疫病神ハ彷徨ス 12

   神無月 十六日(夜)


 ここ数日の汗と垢を熱いシャワーで洗い流すと、幾分か気分が良くなった気がした。つい先刻までの、強烈な目眩と吐き気に襲われていた状態に比べて、だが。


      ※


 ついさっきまで、俺は宙を舞っていた。庵鬼屋は俺の手を引いて三○一号室を出るや否や、廊下の手すりに飛び乗り、その勢いで


跳躍した。


俺は死を覚悟したが、二人の体は落下することなく、まっすぐ向かいのビルを目掛けて飛んでいった。県道を走る車がチラリと見え、五臓が縮み上がる。向かい風が鼓膜に轟音を響かせる。


そんな中だというのに、庵鬼屋は楽しそうに鼻歌混じりで、ビルからビルへと飛び移った。俺はその後を散々に引き摺り回され、恐らくこの世に現存する絶叫マシーンでは味わえないであろうスリルを賜っていた。


 実は過去にも一度これを味わっている。初めて流の事務所に運び込まれたときだ。ただあのときは諸事情により意識が朦朧としていたから、何となく「アアボク飛ンデイルヨネェ」くらいの感覚しかなかった。この度は意識がハッキリしている分、恐怖は倍増どころではない。


 だが、意識がはっきりしているが故の安心感もある。目の端にチラチラと映る金色が認識できるのだ。どうやら前鬼が襟首を掴んで支えてくれているらしい。そりゃあそうだろう。いくら俺が痩せこけているからといって、庵鬼屋の細腕で大の大人を引っ張り回すことはできまい。ただ、前鬼の腕力が強すぎて、少々襟締めが極まっているのが玉に瑕だ。


 前鬼がいればその必要はないように思うのだが、庵鬼屋は指先が食い込むほどに俺の手首を掴んでいた。


 首が絞まっているのも相まって、俺の意識は半ば飛んでいた。それでも何とか正気を保っていたのは、罪なき一般市民の皆様にゲロの雨を降らせたくない一心からだ。


      ※


 という訳で、事務所に着いた頃にはもはや立っていることさえ出来ない状態だったのだ。シャワーを浴びている最中も、時折強烈な浮遊感に襲われた。加えて、あの生々しい血と臓物の感触が何度も甦り、何度も卒倒しそうになった。


 いつの間にか用意されていたジーンズとシャツに着替え、脱衣所を出る。シャワールームは事務所一階の一番奥にあった。


どうやら一階はジムらしい。ランニングマシーンやベンチプレスといったトレーニング機器が乱雑に配置されている。うっかりすると床に転がったダンベルで躓きそうになる。ここも事務所の一部なのか、あるいはテナント貸しするついでにシャワーを使わせてもらっているのか……



 いずれにせよ、四階まで階段を上っていかなければならないのは億劫だ。折り返しがないせいで、階段の先は薄暗い闇の中に消えている。それがより一層、気持ちをウンザリさせた。今は涼しいからまだいいが、夏場はせっかくシャワーを浴びてもまた汗をかいてしまうのではないだろうか。エレベーターくらい設置すればいいのに……



 そんなことを思いながら、未だふらつく足を階段に乗せたときだった。


――あれ?なんか俺……


もの凄く重要なことを忘れているような気がした。胡乱な頭でしばらく考えて、その正体に思い当たる。俺は時折壁に寄りかかりつつも、階段を上っていった。


 事務所の扉を開けると、庵鬼屋が応接ソファからこちらを振り返った。対面では流がお茶を啜っている。庵鬼屋は口の周りに飯粒をつけ、モグモグしながら手を振ってくる。


「お、アキラさん。ずいぶんと長いシャワーでありましたね。あまりに遅いので、お先に頂いているでありますよ」


テーブルの上には大きな寿司桶があった。どうせ空だろうと思って覗くと、ちゃんと残してくれている。カッパ巻きと玉子を一つずつ。ガリには全く手が着いていない。まったく、思いやりに溢れた奴だ。


――ブン殴ってやろうか……


 まあ、特に腹は減っていなかったし、俺の頭は寿司どころではなかった。


「あの、流さん。なんかめでたく打ち上げみたいな雰囲気になってますけど……まだ終わってないんじゃないですか?」


言いながら、俺は庵鬼屋の横に座った。


「終わってない……ですか?」


湯飲みから顔を上げた流の顔は、呆けに呆けきっていた。


「いや、確かにあのアケミって人は除霊できたんでしょうけど、あの部屋にはもっと恐ろしいものがいるじゃないですか。しかも大量に……」

「はあ……もっと恐ろしいものですか?もしかしてゴキブリかネズミでも出ましたか。確かにそれは問題ですが、我々の領域ではありませんね」

「ナガレ、とぼけるのは止すであります……」


庵鬼屋が真剣な声で割り込んだ。良かった。何だかんだいっても、庵鬼屋は流に比べればマトモなのだ。


「あの部屋には、何を隠そうアキラさんがいるであります。激臭性欲禽獣アキラ一三号であります」


鼻の穴にカッパ巻きをぶち込んでやろうかと思ったが、何とか堪える。


――スルーだ、スルー。そう、俺はオトナなんだから。


 俺が慈愛に満ちた笑顔を向けると、庵鬼屋はとんでもなく厭な顔をして黙った。


「というか、庵鬼屋も見ただろう。後鬼が追い払ったあの大量の影だよ。俺の周りで災難が起こるときの予兆にも似ている気がするんだけど、あんな大量には見たことがない。それに、アケミさんに集っていたところを見ると、かなり攻撃的な奴らだと思う。あいつらも祓わないとあの部屋は住めるようにならないんじゃ……」


言っている途中で気が付く。流と庵鬼屋がじっとこちらを見ていた。顕微鏡の中に新種の細菌を発見した科学者の顔だった。


「な、なんだよ。俺、何かおかしなことでも言ったか?」

「えっと……アキラさん。それ、本気で言ってるでありますか?」

「はあ?本気も何も……」

「ああ、なるほど」


ずっと固まっていた流が、突然頓狂な声とともに手を打った。


「そういうことだったのですね、鍵野さん。鍵野さんは、ご自身が本当に疫病神だと思ってらしたのですね?」

「はあ?今さら何を……」


ふいに流が立ち上がる。彼はつま先立ちをして、俺の背後を覗き込む体勢になった。戸惑う俺を尻目に、ふむふむと何かを観察していたが、やがて満足げに頷いた。


「なるほど、そういうことでしたか。鍵野さん。見えていなかったのですね」

「見えてない?何のことです?さっきから何なんですか?意味が分からないですよ」


庵鬼屋に助けを求めたが、彼女は相変わらず未確認生物を見る目で俺を見つめているだけだった。


「そういうことならば、見ていただくのが一番早いでしょう」


そう言うと、流は事務所の奥へと歩いて行った。

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