疫病神ハ彷徨ス 11
後鬼の腕がアケミの首にガッシリと組み付き、一気にタイチから引き離す。
再び、弐鬼による凄惨な暴力が始まった。先ほどよりも一層の勢いをつけて金色と漆黒が交互に拳を打ち込み、その度にアケミの体は大きく
目も当てられない光景……
だが、俺は目を離すことが出来なかった。やはり、アケミの体から残像のようなものが飛び出ているように見え、それを明確に捉えようと必死だったのだ。
「クロ、そろそろ頃合いじゃ!手抜かるなよ」
目を擦ってよく見ようとしたところで、前鬼の声が響いた。
「応、そっちこそミスるんじゃねーぞキンピカ!」
後鬼の声をめがけ、前鬼の拳が殊更勢いをつけてアケミを殴り飛ばす。やはり見間違いではない。彼女の頭から、はっきりともう一つの頭が飛び出した。それは残像というより、黒い影……否、もっと実態を伴った黒い塊だった。
そして、アケミの体へ戻ろうとするその黒いものを、後鬼がむんずと掴む。
「よっしゃ!掴んだぜキンピカ!」
前鬼は頷くと、アケミ本体の頭を掴んだ。
――ああ……
俺はその構図を見たことがあった。
およそ一ヶ月前、あの血塗れの夜に……
凶暴な絶叫が部屋中に響き渡る。それはアケミの喉から発されたものだった。先ほどまで腑抜けていた彼女が、出し抜けに抵抗を始める。闇雲に動かされた操り人形のように、痩せ細った手足が宙を跳ね回る。
無理もない。二体の剛力が、頭から何かを引きずり出そうとしているのだ。霊が痛みを感じるのかどうかは分からないが、たとえ痛みが無いとしても耐えられるものではあるまい。
メリメリ……と、何かが裂ける音が聞こえてくる。途中までポカンと口を開けて見ていたタイチは、その音とアケミの咆哮に耐えきれず目を逸らし、耳を塞いだ。
そこからは、あの夜と同じ、悍ましくも美しい光景が繰り広げられた。
ついに黒い塊が本体から分断されようとしたとき、アケミの体を眩い光が包み込んだ。目の眩むハレーションの中、彼女の影が二つに分裂する。やがて光が止んだとき、既に前鬼の手はアケミの頭部から離れ、彼女は宙へ浮いていた。
顔面に並んでいた空洞は消え、そこには本来の顔が戻っていた。
さきほどまでの狂った笑みとは違う、穏やかな顔だった。
腹の傷も消滅していた。
一方で後鬼は、何か黒いものを手に提げていた。濡れたビニールのような、腐った昆布のような……ねめ回しているのか、一頻りそれをゆっくりと上下させる。やがて、
「へっ」
と一つ吐き捨てると、出し抜けにそれを口元へ持っていくと、恐ろしい勢いでその黒い塊を平らげてしまった。後鬼は一つおくびをすると、「マズ……」と一言呟いた。
その様子を見届けると、アケミは小さくこちらへ礼をして、ゆっくりと宙へと溶けていった。未だ耳を塞いでガタガタと震えているタイチには、最後まで一瞥もくれなかった。
三○一号室には、重苦しい静寂が残った。あれほどまでに飛び散っていた血も、臓物も、そして憐れな小さき命も、全てが跡形もなく消え去っていた。ただ、一人の男の啜り泣きだけが響いている。俺はすぐにでも崩れ落ちそうな疲労困憊の中、じっと突っ立っているしかなかった。
だが、その感傷的な空気は、あっさりと破られた。
「さて、タイチさん。貴方の役目はもう終わりです。お帰り頂いて結構ですよ」
流は至極あっさりと告げると、手足の拘束を解いた。余りのあっけなさに、俺は思わず流を見やる。彼はいつもと変わらない柔和な笑顔をタイチに向けていた。
「……え?……でも……」
タイチは明らかに困惑していた。きっと、これから自分の非を糾弾されると思っていたのだろう。少なくとも、俺はそう思っていた。だが……
「お帰りください。これ以上ここに居ていただいても意味はありませんので」
流はなおもにこやかに、タイチに帰路を促した。それでも立ち上がろうとしない男に業を煮やしたのか、後鬼が彼の襟首を掴むと、無理矢理に立ち上がらせる。
「大の男がいつまでもメソメソやってんじゃねぇよ。気持ち悪い。とっとと帰れってんだろうが。てめぇも一発顔面にぶち込まれたいのか!」
ヒッと声を上げ、タイチは覚束ない足取りで玄関に向かう。すれ違いざま、流がそっと彼の背中から紙を剥がした。よほど気に入らなかったのか、後鬼が玄関までしつこく追い立てる。タイチはふらつきながらも、逃げるようにして部屋を出ていった。
「その……良いんですか?彼には何のお咎めもなしで。それこそ一発殴るくらいやっても……」
恐る恐る訊いた俺に、流は怪訝な顔を向けた。
「どうしてそんなことをする必要があるのです?」
「いや、だって、あのアケミって女の人は、彼のせいで……」
俺は言葉を詰まらせた。あのとき見た記憶の断片、アケミの行動、タイチの態度、そして胎児……特に深く考えなくても、あの男がやった所業は明らかだった。そして、それが到底許されるべきではないことも……
