第3話 休日出勤と差し入れ

「なーんで、私は休日出勤してるんですかねえ。」


 なんてボヤキながら私は目の前のパソコン画面とにらめっこしている。

 昨日急遽飛び込んできた仕事。しかも仕事を放り込んできた部長に至っては、今日は予定があるとかで休日を満喫しているらしい。くっそ。ありえん。


 ガラガラと音を立ててデスクの引き出しの中の栄養ドリンクの蓋をひねる。カキョっと音を立てて開く栄養ドリンク。ああ、なんていうビタミンの香…。こんなの毎日飲んでれば体に悪いっていうのは分かっているけれど、やめられないんだよなぁ。


 このフロアで休日出勤しているのは私一人というわけで、普段賑わっている社内が静かだ。どのくらい静かというと、窓を閉めているけれど外の蝉の鳴き声が聞こえるくらいには静かだ。


「クーラー入れているけど暑い…。」


 コンビニでも行ってアイス買ってこようかな。いや、お腹壊しても嫌だからジュース程度に留めておこうか。まだ仕事終わりそうにないし。この調子じゃ終わるの夕方かな?いや、夜かも。私の休日はどこへ…。


 盛大な溜息と共に財布を鞄から取り出して、ドアを開けた時だった。


「ぶわっ。」


 何かにぶつかった。壁…にしては柔らかいというかこれはきっと、壁ではなく人間だ。

 ゆっくり前を見れば、そこにいたのは会いたくない人物。最近猛警戒中の隣の部署の……。


「雨季さん。」

「こんにちは。休日出勤中の日菜子ちゃん。」


 うふふ、と満面の笑みを浮かべている雨季さん。外は今日最高気温更新だというのに、汗一つ書いていない。ノースリーブにフレアスカート。香水なのか、ほのかに良い香りが…。

そして手にはコンビニ袋とお洒落な紙袋が下げられていた。


「こ…こんにちは。」


 うわっ、とりあえず愛想笑いをするが笑顔が引きつる。そもそも何で休日出勤してること知ってるのよ。

雨季さんはそのまま私に一歩歩みより距離を詰める。私は慌てて一歩下がる。


「あらあら、まだ絶賛警戒中って感じね。」

「何ですか!?」

「休日出勤で会社のために身を粉にして働いている可愛い日菜子ちゃんに差し入れ。」


 ほい、と渡してきたコンビニ袋。中身が良く見えないけれど…怪しいものでも入っているのでは。


「そんなに怪訝な顔をしないで頂戴。大丈夫、怪しいものではないから。」

「本当ですか。」

「本当本当。」


 何て胡散臭い笑みなんだ。渡された紙袋は思いのほか軽かった。中には何が…。


「見ても良いですか。」

「どうぞ。むしろ溶けるから早く見てもらいたいわ。」


 中身を見ると、その中に入っていたのは……。


「レモンティー…。とアイスと、お菓子。」

「珈琲よりも紅茶派でしょ。今日は暑いから冷たいレモンティーにしたわ。うちの社内…特に貴女の部署のエアコンは効きが若干弱いから少し暑いのよね。アイスもオーソドックスなバニラ派で、お菓子は常温で手軽でいつでも食べられるクッキーが好み。ナッツ系がお好みよね。」


 うわ、好みど真ん中で攻めてきた。っていうか相変わらず何で私の個人情報どころか好みまで知ってるんだこの人。すごいを通り越して怖い。


「えーと、ありがとうございます。」

「あら、好みのはずなんだけど、どうしてそんなに顔が引きつっているのかしら。」

「それは分かっている上であえて言ってます?」

「うふふ、バレた?そこまで警戒しなくてもいいのに。昼間から何もしないわ。」

「そ、そうですか。」


 ホッとする私。いやいや待て。警戒心を解くな私。


「ほら、アイスは冷凍庫に入れて、レモンティー飲んだら。」

「はい。」


 言われるままに私は給湯室の冷凍庫にアイスを入れた。うわ、このアイスよく見ればコンビニとは言え、あの高いやつじゃないですか!こんなものをさらっと差し入れに買ってくるとは。レモンティーも最近コンビニで夏限定の新発売されたやつで、買おうか悩んでたやつだし。趣味趣向が筒抜けでもはや恐怖だよ…。


「ふーん、なるほどね。これはまた面倒くさい仕事を押し付けられて。」


 給湯室から戻ると、雨季さんは私のデスクに座ってパソコンを見ていた。っていうかなんかパチパチ入力し始めてるんですけど!


