疫病神ハ彷徨ス 13
細長い事務所の一番奥へと辿り着いた流は、書斎机の上をじっと見ていた。立派な黒檀の机上には、以前と同じく黒いクッションがぽつねんと置いてあるだけだ。どうやら流はそのクッションを注意深く凝視しているのだった。
「おい、何をやってるんだ、あの人。認知症のケでもあるのか?」
「まあ、そんなところであります」
庵鬼屋は素っ気なく言うと、ニヤリと笑った。
「さて、ミモノであります」
流が机上へ手を伸ばす。そして、その手がクッションに触れた瞬間、俺はあっと声を上げていた。
それはクッションではなかった。流の指先が触れた瞬間、その塊はモゾモゾと動いて立ち上がったのだ。艶のある濃い灰色の、見事な毛並み。遠くから目視しただけでも、恐らく七~八キロ近くはあろうかという巨体。しかし四本の脚はすらりと長く、伸び上がる姿はしなやかである。その姿には、どこかしら「格」が備わっていた。
――ネコチャン、おっきなネコチャンじゃないか!
俺の頭の中で、対ネコチャン式戦闘術の妄想が始まる。
――はあぁ、モフモフ、モフモフ、モフモフモフモフフモフモフモオォォ!ハフ!ハフハフハフゥッ!モフモクンカモフモクンカ!ホフッ!ホフホフホフゥッ!ムシャムシャ!ムシャムシャムヒャムヒャムヒャァッ!はあっ!イイ!陽だまりの匂いがスルウゥゥゥッ!モホォッ!もほもほもふもほもふもほもふもほおぉぉぉっ!はあぁぁ、陽だまりのおぉっ…………
……………………
…………
アヒィ……?
――モフモフ?モフモフだと?そんなものはもはや時代遅れだ。時代はモシャモシャだ!……モシャモシャしてやる!モシヤモシヤしてやるぞうぅ!このネコチャンめ!もしゃもしゃして、カリカリして、その逞しい肩甲骨をニギニギして散々クシャクシャにしたあとでキレイにキレイに毛並みを整えてやるからな。ほーら、キレイキレイ。もう、それはもうキレイキレイキレイキ……
俺の楽しい妄想はそこで強制終了させられた。絶叫が事務所に響いたからだ。その方向を見た瞬間、俺は凍り付いた。
実に悍ましい光景だった。流の肩に乗った猫が、一心不乱に流の白髪を引っ掻き回しているのだ。既に彼の額には幾筋も血がしたたり、その顔は苦痛に歪んでいる。何とか猫を捕まえようとするが、その度に猫は流の手を擦り抜け、さらに激しい攻撃を加えていく。
「やめてください!やめてくださいってば、ドウリヤ!熟睡のところ申し訳ありません。ちょっと猫の手を貸して頂きたいのです!」
必死の懇願も虚しく、流の頭皮は掻き毟られていく。
「ひいぃっ!お願いですから。あとでチュルリムあげますからぁぁっ!ほら、チュ~ルリチュルリ♪アディオス・チュルリム♪」
半狂乱でペットフードのCMソングを歌い始めた流を見て、俺は流石に不安を覚えた。
「なあ、庵鬼屋。あれは本格的にヤバくないか?俺、ネコチャンには好かれるタイプだし、止めにいこうか?」
「残念ながらドウリヤは普通の猫とは違うであります。アキラさんが行っても同じ目に遭うだけであります。まあ、ほっとくであります。ヤニ臭い手で触ろうとするからであります。気味助気味助であります」
あれ、流って喫煙者なのか……否、そんなことはどうでもいい。
「いや、でもあれは……」
思わずソファから立ち上がった俺を、庵鬼屋が制した。
「仕方ないでありますね」
いかにも面倒くさそうに呟くと、彼女はゆっくりと立ち上がり、事務所の奥へと歩いていく。
「ほれ、ドウリヤ。こっちに来るであります」
すっと差し出した庵鬼屋の手を見て、猫はピタリと動きを止める。そして庵鬼屋へ飛び移ると、あっさりと彼女の胸の中で丸まってしまった。
