第5話 ごめんなさいね、私その子に用があるの

「おはようございます…。」

「おはよう。って、日菜子!ニュース見たけど、日菜子の家ってあの辺じゃなかった?」

「あの辺っていうか、あの場所そのものだよ。」

「えっ!?そんな大丈夫?…じゃないよね?今どこで住んでるの?ホテル?何か協力でいることがあったら言ってね?」

「あー…えーと、住む場所は大丈夫。その、……知り合いの家に同居させてもらうことになったから。」


 出勤と同時に、隣のデスクの怜奈が声をかけてくれた。一応雨季さんの家に居候をさせてもらっていることは伏せて、知り合いの家に住ませて貰ってることを説明した。怜奈は、安心したようでホッとした顔をしていた。


「良かった。日菜子が無事で。」

「ありがとう。怜奈。」

「ほんと、何か困ったことがあったら言ってよ?」

「うん。」


 よいしょ、と椅子を引いていつもの席について、パソコンを立ち上げる。事故があってバタバタしていたことなんてお構いなしに、相変わらず仕事は山積みになっているし、部長もポンポンと仕事を無限に増やしていく。


 私は夢中でカタカタとキーボードを打ち込み始めた。ほんと、仕事をしていると余計なことを考えないで済む。いつもは腹立たしいこの山積みの仕事に初めて感謝したかもしれない。



 ピコン



 あ、社内メールだ。差出人は……。


「雨季さん…。」

「ん?日菜子、何か言った?」

「いや、何でもない。」

「そう?」


 怜奈は不思議そうに小首を傾げて、またパソコン作業に戻った。

 私は周りを確認してから、メールをクリックする。


『今日の晩御飯は何が良い?』


 それ今聞く内容じゃないですよね!?それに社内メールである必要が全くない。普通に携帯に連絡を入れてくれ。


『何でも良いですけど、社内メールは止めてください。』

『どうして?』

『どうしてもです。』

『社内メールだったら日菜子ちゃん絶対目を通してくれるでしょう?携帯だといつ見てくれるか分からないし。』

『だとしてもです。どうしても社内メールをするなら、せめて雨季さんって分からないようにしてください。』

『考えておくわ。』


 ふう、と一息を付く。隣の怜奈が私の事をジロジロとみている。


「なんかすごい顔で、すごいスピードでキーボード打ってたけど大丈夫?大変そうな案件でもきた?」

「来たと言えば来たし、来てないと言えば来てない。でも大丈夫、今片付いたところだから。」

「それならいいんだけど。変な日菜子。」


 お互い仕事に戻る。ああもう、さっきの雨季さんのせいで集中力が途切れてしまった。珈琲でも買ってきて仕切り直しだ。


 私は財布を小脇に抱えて席を立った。


「自動販売機行ってくる。怜奈も何かいる?」

「ミルクティーで。」

「了解。」


 私は社内の休憩室にある自動販売機へ向かった。


 それから十数分後の事だった。


 珈琲とミルクティーを抱えて戻ってきた私。


「ただいま。はい、ミルクティー。」

「おかえり。ありがとう。お金払うよ。」

「良いの良いの。私の奢り。」

「良いの―?珍しい。ありがとね。」


自分の座席に座って缶コーヒーのプルタブを開けた。


 ああ、カフェインが身に染みる。なんて思いながら、途中になっていた仕事を片付けるべく、マウスを動かすと新着の社内メールが来ていた。まさか…また雨季さんだろうか。


 恐る恐る差出人を確認すると、そこに記されていたのは、雨季さんではない別人の名前だった。


「えーと……Yuuki Takemoto?」


 誰これ。あ、でもちょっと雨季さんの名前に似てる。さっき雨季さん本人って分からないようにメールしてって送ったばっかりだ。ということは、このメールの差出人は雨季さんということになる。わざわざご丁寧に全く別のメールアドレスを作ってくるなんて雨季さん仕事早すぎだ。


