1頁目 白坂暦の非日常
そんなわけで僕と暦は、週末だというのに学校へと向かっていた。二人とも中学時代から部活には所属していないからこういうことは初めてで、暦はそれも嬉しそうにしている。学校用のカバンに、別でお弁当の入った青い保冷のエコバックを僕と繋いでいないほうの手に持っている。
天気は快晴で、それも暦のご機嫌取りに一役買っているようだ。宇佐美さんと約束したのは学校に九時だから、平日と起きる時間も出発する時間も、僕が暦の家のインターホンを鳴らすのも同じ。
ただ、そんな時間だから当たり前に社会人や学生たちは休日に甘えて惰眠を貪っているのだろう。電車の中は空いていて、僕と暦は並んで座ることができた。普段は暦の席を確保するのが精いっぱいだから隣から電車に揺れる暦の横顔を見れることは新鮮で、改めて綺麗だと思う。
「どうしたの? じろじろと見てるけど。何か私の顔についてる?」
こういう時に気を利かせて綺麗な目とか言えれば少しは反撃もできるんだろうけれど、そうできるならこんな関係になっていない。夏はまだ終わっていなくて車内はエアコンがガンガン効いているはずなのに僕はシャツを前に引き伸ばして体の表面に風を送る。 その音を聴いて、暦はまた笑っている。
「あのさ、そのお弁当って暦が作ったの?」
「違うわ。若崎さんが出かけると言ったら作ってくれたの。なぜかわからないけどあんなに完璧な人が料理をするのは、それもサンドイッチを作るだけにえらく苦戦していたけれども、それでも私のためにって料理してくれたのよ」
「そっか、それは良かった」
若崎さんが暦にお弁当を作る。あんなに料理が苦手な人が暦のために頑張ったのだと思うと僕まで嬉しくなった。仕方のないことかもしれないけれども、どうしても暦はその身体的なハンデにより普通の学生生活というのをみんなと全く同じように受けることをできてはいない。だけどこんな風に、まるで部活みたいに土曜日の朝にわざわざ早起きしてこうして制服で電車に乗って出かけるのが暦は楽しいのだろう。
それが伝わったから、若崎さんも頑張りたかったはずだ。
「もちろん、太一の分も準備してくれていたから分けてあげるわ」
暦はそれを得意げに言う。ちょうど電車がホームに入っていく瞬間で外から爆発的な音が鳴り響く中でわずかに聞こえた声は少しだけ語尾が上がっていた。
「どうせ、太一は購買でパンでも買えばいいと思ってたんでしょ」
まあ、そうだ。部活には所属していないとしてもオープンキャンパスで暦と一緒に学校へと来た時に食堂でカレーを食べて購買で焼きそばパンを買った記憶がある。
あれは確か土曜日だったし、その時に案内をしてくれた名前を知らない先輩へカレーが美味しかったことを伝えると、彼も部活で週末に学校へ来るときには絶対にカレーを食べていることを教えてくれたのは記憶に残っている。
「でも、今日は購買は空いてないわよ。演劇部以外の部活はほとんど遠征だから」
「あ、そうなんだ。じゃあ、助かるよ。ありがとう」
「お礼は若崎さんに言うのが筋よ」
そんな会話をしているうちに、学校の最寄り駅についた。最寄り駅でも学生の、少なくとも僕や暦と同じ制服を着た人は見当たらず閑散としている。駅の付近には僕らが通う学校とファストフード店と本屋くらいしかない駅だから当たり前だ。駅でもう三駅もいけば都会なんだけれども、今日はそのために来たわけじゃない。
「えっと、待ち合わせはこの辺りなんだけどな」
僕はポケットから携帯電話を取り出して、昨晩に宇佐美さんから送られてきたメッセージを確認するためにアプリを起動する。そこに書かれているのは三番出口に近い改札から出たところにいると書いてあるのだが、宇佐美さんらしき人の姿は見えない。そもそも、あの人なら暦を見つけてすぐに飛びよってきそうなものだ。
「どうしたの? 宇佐美さんがいない?」
「うん。まあ、待ち合わせよりは遅れているけど別に練習時間よりは早めに集まるようにしているから大丈夫。ここにいると邪魔になるから、端で待っていようか」
僕の提案に暦は素直に頷いて、二人で改札からすぐの場所にある柱へと移動する。携帯電話を取り出して、時計をもう一度確認する。演劇部の予定も教えてもらったけれども、それよりはまだ十五分も早い。
改札を出てすぐ、駅構内にあるコンビニの隣でどんな雑誌が売られているのか眺めながら次の電車が到着するのを待つ。暦はイヤホンをかけてどうやらオーディオブックを楽しんでいるようだった。世の中、便利になってとてもいいことだ。
それから五分ほど待って、そろそろ大丈夫かと心配して宇佐美さんにメッセージを送ったタイミングで、暦の名前を呼ぶ声が駅の内側から聞こえた。
「ごめんね、お待たせしたみたいで。暦ちゃん、黒宮くん」
声のするほうを振り向いてみるとそこには宇佐美さんが駆けて来ていた。宇佐美さんは普段から様々な部活の助っ人として活躍しているからおそらくそのタイミングでもらったのだろう、学校にも着ていける部活のシャツを着ていた。背中に羽球と書かれているのは確かバトミントン部だろうか。僕らの前で立ち止まり、かるく身を屈めて息を整える。宇佐美さんが余裕のあるシャツのままで屈んだから、僕は慌てて暦の方に目を逸らした。
「別に気にしなくてもいいよ。なあ、暦」
見るからに急いできたというふうで息を切らしている。たかだか十分の遅刻だし、普段からお世話になっていることを考えればなんてことはない。僕は軽く会釈で挨拶をしたけれども、暦はオーディオブックに夢中になっているようで気がついていないようだ。そんな暦の肩を軽く叩いて声をかける。
「あら、宇佐美さん。おはよう、そんなに急がなくても良かったのに」
振り向いた暦は少しだけ、いやかなり嬉しそうな表情を浮かべていた。僕なんてどうせ小学生の時からずっと一緒にいるから、宇佐美さんに会えて非日常感が増したのだろう。
「おはよう、ごめんね。それで、暦ちゃんは何を聞いてたの?」
「ああ、これ? もちろん、今日の演目であるオセローを聞いていたわ」
「へぇ、私も聞いてみたい!」
宇佐美さんはすぐに息を整えて、暦が差し出した右側のイヤホンをその小さな耳に差し込んだ。僕はそんな二人の様子を眺めていた。
「太一も聞く?」
暦にもう片方のイヤホンを差し出される。先ほどまで暦が付けていたイヤホンということに少し緊張するけれども、そんな様子を悟られないようにしながら耳へと入れる。しかし、最初から何を言っているのか全く分からない。まさかの原語版、つまりはイギリス英語だった。宇佐美さんも暦も、この流暢な英語を聞き取って瞬時に理解しているのかと思うと、やっぱり俺とは頭の作りが違うんだと実感する。
それから少ししてキリの良いところまで到達したのか暦と宇佐美さんは同時にイヤホンを耳から外して、二人の間で視線を媒介に感想を交わしてから、僕の手が暦に引かれたのを合図に僕らは学校に向かって歩き出した。
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