疫病神ハ彷徨ス 14

 それは恐らく、猫の視点だった。目の前の「俺」は、呆けた顔でこちらを見つめていた。


瞳裡屋どうりや。その美しき瞳に宿した哀しき鏡は、即ち、人が心の裡に隠した真実を映します。さあ、鍵野さん、何も考えず、ご自身の姿を見つめてください」


薄い金属壁越しのような残響を伴って、幾分か正気を取り戻した流の声が聞こえてくる。恐る恐る、俺は自分の姿を見やった。


 ふと、「俺」の背後に何か黒い靄が見えた。俺は本能的に目を逸らす。何故かは分からない。それを見てはならない気がした。


「目を逸らしてはなりません。瞠目し、自らの真実を見つめるのです。これまで、貴方が無意識に目を逸らし続けてきた真実を」


流の口調が、いつになく圧を帯びる。だが、見ることができなかった。なにか恐ろしい事実がそこにある気がした。そちらを見たら、自分の中の何かが崩れるような……


「アキラさん、本当は、薄々感づいていたのではありませんか?自分自身がどういう人間か」


いつになく真剣な庵鬼屋の声が聞こえる。小さく脈が跳ねた。


「それから、その事実から目を逸らしてきたせいで、周囲に厄災を振りまいてきたことも……」


心臓が脈打つ。


――違う。俺は、生まれつきの疫病神体質で……


「また、逃げるでありますか?そうやって自分に言い訳をして、自分の本当の姿から目を逸らして、自分の人生を生きることから逃げるでありますか?」


心なしか、庵鬼屋の声が震えているような気がした。彼女が何を言いたいのか、俺には全く分からなかった。全く分からなかったが、


どういうわけか……


俺は泣いていた。


庵鬼屋のいう通りなのかもしれない。確かに俺は今まで、自分に疫病神というレッテルを貼るばかりだった。自分自身がどういう人間なのかを考えたことなどなかった。


そんな、自分が目を背け続けた「自分」を、理解してくれようとする「他人」がいる。


その馬鹿馬鹿しいお節介に、心が抉られていた。


 俺は袖で涙を拭うと、顔を上げた。刮目する。しっかりと、俺自身を見据える。

そして次の瞬間、言葉を失った。


それは、三○一号室で見た光景だった。


だが、部屋で見たときよりも遥かに悍ましい光景だった。


俺の背後に蠢く、夥しい影……


ほとんど静止している分、一つ一つの影が在り在りと見える。よく見ると、朧ではあるが、その一つ一つが顔を持っている。


ある者は男、ある者は女、ある者は年老い、ある者は若く、中には小動物らしき顔まで……


憤怒する者、狂喜する者……


暗涙、号哭……


哄笑、嘲笑……


およそ表情と呼べるものの無い者まで……


「な……何だよ……これ」


ようやく言葉を溢した俺に、流が応えた。


「それが、鍵野さんの疫病神体質、その正体です」


「これが疫病神の正体?いったいどういう……」


混乱しきった俺の問いを、庵鬼屋が遮る。


「アキラさん、取り敢えず自分の体に戻るであります。アキラさんがモタモタしているせいで、ずいぶん時間が経ってしまいました。このままだとアキラさんも危ないですし、ドウリヤもそろそろ限界、というか、何よりも私のか弱い細腕が限界であります」


そういえば、庵鬼屋が猫を抱いていたのだった。


「ドウリヤ、アリガトであります。ウンガイキョウさんにアキラさんを放してもらうであります」


フン、という猫の鼻息が聞こえたかと思うと、水底から急速に浮上するような感覚に襲われた。光と音が加速度的に五感へ飛び込んでくる。気が付くと、俺は庵鬼屋に抱かれる猫をぼんやりと見ていた。


