太一と手を繋いだことなんてないでしょ。そんなことするなんて、好きって言っているようなものよ」


 暦は頬を膨らませながら怒っている。何をそんなにむきになっているのかわからなかった。いつもは冷静に僕のことをからかう癖に、自分のことをつつかれるとこうなるのだろうか。僕にはそんなことできなかったからこういう面を見るのは新鮮だ。


「う~ん、でも一色先輩って交際の噂がたくさんあるし。それこそ手を繋ぐどころかその先のABCとかも経験していそうだけど……」


 そういう話をうら若き僕の前でするのはやめてほしい。暦の前では更に。


「何、そのABCって。太一も知ってるの?」


 暦は僕の方を向いて今度はこちらに圧を放ってくる。もちろん知っているけど、さすがに暦にそんなことを僕の口から言いたくはないし、宇佐美さんの口からそれの説明を暦にしている場所に同席したくない。


 何より、暦はキス以上のことを、つまりはAから後を知らないのだ。ちょうど保健体育でそう言ったことを教える授業のタイミングで熱を出して休んでいたから。僕はそれを宇佐美さんに目だけで伝えると暦を落ち着かせようと思考を巡らせる。


「僕も知らないよ。暦、いいから落ち着いて」


 白くて綺麗なその顔は、頬を赤く染めていた。僕は、そんな暦の頬に手を当てる。


 その僕の手を暦は手でつかむと強く頬に押し当てた。その仕草に宇佐美さんはひゅーひゅーとはやし立てるが、気にしない。今は暦を落ち着かせる方が先決である。すると、だんだん暦の頬に集まっていた熱も落ち着いてきていつもの暦に戻ってきた。


 自分のペースが乱されて少し苛立っているようだけれども、これ以上はご機嫌を損ねてしまうからやめておこう。手を放そうとすると、今度は暦の方からぎゅっと握ってきた。宇佐美さんが何か言っているけれど、もう無視だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る