5頁目 白坂暦の興奮
「あ、あの~。大丈夫ですか?」
僕は、何が起きているのかと怯える暦の手を少しだけ強く握りながら二人の間に入った人の良さそうな男の人に声をかける。その人は郁美先輩も釈先輩もこちらから離れて声が聞こえないであろう場所まで移動したのを確認してから、溜息をついた。
「ああ、すいません。なんか見苦しいところを見せてしまって。いや、まあ僕たちにはなれっこなんですけども、郁美先輩も釈先輩ももっと大人になればいいのに」
「なれっこって、いつもああなんですか?」
僕の後ろにいた暦が、そのままの構図で彼に問いかける。
「まあ、いつもっていうと言い過ぎかもですけど。ただ、うちの演劇部って個性的って言うか。やっぱり郁美先輩みたいに見た目がよくていかにも小学校の頃からずっと一軍でした、なんでも思いどおりでしたみたいな人たちの集まりなんで、こういう風に意見が衝突することも多いんですよ。釈先輩もあんな見た目でしかも賞なんてとったものだから、ちやほやされっぱなしで。いや、嫌みってわけじゃないですよ」
確かに、郁美先輩も釈先輩もかなりの美人だ。それに、先ほどの一色先輩も高岸先輩も美男美女が揃っている。演劇部というくらいなんだから、まあそれは当たり前なんだろうけど、彼の言いたいことはわからなくもない。
宇佐美さんや暦のように美人だとしても良い性格の人がいるのはもちろんだし、普段から人に優しくされている分だけそう言う人も多いと思う。だけど、あまりに我儘が通り過ぎるとキツイ性格になるのも、人間っていうものだ。
「まあ、気にしないでください。どうせすぐに機嫌を直しますよ」
「ほら、遠間。練習を始めるぞ! 宇佐美さんも準備して!」
また、舞台から大きな声が入り口のほうまで届いて、宇佐美さんと遠間君はそちらへ向かって小走りで向かっていった。
「じゃあ、暦ちゃんも黒宮君も楽しんでね!」
そんな言葉を残して。
その後、僕は暦と舞台の見える場所まで移動し、演劇部の舞台を観劇した。シェイクスピアの『オセロー』
簡単なストーリーは、ヴェニスの軍人であるオセローはデズデモーナという女性と秘密裏に結婚をすることになる。しかし、そんなオセローを嫌っていたイアーゴーという人物は、ロダリーゴというデズデモーナを慕う若者を利用して、デズデモーナの父であるブラバンショーに告げ口をする。しかし、デズデモーナの努力もあって結婚は認められる。しかし、それでは気の済まないイアーゴ―は、デズデモーナとオセローの部下であるキャシオが関係を結んでいると讒言し、それを信じたオセローはキャシオの殺害を命令した後に自らの手で愛するデズデモーナを殺害してしまう。しかし、イアーゴーの言葉が嘘であることをイアーゴ―の妻であるエミリアの進言により知ることになる。最後にはエミリアはそのことでイアーゴ―に殺され、逃げ出したイアーゴ―も捕らえられる。悲しみに暮れたオセローも、デズデモーナに口づけをしながら命を絶つというものだ。
シェイクスピアらしい作品だと思う。どうしようもないやるせなさや、どうしようもない人間らしさが見事に描かれていると思う。
ただ、演劇部のそれも文化祭。他にも軽音楽部やバトン部なんかの発表もあるからなかなか『オセロー』を演じ切る時間はとれない。イアーゴ―の策略によりキャシオが副官から解任されるエピソードは挿入されていない。まあ、話の肝になるのは後半部分だし本格的に描こうとするならそのエピソードがあるとより最後の場面が輝くのは間違いないけど、高校の文化祭なんだからそれでもいいだろう。結婚が認められるところで上げて、そこからはひたすら落とす。文化祭でやるには重いテーマだとはおもうけど、まあシェイクスピアをやる以上は仕方がないだろう。
観劇の最中、ちょこちょこ暦の表情を見ていたけれどもすごく楽しそうだった。僕にはこういう劇を見る経験がなかったけれども、確かにいいなあ、と思える出来だった。オセローを演じる高岸先輩や、デズデモーナを演じる一色先輩はさすがメインどころということもあって演技力もさすがだったし、郁美先輩もさすが演者なのか先ほどまでは怒っていたのが嘘のように、感情を自在に操ってキャシオを演じている。
しかし、何よりも驚いたのは宇佐美さんの演技だった。正規の演劇部員でもないし、演技経験だってほとんどないはずなのに、いやだからこそか、彼女の演じるエミリアはすごく役にはまっていた。真っ白な画用紙に絵の具を載せたみたいに。普段から友人としての付き合いがあるからというのもあるけれど、決して劇全体で目立つ役ではないはずなのに宇佐美さんの印象は劇の通しが終わって緞帳が降りた後も残っていた。
「いや~どうだった? 暦ちゃんは楽しめた?」
ぱたぱたと緊張で熱くなった顔を手で扇ぎながら、舞台から降りてきた等身大の宇佐美さんは暦にそう尋ねた。
しかし、暦はそれを聞いても少しの間、返答に時間を要した。
「暦? どうした?」
僕がそう声をかけると、暦ははっとしたように僕のほうに向きなおってから。そして、少し恥ずかしそうに言った。
「宇佐美さん!」
「ひゃ、ひゃい」
暦はまるで見えていないはずなのに、宇佐美さんの両手をがっと掴んでそれを思い切り引き寄せる。顔はもう鼻がくっつきそうなくらいまで距離が近い。ドレス姿の宇佐美さんは、そんな暦にされるがままになっていた。いつもは飄々となんでもこなす宇佐美さんが、てんやわんやになって目を回している。
「すごかった、すごかったわ。演技が初めてとかどうじゃなくて、すごかった! この気持ちを表現しきる語彙が私の中にないのが悔しいくらいに」
「そ、そっか。あ、ありがと」
「あのね、声もすごく通ってて綺麗だったし、堂々としていてオセローやデズデモーナにも負けない存在感があったわ。私は目が見えないから少し表現が変に感じるかもしれないけど、見てしまう、目を惹かれる演技ってこういうことなんだなってわかった気がする、すごく有意義でとても面白かった。ありがとう」
「あ、あのね。暦ちゃん。嬉しい、気持ちは嬉しいけど」
緊張してまともに目を見ることができていない宇佐美さんに、暦は興奮のあまりそのままの勢いで言葉を続ける。
「なあ、暦。落ち着いて」
そんな僕の声かけも、興奮した暦の耳までは届かなかった。暦には、たまにそういうことがあるのだが、ここまでのは久しぶりだ。よっぽど宇佐美さんの演技がよかったのだろう、僕は暦ほど芸術観があるわけじゃないけど宇佐美さんの演技は凄かった。ふんふんと鼻を鳴らし、目をらんらんと輝かせながら宇佐美さんの演技を誉めちぎっている。そして、その勢いのままに顔が近づいて、ついに暦の唇と宇佐美さんの鼻先がぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
暦は急に冷静になって、宇佐美さんから距離を取る。しかし、一方の宇佐美さんはそれで限界がきたのか、それともただでさえ熱い体育館、それに豪勢なドレスで熱が体に籠っていたのか、顔を真っ赤に染めた後に、ぐらりと体のバランスを崩した。
「危ない!」
結局、僕がなんとかそれを抱きかかえたから怪我にはならなかったけど、宇佐美さんはもう、その日は通しの練習には参加することができなかった。
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