 ご褒美のチュルリムをやるため、庵鬼屋が事務所の奥へ猫を連れて行く。放心状態でその背中を見つめる俺に、流が説明を始めた。


「先ほどご覧になったのは、鍵野さんに憑依している面々です」


「憑依……?」


「はい、鍵野さんには夥しい数の霊が憑依しています。畢竟、鍵野さんは、他に類を見ないほどの霊媒体質……もっと砕けた言い方をすれば、異常なほど霊に好かれる体質なのです。理由は分かりませんが、鍵野さんの体はよほど居心地がいいのでしょう。そこらを歩いているだけで、道端をフラフラしている魂たちが吸い寄せられてしまう。下手なイケメン俳優など目ではないほどのモテっぷりですよ」


「吃驚するほど嬉しくないですね、それ。つまり、俺が疫病神体質で周囲に災いを及ぼしていたのではなく、俺に憑いているモノたちが悪さをしていたとでも?」


「そんなところです。しかし、恐らく誰彼構わず攻撃していたわけではないでしょう。正確には、自分たちの平穏を脅かす存在、つまり、鍵野さんに深入りしようとする人物や、逆に鍵野さんが興味を抱いた人物を攻撃していたと思われます」


俺は今まで、自分の人生に起こったことを思い浮かべていた。言われてみれば、その説明がしっくりくるような気がする。


「我々はてっきり、鍵野さんには彼らが見えているものだと思っていたのです。見えている上で、ご自身を比喩的に疫病神呼ばわりしているのだと……」


流は一つ咳払いをすると、「失礼」と冷め切った茶で喉を潤した。


「しかし、先ほど鍵野さんの背後を覗き込んで分かりました。私が明確に意識を向けた瞬間、彼らは姿を隠してしまったのです。恐らく、彼らは自分たちの存在を誰にも知られたくないのでしょう。鍵野さん自身にさえ、いや、むしろ鍵野さんに知られるのが一番拙いのです。鍵野さんが気付いて、お祓いにでも行かれたら、せっかく見つけた快適な住まいを失うことになりますからね」


「浮幽霊というのは、そんな思慮深いものなんですか?」


「どうでしょうね。まあ、そこまで具体的に考えてはおらずとも、本能的には分かっているはずです。そして恐らく、私や庵鬼屋に手を出すと拙いということも何となく察している。だからこうして鍵野さんと話していても攻撃してこない。ですが、普通の人間が鍵野さんに深く関わろうとすると……」


「……自分たちの身を守るために、その相手を攻撃する、と」


声が震えていた。庵鬼屋の言っていたことが、何となく理解できたからだ。確かに、俺は逃げていたのかもしれない。曖昧な凶兆と捉えていた黒い影こそが災いの根源なのだと、本当は分かっていたのかもしれない。


畢竟、俺は周囲に災厄をなす危険物を背に負って、知らん顔で生きていたのだ。


疫病神体質なんかより、何倍も業が深いじゃないか。見ようとしたら隠れる……それもあったかもしれない。だが、それ以上に、俺自身が見るのを避けてきたのだ。事実を受け容れるのが怖くて、自分を疫病神だと思い込んできたのだ。


「体質なんだから仕方ないだろう」


「生まれつきだから、どうしようもないじゃないか」


そんな甘えで自分から目を背け続けた結果、俺は幾人もの人たちを……


「まあ、仕方のないことです」


俺の様子を見て察したのか、流が宥めるように言った。


「もし鍵野さんが彼らに気付き、お祓いに行ったとしても、そこらの神社や霊能者ではとてもとても手に負える代物ではありません。門前払いされるのがオチです。もし出来る者がいたとしてもやらないでしょうね」


「やらない?どうしてです?」


「彼らは人数もさることながら、相当鍵野さんのことを気に入って、根深く寄生しています。それを除霊するとなると、今度は鍵野さんの体が危険ですからね。ああ、一応言っておきますが、我々も無理ですよ」


流は胸の前で手を振ってみせた。


「そんな……じゃあ、俺はどうすればいいんですか?」


「ですから、霊に好かれるその特性を活かす方向で考えるであります」


いつの間にか、ソファの横に庵鬼屋が立っていた。何やら得意げな顔で俺を見下ろしていた。


「前にもそんなことを言っていたが……活かすって、いったいどうやって?」


庵鬼屋が再び俺の横に座るのを待って、流が話を始める。




事務所の奥では、瞳裡屋が既に寝息を立てていた。

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