「鍵野さん。何か勘違いをされておられるようですが……」
俺の言いたいことを察したのか、流は噛んで含めるように続けた。
「我々の仕事はあくまでも依頼された物件の
「それに……なんですか?」
「ああいう輩には、我々が手を下さなくてもいずれ鉄槌が下るのです。世の中、そういう風に出来ているものですよ」
そんな都合のいいものだろうか。それに、たとえあの男に裁きが下るとしても、それがいつになるか分からない。少なくとも、それまで彼はのうのうと生きていくに違いない。
何の反省もなく。何の後悔もなく。
それで、いいのだろうか。
胸にはモヤモヤとしたものが残ったが、それ以上問答を続けても仕方のないことだった。既に俺たちの問答に飽きたのか、庵鬼屋は弐鬼と遊び始めていた。
「アケミさんは、成仏……したんですか?」
「さあ。成仏したのか神に召されたのかは分かりませんが、少なくともこの部屋からは消滅しました。地縛霊というのは後悔だの怨みだの、とにかくその場所に対する未練で自身を縛り付けています。先ほど後鬼が喰らい尽くした黒いもの――弐鬼はヤミと呼んでいますが――は、アケミさんを縛り付けていた未練の塊です。それが消滅した今、彼女がここにいる理由はありませんからね」
「まあ、少なくともあの女が浄土に行くことはないだろうけどな」
いつのまにこちらへ来たのか、後鬼が口を挟んできた。
「自殺した者は地獄へ落ちる……っていうアレか?」
言ってから、何だが自分の言うことだけが世俗じみているような気がして恥ずかしくなる。馬鹿にされるかと思ったが、後鬼は案外まじめに答えてくれた。
「まあ、地獄の沙汰がどんな仕組みか俺は知らねえが……あの女はあの女でロクなもんじゃねえんだよ。あのヤミの中身は何だったと思う?ガキを死なせちまったことでも、産み育てられなかったことでもねえ。あのスケコマシに自分が孕んでることを見せつけてやりたかった、ただその一心だったんだ」
俺は慄然としていた。厭な考えではあるが、確かにそうなのかもしれない。彼女は俺の首を絞めるときに平気で赤子を手放し、タイチの顔面になすりつけたり、あまつさえ口の中に捻じ込んだり
……とても我が子に対する所業とは思えない。最後の瞬間だって、彼女の腕に赤子の姿は無かった。
「つまりあの女にとって、腹ン中の子はあの男をつなぎ止めるための道具に過ぎなかったってことさ。それで自分の腹かっさばいて、自分はおろか子どもまで死なせちまったんだ。畜生にも劣る所業だぜ。だいたい女ってのは……」
白熱していく悪態を掻き消すように、胴間声が響く。
「おいクロ。その辺にしておけ。どのような者でも死ねば仏。死人に口なしで好き放題蔑んでも手前がつまらなくなるだけだ。酒が不味くなるぞ」
「へいへい。まったく、キンピカは説教臭いねぇ……」
後鬼がすごすごと退散していく。前鬼の言う通りだ。確かにアケミの行動は許されたものではない。だが前鬼の言うとおり、粗を探せば探すほど、俺はどこか虚しい気持ちになっていくのも事実だった。
「さて、我々も一旦退散しましょうか」
流の暢気な口調が、気まずい空気を無理矢理に押し流す。
「ふいぃ、やっと帰れるであります。ナガレ、寿司頼むであります。寿司!」
庵鬼屋が言うと、二鬼が全力でハイタッチをした。
ゾロゾロと部屋から出ていく一行の背中を、俺は暗澹たる気持ちで見送っていた。俺は、この連中についていけるのだろうか。あそこまで飄々と、割り切って仕事が出来るのだろうか。
――俺には、やっぱり……
ふと、庵鬼屋がこちらを振り返る。彼女は不思議そうな顔で俺のことを見ていたが、やがてこちらへ駆け寄ってきた。
「何やってるでありますか、アキラさん。アキラさんも一緒に寿司を喰らうであります!」
「え?いや、俺は……」
「ボケッとしてると本当に置いていくでありま……う……!」
突然庵鬼屋が蹲る。
「おい、どうした?」
焦って覗き込んだ俺に、彼女はゲッソリとした顔を見せた。
「……アキラ臭……パないであります。やっぱり来るであります。シャワー浴びるであります!」
そういえば、何だかんだでシャワーの機会を逃していた。それに、さっきまで俺の体に降りかかっていた血肉が現実のものではないにしても、やはり身を清めておきたい。
「分かったよ。行くよ」
俺がそう言った瞬間、庵鬼屋の顔がパッと明るくなった。「決まりであります。それではついてくるであります!」
不意に手首が掴まれる。小さな、ヒンヤリとした感触。心臓が脈打つのを感じる。改めて言う、俺はロリコンでは……
次の瞬間、俺の体は宙に浮いていた。
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