疫病神ハ彷徨ス 10
ほとんど意識を失いかけていた俺の耳に、女の呻きが聞こえた。それは今までとは違う、どこか困惑したような響きに思えた。少し遅れて、女の手が首から離れ、体に掛かっていた圧が離る。
酷い
……ヒイィ……ギイィィ……!
女の呻き声が、次第に恐怖を纏っていく。そのただならぬ様子に、俺は咳き込むのもそこそこに顔を上げた。そして、絶句した。
そこには無数の影が渦巻いていた。
女は、その影たちに寄って集られ、必死にそれらを振り払おうとしていた。だが、影はいくら振り払われても、しつこく女へ纏わり付いていく。無数の影が作る渦の中で、女は悲痛な呻き声を上げていた。ヒッチコックの「鳥」を想起させる光景だった。
俺はその影を見たことがある。というより、今までの人生で何度も見ていた。つい最近も、あの公園で見たばかりだった。
凶兆……
俺の周囲に災いが起こるときの
しかしながら、それは初めて見た光景でもあった。今までは見えたとしても一瞬のことだったし、ましてこんなに大量の影が群を為している光景など……
次第に弱まっていく女の抵抗。次々増えていく影に、女の姿が埋め尽くされていく。
――なんだ?一体何が起こっているんだ?
俺は極めて困惑していた。同時に、どういうわけか、焦りも覚え始めていた。急速に衰弱していく女の声に、どこか
女を助けなければいけない気がしていた。
だがどうするのだ。あんな凶悪そうな奴らが渦巻くところに飛び込んでいって、俺に何か出来るのか。助けるといってもどうやって……
「ええい、ままよ!」と、足を踏み出そうとしたときだった。
玄関扉が開く音がした。
「え?」
俺は思わず声をあげる。
そこには、庵鬼屋が立っていた。
庵鬼屋はしばらくこの惨憺たる光景を遠い目で見ていたが、一言、
「ありゃぁ……やらかしてるでありますね」
と肩を竦めて入ってくる。俺は完全に錯乱して、
「あれ?学校は?」
と訳の分からないことを訊いていた。
「今日は土曜であります」
にべもなく答え、つかつかと廊下を歩いてくる。そして廊下と部屋の境までくると、何か真言のようなものを唱え、一つ柏手を打った。その小さな手からは想像だにつかない、屈強な漁師が打つような音圧。その瞬間、黒い影たちが一斉に動きを止めた。ゆっくりと、庵鬼屋の背後から対の腕が姿を現す。
黄金の馬手、漆黒の弓手。
彼らが姿を現すなり、黒い影たちは目標を失って散り散りに動き始めた。表情など見えないが、明らかに狼狽えている様子だった。
「さあてもさても、そら成敗じゃ成敗じゃ!貴様ら、早う去ねい。そびれた者から叩き潰すぞ!」
前鬼の胴間声が部屋に響く。その声を合図に後鬼が飛んできて、楽しそうに影を追い散らす。影たちは部屋の中を逃げ惑い、一つ二つとあっという間にどこかへ消えていく。
そして最後に、憔悴しきった姿の女が残された。重苦しく、しかし空虚な沈黙が、部屋を包む。永遠に続くかのような静寂。女は焦点の遭わぬ目で遠くを見つめていたが、それでもやはり、顔に薄笑いを浮かべていた。
静寂を破ったのは女だった。彼女は包丁を逆手に持ち、ゲタゲタと笑いながら庵鬼屋に向かっていく。俺が声を上げ、咄嗟に走り出した……ときには、後鬼の拳が女の横面をぶち抜いていた。幽霊とは思えないほど生々しい音を立て、女の顎が砕ける。
「ちょ、何を……」
俺が言い終わらぬうちに、前鬼の拳が女の鳩尾にめり込んでいた。腹の傷口からあらゆるモノが飛び出し、口からは嘔吐ともゲップともつかぬ不快な声が飛び出した。
それから繰り広げられた光景は、ある意味、その日見た中で最も恐ろしいものだった。部屋中に何かが折れる音や潰れる音が響き渡る。拳を浴びるたび、女の華奢な体が大きく仰け反る。
あまりにも不条理な光景に知覚が追いつかないのか、あるいはその拳の速力があまりに大きいためなのか、時折、女の体から残像のようなものが飛び出ているように見える。
最終的に女は奇妙な形にひしゃげて床に崩れ落ちた。それでも、やはり彼女の顔から薄ら笑いが消えることはなかった。
「おい、庵鬼屋……」
一通り殴り終えてから、前鬼が静かに呟く。
「矢張り、まだ無理だ」
「げっ……マジでありますか。ふーむ。やっぱりまだアキラさんだけでは……」
後鬼が戻ってきて、口を挟む。
「まあ、ずいぶんと『はなして』くれたようではあるけどな」
三人は平然と話していた。俺は会話の意味が分からなかったが、もはやその輪に入る余裕はなかった。
「困ったであります。ナガレはまだ来ないでありますか。一体あのボケ老人は何をやっているのやら……」
庵鬼屋が言った矢先、再び玄関扉が開いた。間延びした声が玄関から聞こえる。
