第7話 千年

 藤花と雪姫の口づけは、長く続いた。


 というか、藤花は長く雪姫に唇を押し付け続けた。不思議な高揚感と幸福感に包まれて、藤花は唇を離したくなかった。


 雪姫、それを拒まなかった。


 体がないから、拒みようがなかったというわけでもないはず。


 雪姫は魔法を使えるのだから、藤花を遠ざけようと思えばできたはずだ。

 


(……ああ、ずっとこうしたかった。雪姫に出会った、あの日から)



 藤花は目を閉じたまま、時よとまれと願った。


 しかし。



「……藤花。いつまでそうしているつもりだ。いい加減離れろ」



 拒絶の言葉を聞いて、藤花は胸の痛みを覚えた。



(雪姫は、わたしとの口づけ、嫌だったのかな……)



 藤花は仕方なく唇を離す。そして、至近距離で雪姫と見つめ合う。



「全く、藤花が私に懸想けそうしていることくらいはわかっていたが、この場面で私に口づけをしてくるとはな。危機感が足りんし、そもそも、非常事態において藤花は思考が鈍すぎる。いい加減、もっとしっかりしてくれんかね?」


「あう……ご、ごめんなさい……」



 とっさに謝りつつも、藤花はふと気づく。


 重苦しい空気が消えている。


 雪姫からも、もう威圧的な雰囲気は感じられない。



「ゆ、雪姫……? 正気に戻った……?」


「正気に戻るも何も、私は始めから正気だ。ようやく封印が解かれて少々気分が高揚したが、その程度の話だ」


「そっか……。じゃあ、やっぱり、雪姫は、悪い人じゃないってこと、だよね……? 力を取り戻したからって、大虐殺してやろうとか、考えないんだよね……?」


「いいや? ついさっきまで、封印が解ければまずはこの国の人間を大虐殺してやろうと思っていたさ」


「そ、そう、なの……? あれ、でも、ついさっきってことは、今は……?」


「藤花のド下手な接吻で興が冷めた」


「ど、ド下手とか言わないでよ! 初めてだったんだから仕方ないでしょ!? そもそも、上手な接吻ってどんなものなのさ!?」



 藤花の問いに、雪姫は答えない。


 でも、先程までの重苦しい雰囲気を吹き飛ばすように、からりと笑った。


 藤花が睨みつけても雪姫は笑い続けて、藤花が強めに頬を抓るとようやく大人しくなった。



「ひゃめろ、とうか。いはい」


「……雪姫が笑うのが悪い」



 藤花が抓るのをやめると、雪姫はどこか自嘲気味に笑った。



「勘違いするなよ、藤花。私は悪い魔王さ。だが……封印が解かれて、私は気づいてしまった。首だけの状態で生きながらえて、千年。私は……老いた」


「老いた……?」



 雪姫の美貌は、老いとあまりにも程遠い。


 老いたと言われても、藤花には理解しがたいことだった。



「完全に封印が解けてしまえば、たとえこの身が首だけであろうと、また人間を殺しまくってやろうと思っていた。千年間、ずっとそんな風に思っていた。だが……だがなぁ……いざ、それができる状況になってみると……千年前に確かにあったあの瑞々しい破壊衝動が、自分の中にないと気づいてしまった」


「……瑞々しい破壊衝動って……。物騒な……」


「ふふ? とにかくな、あの三人の魔法使いを殺して、私は悟ってしまった。あのときのように、人を殺めることに興奮できなかった。つまらぬとまでは言わんが、ひたすら人を殺して回りたいとは思えなかった。私はもう……あのときのように、若くない。千年の月日は、私の精神を少しずつ枯らしていった。人を殺して回ることを、面倒に感じてしまうくらいに」



 雪姫の言葉には、どこか哀愁めいたものが漂っていた。


 千年の月日は、確かに、そして緩やかに、雪姫の精神を変質させていったのかもしれない。



「なぁ、藤花よ。千年も昔に、私は私を脅かしたある女に言ったんだ。『人間に私を滅することはできない。たとえ私を殺しても、私は別の存在として生まれ変わり、また人間を虐殺する』とね。その女は、私に言ったんだ。『だったら、お前をバラバラにして、封印しよう。百年でも、二百年でも、あるいは千年でも、お前を封じ続けよう。この大いなる時間稼ぎの果てには、お前を完全に滅する方法も見つかっているはずだ』とね。なんとも気の長い話だよ」


「……うん」


「千年経っても、私を完全に滅する方法は、存在していない。少なくとも、私は知らない。だから、あの話の結論を言うのなら、あの女の予想は外れた。だが……これは結局、あの女の勝利なのだろう。千年の月日は、私の魂を緩やかに殺していった。ただ世界を蝕む存在だった魔王は……死んだのかもしれん」


「……そっか」


「誇るがいい、藤花。千年の長きに渡り、クソ真面目に私を封じてきた白面の一族が、魔王に勝利したのだ」


「……誇るがいい、なんて。首だけのくせに、偉そうに」


「確かに。首だけの魔王が言っても、あまり締まりがないな」



 二人で声を上げて笑って、藤花はますます雪姫のことが愛おしくなった。


 胸元に引き寄せて、その美しい首をぎゅっと抱きしめる。



「……おい、あまり力を入れるなよ。その小さな胸を押し当てられても苦しいだけだ」


「……なんか言った?」



 藤花は一層力を込めて雪姫の頭を抱きしめる。いっそ押し潰してやろうとさえ思ったのだが、流石にどう頑張ってもそれは叶わなかった。


 ずっとそんなことをしていても疲れるので、藤花はほどほどのところで雪姫を解放する。


 そして、ふと思ったことを、雪姫に伝える。



「あのさ、雪姫。わたし、思うんだけど」


「なんだ?」


「雪姫は……老いたんじゃなくて、人の命の尊さを、知ったんじゃないかな。千年もの長い間、人間の傍で暮らして、その生き死にを見届けて、昔は無価値だと思っていたものに、価値を見出したんじゃないかな。だから、雪姫はもう、昔みたいに人を殺せなくなった。昔みたいに、人を殺すことに楽しみを見出せなくなった。違う?」


「……まさか。私は人の命に価値など見出してはいないさ」


「そうかなぁ?」


「ああ、そうだ。人の命などどうでもいい。強いて言えば……白面の一族の行く末くらいは、見届けてみたいとは思っているがね」



(……それが、人の命に価値を見出してるってことじゃないの?)



 藤花はそう思ったが、口にはしなかった。何を言っても、雪姫は否定するだろうから。


 ともかくも、藤花と雪姫の力で、襲撃者を撃退した。


 家は燃えてしまったが……。



「って! 家が燃えたままだった! 雪姫! 魔法でなんとかしてよ! 火を消すくらいはできるでしょ!?」


「やれやれ。火消しもできんのか、お前は」


「私は封印関連の術しか使えないの! 雪姫、なんとかして!」


「わかったわかった。わかったから落ち着け」



 雪姫の魔法で、火事も無事に鎮火した。一部焼け落ちてしまった部分については、植物魔法という特殊な魔法で、即席の補修までしてくれた。


 なお、後になってわかったことだが、火事になっても近所の人が騒がなかったのは、人払いの魔法が掛けられていたからだった。


 それも、雪姫が解除してくれた。


 家族六人も、少し怪我はしたけれど、命は無事。


 これで、襲撃事件は幕。


 めでたしめでたし……と、いきたかったのだけれど。


 後日、また別の事件が起きてしまう。

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