3頁目 高岸遼星の催促

「暦、そろそろ落ち着いた?」


「ふん」


 少し不機嫌ではあるけど、とりあえず暦は話ができるようにはなっていた。しかし、僕の手を掴んだままで話してくれない。その間に宇佐美さんは部室内にある黒いカーテンの裏で着替えていた。こんな状況で衣擦れの音に耳を立てるのを気づかれたらより怒られそうだから、とりあえず意識を暦の方に向けていた。


 カーテンの揺れる音だけが部室に響いている。高校の土曜日というのは現実では知らないけれども、ドラマなどで見る限りは部活の掛け声が飛び交っている印象だったけれども、今日はえらく静かだ。そのおかげで、暦の声も良く聞こえる。


「ほ~い、準備できたよ!」


 それから長針が二回転ほどした後に、宇佐美さんが勢いよくカーテンを引いて現れた。その背後から陽の光が降り注いだせいで、僕はその瞬間に宇佐美さんのドレス姿を目に収めることができない。数秒の間、腕で目元を覆ってから慣れてきたところで腕を下ろすと、そこには一人のお姫様が立っていた。


 宇佐美さんの顔は無邪気な笑顔で輝いていた。黒い無垢なドレスと彼女のまだ夏休みの日焼けが残る肌がグラデーションのように綺麗で、可愛らしさと美しさの両方をはらんでいた。くるりと僕へアピールするようにドレスをはためかせながらターンをする。その動きも、ドレスを身にまとって気持ちが入ったのか手の動きも表情もいつもの明るい宇佐美さんというよりは、まさにお嬢様の様な柔らかな笑顔と優雅な動きだった。いつもと違う雰囲気に、僕は変に緊張するのを隠せない。


「痛っ」


 太ももの後ろを暦につねられた。やっぱり、この洞察力は凄い。


「宇佐美さんにも一色先輩にもでれでれして」


「ごめんって、暦。宇佐美さんにでれでれしたわけじゃなくて、いつもの宇佐美さんと雰囲気が違っていてびっくりしただけというか。でも、暦のドレス姿のほうが可愛かったよ。ほら、たまに家で来ているときあるだろ。一色先輩や宇佐美さんには悪いけど、暦のドレス姿ってほんと可愛い。また見たいな」

 

 僕がそう言うと、暦は目元にはまだ怒りを残しながらも口角は少しだけだが上がっていた。僕は普段、可愛いなんて言葉を思っていても言えるはずもないけど、こんな雰囲気だからなのか自然と暦の可愛さを褒める言葉を口にできた。宇佐美さんが腰のあたりをつついてくるけれども、それに声を出すと暦の機嫌を損ねかねないから頑張って耐えている。横目に暦の顔を見ると、笑顔というわけじゃないけれども照れているのが僕の位置からでもわかる。


「はいはい、イチャついてる時間はないからね~。そろそろ行かないとだし、暦ちゃんは安心していいよ。私は太一君にこれっぽっちも興味ないし、一色先輩だってそう。それに、太一君は暦ちゃんの事がだ~い好きだからね」


 宇佐美さんは僕の肩をぽんぽんと叩く。確かに、僕は暦の事が好きだ。それは間違いない。でも、それを今ここで言うのは違う気がする。熱を帯びていく体を抑えるために、僕は話題を逸らすことにした。自然な形にするためには申し訳ないが、別の人を出汁にするしかない。


「まあまあ、それに一色先輩は高岸さんと付き合ってるんじゃないのか?」


「高岸さん?」


 暦は知らないけれども、うちの演劇部で女優の華が一色先輩なら、俳優の華は高岸さんと言っても過言ではない。まあ、すらっとしてるし薄い顔のイケメンで女子たちから人気の出そうな顔ではある。男子からは人気はないけれども。


 しかし、その噂を宇佐美さんが否定する。


「う~ん、それはよくわかんないんだよね。確かに見た目だけならお似合いなんだけど高岸先輩ってすごく遊び人って言うか、この前なんて私にすらも声かけてきたんだよ。チャラくて顔だけいい高岸先輩みたいな人は一色先輩には合わないって言うか」


「誰がチャラくて顔がいいだけの人間だって?」


「あ、あはは。高岸先輩、おはようございます」


 三人で話していたせいで気が付かなかったけれども、いつのまにか部室のドアが開いていて、高岸さんがそこには立っていた。しかし、声の割には苛立っている様子はないらしく、それは音から感情を読み取るような暦が、顔に怯えの色を浮かべていないことからもきっと正しい。まあチャラいなんてそこまで酷い悪口でもない。


 演技なのかどうかはわからないけれえども、高岸先輩はやれやれといった表情をしたままで首を横にふり、わざとらしい溜息をついた。


「はぁ、本当に失礼な後輩を持って大変だよ。先生たちは?」


「先生はたぶんもう体育館にいると思いますよ。もう演者は全員、揃ってますから早くしてください。高岸先輩がいないと練習が始まらないでしょ」


「はいはい、うるさいなあ。じゃあ、また後でな。鍵はちゃんと閉めておけよ」


 高岸先輩はさっさと行ってしまった。結局、僕や暦に対しては別に興味を示すこともなく、宇佐美さんにだけ話しかけている。案外、宇佐美さんに対して高岸先輩がアプローチをかけていたのも結構、本心からくるものなのかもしれない。


「よし、じゃあ先輩も全員が荷物持ったからここの鍵だけ閉めて体育館に向かうよ」


 僕と暦は宇佐美さんの号令に従い、演劇部の部室から退去した。演劇部の部室は旧校舎にあるから、体育館まで少し距離がある。旧校舎には他にも多数の部室が揃っているけれども、今日は野球部もサッカー部もラグビー部のも別の学校で練習試合をしているらしいから旧校舎はがらんとしていた。


 その廊下を宇佐美さん、暦、僕の順で並びながら歩く。廊下には僕たちの足音以外は響いていなくて、妙に静かなのが落ち着かない。


 暦は手こそ繋いではいないけれども、僕と密着して歩いている。目が見えないから仕方がないんだけれども、ドキドキして仕方がない。旧校舎から体育館へと向かう廊下を歩きながら、僕は今から見る演劇のことを考えていた。


「ねえ、太一」


 暦が、そんな廊下の中でも僕にだけ聞こえるように小さいけれども透き通った声で僕の肩に顎を載せながら話しかけてきた。声を出すたびに、かくかくと顎が開いて肩に揺れが走る。それがなんだかくすぐったい。


「何?」


「そ、そんなにドレス姿が可愛いって言うんだったら明日。家に遊びに来てくれたら、新しく大叔父様からもらった青いドレスを見せてあげる。若崎さんには着替えの手伝いをしてもらうから仕方ないけど、お父様にも誰にも見せてないのよ」


 肩に暦の息がかかって、温かい。耳が赤くなっているのが自分で分かった。白くて綺麗な肌と、カーキ色の髪の毛。青い色というのは、空に近い青だろうか、それとも暦の部屋に飾られているトルコ桔梗のような色だろうか。その光景を想像すると、そのあまりにも美しすぎるだろう光景に、僕はただ頷くことしかできなかった。暦は見えなかったはずだけれども、僕が頷いたのを理解したのか僕の右手に両方の手を繋いできた。そして、僕の指を操って親指と人差し指の先をくっつけた。

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