「いやあ、お待たせして申し訳ございません。鍵野さん、イオたん」
流の声だった。玄関を見て、俺はさらに混乱する。彼は肩に大きな麻袋を担いでいた。その中に何が入っているのか……その大きさと微かにモゾモゾと動いているところ、そして微かに呻き声がするところを見れば、一目瞭然だ。
「よっこい長治郎は塩の長治と別人!」
どこかで聞いたような謎の掛け声とともに、流は袋を乱雑に投げ捨てた。床に叩き付けられた袋の中から、「ギュボッ」という奇怪な声が聞こえる。流は全くお構いなしに袋の横を通り過ぎると、ボロ布同然となった女の前に屈み込んだ。
「さて、長らくお待たせいたしましたね、アケミさん。『キー』をお持ちしました」
言いながら、流は麻袋の口を開ける。前鬼と後鬼が袋の裾を持ち上げ、これまた乱雑に袋の中身を床に転がした。
見るからに「チャラい」という感じの、髪をピンクに染めた若い男。もちろん彼とは初対面だったが、俺はその姿に見覚えがあった。
先刻、俺の頭に流れ込んできた記憶の中にいた男……
彼は手首を後ろ手に縛られ、両足首をガムテープ巻きにされている。口にもガムテープが貼られ、うんうん呻きながら床にのたうち回っていた。その声が聞こえた瞬間、女の体がビクつき、顔から薄笑いが消えた。
「ささ、タイチさん。ご覧になってください。アケミさんですよ」
流がにこやかに、タイチと呼ばれた男の視線を促す。だが、男は怪訝な顔をして、なおも抵抗するだけだった。
「そうですか。やはり見えませんかね。まあ、見る勇気も誠意もありませんか……」
なおもにこやかに、しかし微かに棘のある口調で言うと、流は懐からA5サイズほどの紙を取り出した。
「ですが、嫌でも見ていただきますよ。そうしないと、我々も仕事が進みませんのでね」
流はそっとタイチの背中に紙を貼り付ける。紙には力強い楷書体で「視」とだけ書いてあった。タイチはなおも身をよじらせていたが、しばらくもしない内に動きを止めた。
みるみる内にその顔が青ざめていく。流が、彼の口からガムテープを剥がした。
「……ひ……ひ……あ、アケミ……?」
タイチの怯えた声に、女は壊れた機械人形のような動きで、顔を上げる。
……ダ…………タ……タイチ……クン?
タイチの姿をみとめるや否や、アケミは信じられない素早さで体勢を立て直し、四つん這いになった。そしてあっとも言わないうちに、彼女はタイチに接近すると、その上へ覆い被さっていた。
「ひぃぃ!ひやあぁぁぁぁ!」
タイチの情けない叫びが響く。アケミはつい先刻俺にしていたのと同じ馬乗りの体勢になると、おもむろに手を腹の傷口へ運び……
……ネエ……タイチクン……ホラァ……見テ……
自分の腹の中を掻き回し始めた。
グチャ……グチャ……と、粘性の音が部屋に響き渡る。男が一層大きな声で叫び始める。アケミは一通り腹の中を掻き回すと、動きを止め、ゆっくりと腹の中から手を引きずり出した。
手の中に何が握られていたか、もはや説明の必要はあるまい。タイチはその血に塗れた固体が何かを認識した瞬間、絶望の叫びを上げた。彼は必死に「それ」から目を逸らし、滅茶苦茶に体をよじったが、やはり徒労だった。
……ホラ……見テヨ……
……ネエ……
「ちゃんと、いたでしょう?」
不意に、アケミの声が人間らしいものに変わった。ハッとして彼女の方を見る。その顔はまだブレてはっきりとは見えなかったが、空虚になっていた部分が本来の姿に戻りつつあるように見えた。
「ねえ、どうして見てくれないの?どうして認めようとしないの?」
アケミは懇願するような声で話しかける。だがタイチはそれでも目を逸らし、息も絶え絶えに
「悪かった……許してくれ……悪かったから……」
と、うわごとのように呟くだけだった。
「ねえ……見てよ。見てって言ってるじゃない。見なさいよ……ねえ、見なさいよ……」
アケミの声が、再び怨嗟を帯びていく。
「見やがれこのゲス野郎がアァァァァァッ!」
アケミが獣じみた雄叫びを上げ、愛人の顔面に胎児を押しつけた。タイチはその憐れな肉塊を見て、針金のような悲鳴を上げる。女は狂ったように笑い、力任せに胎児をなすりつけた。もはやそこに我が子への慈愛など微塵も感じられなかった。
終いに、その哀れな塊は、男の口へグリグリと突っ込まれていく。男は激しく嘔吐いたが、女が手を緩めることはなかった。男は喉から人間のものとは思えない摩擦音を響かせ、白目を剥き始める。
「イオたん、もう十分です。そろそろ終わりにしましょう」
流が顔を顰めて静かに言い放つ。庵鬼屋は無言で頷き、再び柏手を打った。
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