疫病神ハ彷徨ス 16

 そこに座っていたのは、タイチだった。俺はいささか混乱する。まさか偶然ここに座ったわけではあるまい。何か厭なものが、自分の中に込み上げてくる。


――何でコイツがここにいるんだ?


――どの面下げて俺の横に来たんだ?


俺はすぐに腰を上げて、立ち去ろうとした。幸い、いつぞやと違って、名残惜しさなど微塵も感じなかった。

「あの……」

タイチが俺の背中に話しかけてくる。その声は遠慮がちを装っていたが、どこか癪に障る飄然さがあった。


――何だ?もしかして、仕返しにでも来たのか?


俺は何も言わず、振り返りもしなかった。


「あの部屋にいた人っすよね。その節は、なんかすんませんでした」


しばらく沈黙が流れる。そのまま立ち去っても良かったし、恐らくそれが最良の選択だった。だが、俺の中に芽生えた厭なものが、俺の足を止めていた。


「いや、こんなこと、あんたに言っても仕方ないのかもしれないんすけどね……俺、結構マジで後悔してるんすよ。アケミが妊娠してたってことも、マジで知らなかったし」


嘘だ。


コイツは妊娠のことを聞いていたし、何なら彼女が腹を捌くように教唆したといってもいい。俺は無意識に拳を握りしめていた。


「俺、未だにヒモみたいなことやってるんすけど、もうやめます。これからは改心して、マトモに生きるっす」


――ない。絶対にこの男は改心しないし、同じようなことを繰り返す。


「今まである人のアドバイスで、あの部屋にも行かないようにしてたんすよ。でも、これからは年に一度くらいあそこに行って手ェ合わせます」


――しないだろう。そんなこと……


「腹にいた子のためにも、そうしなきゃいけないっすよね」


――どの口がそんなことを言える?


「すんませんね。ほんと、今さら言っても仕方ないんすけど……誰かに言っておきたかったんすよ。ケジメとして」


――何がケジメだ……お前の自己満足じゃないか。

  悲劇のヒーローぶるんじゃない……!


俺の中で蠢いていたものが、頭の中で言語化されつつあった。俺はそれを必死に誤魔化していたが、もはやそれも限界に近づきつつあった。


俺が


話しかければ


俺が


この男に興味をもって、話しかければ……


あの夜みたいに……


『我々の仕事は――復讐でもなければ、まして正義の執行でもありません』


流の言葉が頭に甦る。


そう、彼らの仕事はそうだ。


だから、もし俺がここで『それ』を実行に移せば、多分彼らは、さすがに俺のことを見放すだろう。でも、それで良いんじゃないのか?どうせ俺は、あんなに飄々と冷酷に仕事はこなせないんだから。どうせ俺は……


とうとう俺は、タイチの方へ振り向いた。


だが、俺が彼に話しかけることはなかった。


 タイチは、俺とは逆の方向を向いていた。どこまで舐め腐っているのかと思ったが、どうも様子がおかしい。彼は何かを見ていた。と、聞き覚えのある音が近づいてくる。


ボン……


    ボン……


        ボン……ボン、ボンボン……


 男の見つめる方向から、サッカーボールが転がってきていた。見覚えのある少年が、こちらを見て何か喚いている。


「すんません、俺……」


タイチは先ほどまでとは打って変わって震えた声でそう言い残すと、足早に退散していった。去り際に見えた彼の顔は酷く青ざめ、どんよりと沈んでいた。少年達が不思議そうに、背中を折って歩いていくその男を見つめている。


 何故だろうか。先ほどまで俺の心に救っていた厭なものは、綺麗さっぱりと無くなっていた。


『ああいう輩には、我々が手を下さなくてもいずれ鉄槌が下るのです。世の中、そういう風に出来ているものですよ』


案外、本当にそうなのかもしれない。


そうでなはないとしても、それは俺の仕事じゃない。


転がってきたボールを思い切り蹴り返す。ボールは明後日の方向に飛んでいき、少年達からブーイングが飛んできた。仕方ない。ボールを蹴るなんて何年ぶりか分からないのだから。


空を仰ぎ見ると、雲の切れ間から茜の空が見えている。




俺は小さく笑うと、踵を返して歩き出した。

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