 私はメールをクリックし、文章に目を通す。


『仕事お疲れ様。もし良かったら今日の夜、ご飯いかない?』


 そう言えばさっき晩御飯は何が良いって聞いて来たもんな。


『良いですけど。』

『良かった。じゃあ、19時に会社前で待ってる。』

『分かりました。』


 19時、つまりそれまでには仕事を終わらせないといけないな。一分でも遅れたら雨季さんに何言われるか分からない。私は缶に残ったコーヒーを一気に飲み干して、パソコンと睨めっこを始めた。



 そして、ただいまの時刻19時。何とかギリギリ仕事を終えた私は、慌てて会社の入り口まで向かう。急いでいたので携帯をチェックする暇もなく、とりあえず適当に机の上に広がっていたものを鞄に詰め込んできたのだ。


「お待たせしました!」


 息を切らせながら到着すると、そこにいたのは雨季さん……ではなかった。


「木城さん、お疲れ様。」

「え。」


 誰この人。スーツに身を包んだ男性。まあまあ若くて、パッと見好青年。こちらに向かって手を振っている。


「ちゃんと話をするのは初めてだよね。営業部の竹本勇樹です。今日は急にメールしちゃってごめんね。いつも一生懸命仕事をしてるから一回一緒にご飯行ってみたいと思ってたんだ。」

「えっ…と?」

「ん?どうしてそんな驚いた顔をしているのかな?」

「いえ、その、何と言いますか…。」


 てっきり雨季さんだと思っていたのに。頭が混乱する。えっと、つまり、私が雨季さんだと思ってメールをしていた相手は、実は全くの別人だったってこと…なのか?


「人違い…といいますか。」

「え?人違い?」


 竹本さんは不思議そうな顔をしている。


「まあ、とりあえず一緒にご飯行こうか。」

「あのその件ですが…。」

「何か用事があるのかな?」

「用事はあるというかないというか…。」

「ははっ、木城さんって面白いね。」


 笑いながら竹本さんはさりげなく私の肩に手を置いて引き寄せた。触れられた肩からゾワっと不快な鳥肌が立つ。慌てて私は竹本さんから離れた。


「木城さん、どうしたの?」

「すみません。」


 うっ、いくら不快だったとはいえ急に離れたら失礼だったかもしれない。私はペコペコと頭をさげた。竹本さんはそんな私を見て笑った。


「ああ、なるほど。恥ずかしがり屋ってわけだ。」

「いえ、そういうわけでは。」

「いいよいいよ、恥ずかしがらなくても。そういう子俺好みだし。さあ、行こうか。美味しいお店があるんだ。」


 彼はニヤリと笑う。何だか寒気がする。そんな彼の顔を見たくなくて視線を下げたのだが、恥ずかしがっていると勘違いされてしまったようだ。どうしたら良いんだろう…。社内メールでは行くって返事しちゃったのも事実だし。やっぱりついていくしかない。さっさと

ご飯を食べて速攻で帰ろう。


 鉛のように重く感じる足を何とか上げて行こうとした時だった。






「あら、営業部の竹本さんじゃない。こんばんは。」






 聞きなれた声。鈴を転がすような声。はっと顔をあげると、そこにいたのは雨季さんだった。


「雨季…さん?」


 雨季さんはにっこりと微笑んで、私たちの方へ歩みを進めた。


「たっ竹中雨季さん!?」


 竹本さんは急に私から離れると、背筋を伸ばして直角にお辞儀をした。竹本さん、さっきまでと表情が一変している。なんていうか、例えるなら今は蛇に睨まれたカエル状態だ。


「ごめんなさいね、私その子に用があるの。良いかしら?」


 笑顔を崩すことはなく、にっこりと微笑んだまま腕を組んだ雨季さん。一歩進むごとにふわりとフレアスカートが揺れる。


「どっどうぞどうぞ。」

「あら、ありがとう。さすが営業部のエースの竹本さん。今度お礼しないといけないわね。」

「お礼なんて結構です。しっ失礼します。」


 竹本さんは脱兎のごとく勢いよく行ってしまった。ぽつんと取り残される私。そしてちらりと私に視線を移動する雨季さん。


「日菜子ちゃん、彼は確かに顔は整っているし、仕事面においても営業部のエースだけれど女癖が悪いからやめておいた方がいいわよ。あと、あちこち社内の女の子に声をかけているから、日菜子ちゃんが付き合えたところで第五夫人といったところかしら。」

