疫病神ハ彷徨ス 9

   神無月 十六日


 決意は固まっていた


 ……はずだった。


 昨日と同じ体勢で玄関を見ている姿からは想像できないだろうが、俺はほんの数分前まで俄然やる気だったのだ。


腹拵はらごしらえをして、少しだけ仮眠をとって、ベランダで深呼吸をして……いざ迎えた二時五五分、俺は意気揚々と例の音を待った。

 

   ……デ……ヨウ……


一瞬にして俺の戦意は削がれた。頭が真っ白になる。


――いやいや……昨日までと違うじゃないか。


昨日まで、「ぐぅ……」とか「ぎぃ……」とか、そんな感じだったじゃないか。


――ナニユエ、いきなり喋る……


 もはや、それが家鳴りだとか虫や蛙の鳴き声だとか、そんな薄らとした希望は消し飛んでいた。否、頭のどこかでは既に認めていたのだ。そんな家鳴りなどありえない、そんな鳴き方をする生物などいないと。


  グェ……ミィ……デ……


 ここまできっぱりと、しかも唐突に現実を突き付けられると、もはや開き直るしかない。


ああ、認めよう。それは人の声だ。


否、今さらぼかす必要もない。それは明確に女の声だ。


そして、ほぼ確実に、この世のものならぬ者の声だ。そう、とどのつまり、俺は嵌められたのだ。ここは社宅などではなく……否、今はそんなこと、どうでもいい。


そうではなく……


    ……ネ……ミ……


        ……グギィ……デヨ……


俺はどうすればいい?


どうするべきなんだ?


振り向くのか?


振り向かないのか?


見るのか?見ないのか?


そもそも、何故に見る必要があるのか……?


だが次の瞬間、そんな逡巡は灰燼かいじんに帰した。


「……ネエ……ミテヨ……」


声が、すぐ真横から聞こえた。叫び声など出なかった。全身の筋肉が一瞬にして引き攣り、反射的に顔がそちらへ向く。その刹那、俺は呼吸困難に陥った。


女が、ほとんど触れるほどの至近距離から俺の顔を覗き込んでいた。

 

 その視線は、この三日間、俺がずっと感じていたものだった。

 

 女の顔は手ブレの酷い写真のように曖昧模糊あいまいもことしていて、目も口もただただボッカリと空いた空洞のようになっていた。


 よく見ると、女は腹の辺りに何か抱えるような姿勢をしている。見てはいけない……そう告げる本能とは裏腹に、視線は女の手許へと誘われていく。そして俺は昼に食ったものを吐瀉しそうになった。


 女の両手には、逆手に包丁が握られていた。その刃は彼女の腹に深く突き刺さり、柄を握りしめた拳がブルブルと震えている。そして彼女はゆっくりと、しかし確実に……


自らの腹を切り開きつつあった


……ねえ、見てよう……


刹那、女の顔のブレが止まる。目と口は相変わらず空虚だったが、はっきりと分かる。彼女は、微かに笑っていた。


 気管からようやく掠れた悲鳴が縛り出され、俺は後退ろうとする。だが、足がわらって力が入らない。体を支えようとした右腕がヘナリと折れ、そのままベッドに転がってしまう。


 女が覆い被さってくる。重みは感じないのに、明らかに下腹部が何かに押さえ付けられている。抵抗しようと身じろぎするも、まったくの徒労だった。


 女はゆっくりと上体を起こし、馬乗りの体勢になる。そして、再び包丁の柄を握り込んだ。


――やめろ……


女の二の腕に、じわりと筋が立っていく。再び、濁った呻き声が上がる。


――やめるんだ……


極めてゆっくりと、蛞蝓が這うよりも緩慢に、包丁が横に進んでいく。刃が一つ進むごとに方向がぶれ、ジグザグの傷口が広がっていく。


……ぐぎ……ぎいぃぃ……


痛々しい行為とは裏腹に、その呻きはどこかしら喜色を帯びていた。思わず女の顔を見る。そして、卒倒しそうになる。


女は、狂喜じみた笑みを浮かべていた。


その引き攣った笑顔で俺をじっと見ながら、女は一気に刃を進める。女の体がビクビクと大きく痙攣する。傷口からはみ出した腹膜が内臓の重みで裂け、くすんだ赤紫がムニュリと飛び出して、俺の腹の上へブチ撒かれた。


……見・デ・エェェェェェェェェェェ!