「ちょっと、何してるんですか!」

「ええー?」


 綺麗な夏色の赤いリップを輝かせて雨季さんは笑う。

 私は慌てて自分のでデスクに戻ると、画面上は送信完了とだけ提示されていた。


「ちょっと!雨季さん!何したんですか!」

「仕事を仕上げて送信しただけだけど。」

「はい?あの短時間で片付けられる量じゃなかったはずですけど。」

「それを片付けちゃうのが私なのよねー。」


 うふふ、と軽口を叩きながら雨季さんは私のデスクから離れた。

 急いで自分の席に座って、送信済みのファイルの中身を確認する。


 ………嘘でしょ。終わってる上に、さらに見やすく編集までされている。開いた口が塞がらない。


「社会人2年目の子にちょっと仕事押し付けすぎねー。日菜子ちゃんの上司は。ちょっと注意入れておこうかしら。」


 雨季さんは、鼻歌を歌いながら部長のデスクに移動をした。そして、部長のパソコンを起動した。


「何してるんですか!」

「んー。ちょっとね。」


 何かをカタカタと打ち込むと、雨季さんは「よし、完了。」と鈴が鳴るような可愛い声で囁き、部長のパソコンを閉じた。


「さあ、日菜子ちゃん。仕事も終わったし、そのレモンティー飲んだら行きましょうか。」

「え?どこに?」

「デート。この前屋上で言っていたでしょう?夕食の店も既に予約は済んでいるの。それまでショッピングでもして時間をつぶしましょう。最近出来たここのお店が良いと思うの。多分日菜子ちゃん好みなのよね。」


 スッスッとスマホを操作して画面を見せてくる雨季さん。確かにそのお店には興味が…って、いやいやちょっと待って。確かにほとんど強制的に付き合うことにはなったけどこんな日にいきなりデートだって!?私にも予定というものが…それに今日は誰も職場にこないと思ったから量販店で買ったヨレヨレの服だし、髪だってボサボサだし、メイクに至ってはファンデーションと眉毛のみなんですけど。


今日の私にタイトルをつけるならば、『疲れ果てた社会人』うん、ピッタリ。

そんな状態で、こんな綺麗系のいい匂いがする会社の先輩とデートだと!?無理無理無理。ここは上手いこと断ろう。


「急過ぎませんか?わ、私にも予定というものが…。」

「その予定である仕事は終わったでしょう?他に何か?」

「えーと、ほら、今日は出かける服装でもないですし?化粧だって超薄いですし…。」

「だから今から服と化粧品を買いにいくのよ。ショッピングって言ったでしょ?」


 何を言ってるの?と言わんばかりに雨季さんは首を傾げた。いやいや、そんな当たり前のこと言わないで?みたいな顔しないでください。


「だから、その、えっと。」


 何て断ろう。もう断るワードが底をつきた。私の足りなさすぎる語彙力よ。


「言いたいことはもうない?」

「………。」

「無さそうね。あ、そういえばもう一つ渡すものがあるんだったわ。」


 雨季さんは、入口に置いてあった可愛い紙袋を手に取った。そういえば、雨季さんコンビニ袋と一緒に持っていたっけ。てっきり雨季さんの物だと思ってた。


「差し入れついでにこれを渡すつもりだったのよ。はい、どうぞ。」

「これは何でしょう?」

「これはお楽しみ。まだ開けちゃ駄目よ。」

「やばいものでも入ってるんじゃないですか。」

「かもね。」

「えっ。」

「嘘嘘。」


 差し出される紙袋。私は恐る恐る手を伸ばすと、その腕を掴まれてグイッと引かれた。


「わっ。むっ。」


 そのまま雨季さんは私の唇に、雨季さんの唇を重ねてきた。これまたピンポイントに綺麗に唇が重なる位置に。一秒にも満たない触れるだけの短いキス。雨季さんの唇はすぐに私から離れた。


「なっなっ何してるんですか!真昼間ですよ!?意味わかんないんですけど!」

「化粧してないのを気にしてたみたいだから。リップを付けてあげようかなって思って。」

「はあ?」

「これ、夏の新色なんだけど、日菜子ちゃんも似合うわね。よし、これも買いに行きましょうか。お揃いって恋人っぽくてちょっと良いわ。さ、時間は待ってくれないわ。」


 雨季さんは私の手を引いて歩き出す。私は慌てて鞄を肩にかけた。高いヒールでズンズンと廊下を歩いていく雨季さん。それに比べてヨレヨレのローヒールのパンプスでついていく私。


ふと、廊下のガラスに映った自分の顔。唇にほんのりと赤いリップがついていた。それは紛れもなくさっきのキスで着いた色で……。


「あーもうっ。」

「なあに?」

「何でもありません!」

「そう。私はてっきり自分の唇の色に見惚れちゃったのかと思ったんだけど。」

「……。」


 見てたんだ。っていうかこの人、情報通なのは知ってるけど、それ以上に観察眼と視野の広さがすごすぎるのでは。

 ルンルンと相変わらず綺麗なポニーテールを揺らしながら歩いていく雨季さん。

 私はそのあとをついていくしかできなかった。


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