「ぜっ全然彼には興味ないですから!」

「あら?そうなの。」


 雨季さんはキョトンとした顔をしている。


「それにしても意外ね。日菜子ちゃんって男性にご飯誘われて付いていくタイプじゃないと思ったんだけど。」

「行くわけないじゃないですか!これは雨季さんに誘われたと思ったからで。」

「あら?」


 彼女は少し驚いた顔をしていた。私はそのまま、竹本さんからの社内メールを雨季さんが名前を偽ったものと勘違いしたということ。雨季さんに誘われたから急いで仕事を片付けて待ち合わせ場所まで急いで向かったことを伝えた。


 雨季さんの表情からは何を思っているのはよく分からなかったけれど、とりあえず自分がここにいるに至った理由はちゃんと説明できたはずだ。っていうか、別に悪いことをしているわけじゃないのに、この罪悪感は何なのだろう。


「――というわけなので、別に彼に興味があったわけではな……。」


 言いかけて顔を上げると、雨季さんとバッチリ目が合った。

 雨季さんは、何となく嬉しそうに私の顔をじっと見つめた。桃色の綺麗なリップがキラリと輝く。


「なるほど。つまり、日菜子ちゃんは私が大好きってことね。両想いで嬉しいわ。」

「はい?」


 なんでそうなるんですかね。今までの話聞いてました?ねえ、雨季さん。


「だってそういうことでしょう?こうやって必死に弁解するのも、私に誤解されたくないい、嫌われたくない一心。つまり私の事が大好きってことで…。」

「だからなんでそうなるんですか。」


 間髪入れずにツッコミを入れる。雨季さんは上機嫌に笑いながらポニーテールを揺らした。


「まあ、そんなに私の事が好きならせめて退勤前にメールくらいは見て欲しいけれど。」

「え?」


 私が鞄から携帯を取り出すと、雨季さんからメッセージが数件届いていた。


「すみません。」

「良いのよ。でもやっぱり携帯は見てくれないのよね?社内メールは今回みたいなことになったら困るし、どうしましょうか?いっそ私の部署まで移動しちゃいましょうか?」

「それは勘弁してください。」

「うふふ、冗談。それに日菜子ちゃんが携帯見ないのはいつものことだし、左程気にしてないわ。さあ、帰りましょうか。今日の仕事はもう片付けたんでしょう?」

「………。」

「ほーら、何やってるの。今日は日菜子ちゃんの大好きなグラタンにしましょう!美味しいお店あるのよ。この時間なら充分間に合うわ。」


 何でグラタン好きなの知ってるんだ。ってそういえばこの人、意味が分からないくらい情報通だった。


「私とご飯行くの、嫌かしら?」

「……嫌、じゃないですけど。」

「素直でよろしい。さあ行きましょう。」


 雨季さんは私の手を取って歩き出した。




「そういえば雨季さん。竹本さんどうしてあんなに雨季さんを見た瞬間顔色を変えて帰ってしまったんでしょう。」

「さあ、どうしてでしょうね?まあ、誰しも人には言えないようなことの一つや二つあるものよねー。あーお腹空いたわね。あ、ついでに寄り道してもいいかしら。一緒に暮らすんだから日菜子ちゃんのマグカップや食器もそろえちゃいましょう。とびっきり可愛いのが良いわね。」


 雨季さんは満面の笑みを浮かべた。その満面の笑顔が怖いんですけど。


「あら?どうしたの?日菜子ちゃん。眉間に皺が寄ってるわよ?」

「何でもないです。」

「そう?」


 二人で並んで歩き出したのだった。


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