庵鬼屋の腕の中、猫はゴロゴロと喉を鳴らしていた。その素晴らしい見目形を間近で見た途端、俺は顔面の全筋肉が弛緩したのを自覚した。遠くで見るとグレー一色に見えたその体には、さらに濃いグレーの縞が不規則に走っている。ヘビ柄のような毛並みは、どこか神秘的な印象を湛えていた。
「うへぇ……で、そのネコチャンと今回の件、何の関係があるんだ」
涎を必死に堪えながら、俺は言った。
「と、とと、とりあえず、モフモフ、いや、モシャモシャすればいいのか?」
「顔面を換気扇に突っ込むスリルを味わいたいのならどうぞ。それでなくとも、アキラさん、さっきから顔が気持ち悪いであります。まあ、気持ち悪いのは元からですが、今の顔は完全に、ファインダー越しに街ゆく小学生を観察する中年男性を想起させるであります」
「何を言っている。俺にそんな趣味はない」
即座に顔を引き締める。
ダメだ。猫となると平静を失ってしまう。
そうこうしていると、ようやく流がフラフラと戻ってきた。ザンバラ髪から滴る血に顔を染め、その目はどこか遠い世界を見ていた。
「フフ……何故でしょうね。ナニユエ、私には懐いてくれないのでしょうねぇ……いつもチュルリ~ムあげてるのにねぇ……ウゥフ……ウフフゥ……」
斜め上二十度を見つめる憐れな初老男性に対し、庵鬼屋は無慈悲に冷たい口調を投げかけた。
「ナガレ、もう始めていいでありますか?」
流はそれでもしばらく白痴のようになっていたが、やがてソファに掛けた。
「猫の目って、光りますよね……フフ」
まだ正気に戻りきっていないようだ。不気味な笑みを浮かべているながら、とりとめなく口走り始めた。
「あれはですね、タペタムという構造が網膜の下にありましてね、それが鏡の役割を果たしているんです。そのお陰で、猫は暗闇でも視力を失わないわけですねぇ。凄いですねぇ。つまり猫というのはね、人には感知できない光を拾う能力があるのですよ。ですからドウリヤ……ああ、そのファッキンな猫の名前です……の能力は、そういうところに起因しているのかと思われるのですが云々……」
訳の分からないことを口走っている流を見かねて、庵鬼屋が口を挟んだ。
「もういいであります。アキラさん、取り敢えず、この子を見るであります」
猫の脇を持ってこちらに差し出す。俺は一瞬身構えたが、意外にも、猫はされるがままに、だらしなく後脚を投げ出していた。どうやら庵鬼屋には心を許しているらしい。なかなかふてぶてしい顔をしているが、その腹にまで走る美しい蛇の目模様には、思わず見とれてしまう。
「ほ、ほほ……おほぉ……これは、いいネコだ」
「キモいであります。そうではなくて、この子の目を見るであります」
「目を……?」
庵鬼屋に従って猫の目を見た俺は、思わず息を呑む。その目はまさに翡翠だった。半透明でありながら、どこまでも突き抜けるような碧。俺の目は一瞬でその美しさに釘付けられた。
一瞬、翡翠の中に何か見えたような気がした。
――何だ……手鏡?
確かめる間もなく、不思議な感覚に襲われる。
飲み込まれていく。意識が、その目に吸い込まれていく。
「抗ってはいけませんよ。恐れず、そのまま身を任すのです。そう、恐れずにね……フフフ」
流の声が、途中から遠くなっていく。水中に潜ったときのように、周囲の音が意味を成さぬ、くぐもった反響へと変わっていく。
そして気が付くと……
俺は、俺を見ていた。
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