第9話 城塞
「これが、城塞都市か。すごい壁だ」
その壁は、まさに天までそびえるほどだった。前に立てば、空すらも見えない。
アンドロマキアの旧帝都は、この壁によって守られていた。内側は限られた人間しか入ることを許されず、それでも交易の中心であった。だが、それも過去の話だ。
今は、門を見張る兵士すらも配備されていない。
「うわぁ、こりゃひどい。まさか、あそこまで栄えていた帝都がこんなことになるなんてな。かつての光景はどこへ行ったんだか」
昔、アンドロマキアが最も栄えていた時の帝都は影も形もない。
「本当にそうですね。さすがに被害は甚大ですか」
「政府が存在しないんだから、誰も復興なんてさせないのは当たり前だけどね」
その言葉は正しかった。
正確に言えばここはストレイジング領に当たるのだが、そのストレイジングは旧帝都の完璧な統治を諦めている。なぜかと言うのが、ちょうどナナ達がここを訪れた理由にもつながってくるのだ。
「それで、サンクチュアリさんはどこにいるのかしら」
「待ち合わせは第五地区の中心街なので、まだもう少しかかりそうですね」
帝都内には、かつての政府高官の住まいや、国に保護された銀行や会社が軒を連ねていたため、アンドロマキアにとっては最重要防衛地域だった。ここを失えば指揮系統が狂い、国としての運営も成り立たなくなる。そのため、防備を強化するため帝都は巨大な壁に囲まれており、その内側だけでも充分に生活が成り立つように計画されて作られた。物流から経済からすべてが、完結していた。
その姿は、まるで小さな世界を創造したとも言われるほどに。
「しかし、壁が破られればそれまで。いや、こちらから壁を開いて相手を歓迎したんだからこの壁も結局は何の意味もなさなかったんだよな」
スガリが壁に手を触れながら話す。確かに、今となってはかつて帝都であった場所かそうでないかを判別するためだけにしか使われない。無用の長物でしかない。そびえたつ壁は、いったい何を守っているのだろうか。
「さあ、いきましょ。第五地区ならここから更にかかるでしょ」
アンドロマキア帝都第五地区。通称、軍事地区。かつてのアンドロマキア陸軍、海軍の本部が存在しており、さらには兵学校なども併設されていた。本来ならばナナもその兵学校に入るはずだったが、このありさまでは仕方ない。
「校訓の死を賭してアンドロマキアのためになんてどこへいったのかしらね」
実際、国のために命を懸ける事の出来る人間なんてそう多くはないだろう。
どうせ逃げれば味方に背中を打たれるから仕方なく戦い、その結果で死んでいくだけだ。ナナ達が異常なのである。命よりも大事なものなんてないのが普通だ。
だけど、ナナにはやっぱり優秀な政治家がいる安定した国家こそが民衆の暮らしを救う最も有効な方法だと思う。そのためには、戦うしかない。
その復興のために、ナナは命を懸ける必要がある。
それが、軍人としての責務だから。父に恥じないように。
「ねえ、スガリ」
「ん?」
ナナは古びた壁に触れながら言った。確かに、ナナはこの壁を内側から見ていたはずなのに、その光景を思い出すことができない。事実としてそれを聞かされただけだ。壁は冷たく、なんの温度も持っていない。
「スガリはこの中にいた時のことを覚えてる?」
「いや、まったく」
―――アンドロマキアが混乱に陥る中で、並み居る諸侯たちはストレイジングの侵攻に対してこれと言って抵抗をすることもできずに次々と下っていった。しかし、軍人や政治家のなかには自ら武器を取って、自らの持つ軍を指揮して戦う人間もいた。
その中には、ナナの父もいた。いや、ナナの義理の父だ。
血のつながりはない、ナナが孤児だったところをその男に拾われたのだ。
彼は警戒するナナに、パンを与えた。すると、ナナは飛びついて食べ始めた。捨てられてから、まともにご飯を食べられていなかったナナにはごちそうだった。次に彼は、火を与えた。アンドロマキアの冬は寒い、ナナはようやく凍った表情を崩して彼に笑いかけた。その瞬間に、彼は幼いナナを抱きしめていた。
「ぎゅってすると、あったかいね!」
彼は申し訳なく思った。自分の行った改革が失敗したことで収入が最下層の家庭はかなり経済的に苦しくなって捨て子が増えた。彼はそれを挽回しようとしたけれども、ついにはその責任を問われて中央からは遠ざけられてしまった。
もう、自分の力でできることはこうして捨て子たちを救う事しかない。結果的に彼は十人の孤児を育てることに決めた。だが、彼ら彼女たちはアンドロマキアの厳しい冬でまともな食事もとれない、まともに眠るところもない。
既に、内臓や気管支などに重病を抱えていた。結果的に、二人しか残らなかった。
それが、スガリとナナだ。彼は、八人に詫びた。他の孤児にも詫びた。
自分を遠ざけた、挽回のチャンスを与えてくれなかったアンドロマキアに恨み言を漏らすことは無かった。十人を育てるのは生活が苦しかったけれども彼は必死に働き、また勉強した。それこそが、魔法だった。
二人に、母親代わりとなる人物を作ってやりたい。既に都から追放された時点で妻も娘も離縁されている。新しく結婚なんてできる年じゃない。だからこそ、彼は禁忌とされてきた人間の生成を行なった。初めて、一般人が魔法使いに覚醒した。
「こんにちは。私はリノです」
リノは、魔法によってこの世界に産み落とされた。最初の人間だった。
彼はリノに二人を任せた。そして、弓を手に取った。
「リノ。スガリとナナの世話を頼む。スガリはドラゴンの話が好きだ。僕の記憶を持っているなら、その話も覚えているよね?」
「はい、覚えています」
感情が少し薄いところもあるけれど、これから学んでくれればいいだろう。
「ナナは甘いものを隠れて食べる癖がある。いつもは注意して、たまに見逃してやってくれ。女の子は甘いものが良く似合う」
「はい、わかりました」
彼はリノに後を任せた。眠っているスガリとナナの寝顔を見ることはせずに戦場へと赴いた。彼は、アンドロマキアが危機的状況にあることをわかっていた。
「ごめん、スガリ、ナナ。最後まで一緒にいてやれなくて」
彼は勇敢にアンドロマキアのために戦った。そのことだけは、スガリとナナにも伝えられた。彼の声が届けられることは二度と無かった。
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