部屋中に歓喜の声が響き渡る。それを皮切りにして、女は包丁で滅茶苦茶に腹の中を掻き回し始めた。赤黒い液体と破片がそこら中に飛び散り、俺の腰回りに濁った沼が出来ていく。そして……


              ボトリ


何か、それまでとは違う硬い感触が、腹に当たった。


見てはいけない。


脳に痺れるような警告が鳴る。


だが、自らの意志に逆らって、俺の目は動いていた。と同時に、女が感極まった声を上げた。


……ほらあぁ!見デエェェェェェェェェェッ!


「うはぁ……うわああぁぁぁぁぁっ」


ようやくマトモな悲鳴が出る。


「やめろ!やめろおぉぉぉぉぉ!」


俺はひたすらに叫んでいた。もちろん、妙に生々しい血液の温もりが恐ろしくて叫んでいた。腹の上に転がる「それ」に戦慄して叫んでいた。


だが、それだけではない。女がどういう理由で腹を割いているのかは分からない。背後にどういう経緯があったのかも知らない。だが……


――だめだ。こんなことをさせては……だめだ


 それは、突如起こった。不思議な感覚だった。自らの叫びの中に、意識が呑まれていく。俺はその感覚をいつか感じたことがあったが、それがいつ何処での話なのか思い出す前に、俺の意識は黒い塊となり、ブラックアウトしていった。




 真っ暗な意識の中、断片的な映像が高速で流れていく。男の声が頭の中に響く。


――何だよ、もう連絡すんなって……   ――ああ?何言って……



――検査は……    


     ――そんな金なんて   ――冗談じゃねぇ ――どうせ嘘


――そんなに言うなら見せてみろ 


金属音


――おい……何を……


沈黙


――せせら笑い     ――どうせ本気で


――ほら見ろよ  ――勝手にしろ


ドアの音


啜り泣き




そして……


「ほら、見て……?」


急速に意識が戻る。目を開ける。女の顔が、真正面まで近づいてきていた。女は包丁から手を離し、代わりに両の手で「それ」を掲げていた。それはそれは満足そうに……


それは、恐らくまだ何ヶ月も経っていないであろう


……小さな、胎児だった。


女はそれを見せつけるように、こちらへ差し出してくる。俺は思わず顔をそむけた。


……ネエ……見デ……


俺は目を瞑る。しかし目を瞑ったら瞑ったで、その小さな姿が瞼の裏に浮かぶ。俺は必死に頭を振り、その映像を振り払う。


……見テ……


――嫌だ


……見デェ……


――嫌だ


……見ロ……見ロォォォォォ!


女が咆吼すると同時に、首に圧力がかかる。俺は思わず目を開ける。いつの間にか、女は胎児を手放し、代わりにその手は俺の首へと回されていた。


女の顔は狂気に歪み、もはや血だまりに転がっているであろう胎児のことなど眼中にない様子だった。


首に掛かる力が次第に強くなっていく。


抵抗できないまま、気管が潰され、意識が遠退いていく。


――何だ?死ぬのか?庵鬼屋と約束したばっかりなのに

  ……というか、約束させといてこんな部屋に住ませたのか?

  

  意味が分かんねーよ……


俺はいつの間にか、意識が遠退くのに任せていた。もはや、考えることも出来なくなっていた。


――まあ、いいか。いろいろと横道に逸れたが、これでようやく死ねるわけだ……




刹那、視界の端に黒い影が通り過ぎるのが見えた……気がした。

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