疫病神ハ彷徨ス 7

   神無月 十五日


 社宅での奇妙な生活は三日目に入った。未だ仕事の依頼はない。日毎に不信感は募るが、今のところタダ飯を食わせてもらっている引け目が勝っている。庵鬼屋は昨日の夕方も段ボールを運んできてくれた。相変わらず老人用のレトルト食品だが、まあ、文句は言えまい。


 そういえば、昨日の昼飯を食べ終えてから気付いたのだが、段ボールの中に流の手書きメモが入っていた。ご親切なことに、レトルトパックを食べる順番が指定されてある。どうやら初日の夜に食べた肉じゃがは、二日目の昼に食べなければならなかったようだ。粥の方は朝飯……何やら、彼なりのコダワリがあるらしい。


至極、どうでもいい。


空になった二箱目の底から、メモを取り出す。もちろん初見だ。さあ、過去三食の答え合わせ。どれどれ、さっき食べた『小骨も飲んじゃえ!おさかなクリームシチュー』は、今朝のメニューだったのか……


残念、全問不正解


……………………


…………


 何やら途轍もない虚無を感じて、丸めたメモをゴミ箱に投げ入れた。ベランダへ出て、外の空気を吸う。実をいえば、三日目にしてそこそこ参っているのだ。何てったって、やることがない。流のメモ予想など、ほんの手慰みにもならない。あとは寝ているか、飯を食っているか、こうして景色を眺めているか……


その景色さえ、あまり気の晴れるものではない。


マンションの共用廊下側は県道に沿っていて、向かいのビル越しに多少なりとも山が見える。が、その反対、ベランダから見えるのは延々と続く住宅街だけだ。


 肌寒さを感じて、室内に戻る。ベッドに腰掛けてボンヤリしていると、いつの間にやらウツラウツラとしていた。ふと目が覚めると、時計の針は二時五〇分を少し過ぎている。厭な時間に目が覚めた……そう思った。


                   ……ッ……


ベランダの掃き出し窓と、コタツテーブルの間辺りから、何か聞こえた気がした。


            ……ウッ……


 気のせいだと思い込むことは難しかった。何故なら、昨日も同じ時間にこの音が聞こえてきていたからだ。

 俺は努めてどうでもいいことを考える。あの馬鹿げたネーミングの介護食は何種類あるのかとか、流の悪趣味な燕尾服はどこで仕立てたのだろうかとか……


      グゥ……


掃き出し窓の方から顔を逸らし、玄関をじっと見つめる。首がりそうになるが、必死に耐える。その空間を視界に入れてはいけない気がした。かといって、目も瞑りたくなかった。


畢竟ひっきょう、じっと、何かに見られているような気がしていた。


   グ……ゥグゥ……


断じて呻き声などではない。女の低い呻き声などではない。きっと建材が軋んで、変な音を立てているのだ。もしくは床下にウシガエルでも潜んでいるのだろう。そんな風に考えれば考えるほど、脳内に厭な映像が舞い込んでくる。


厭な臭いがする。


なまぐさい、錆の臭い。


 分かっている。家鳴りとくればユーレイと結びつけるなんて、浅はかなのだ。幼稚な考えなのだ。きっと視線や臭いだって脅迫観念からくるもの。そう、ここは「社宅」だ。何の変哲もないただのワンルームマンションだ。


そう、あくまでここは「違う」はずだ。


 やがて、音が止んだ。三時を少し回っている。かれこれ十分近く、音が鳴っていたことになる。同じ姿勢のまま固まっていただけなのに、全身が粘っこい汗に覆われている。


鉄の臭いは、しばらく鼻腔の隅にこびりついていた。


 その日の夕方、三箱目の段ボールを置きながら放たれた「ヨッコイショータロー実は次男坊!」という不可解極まりない掛け声を完全スルーして、俺は庵鬼屋に話しかけた。


 ちなみに、庵鬼屋は玄関より中には頑なに入ろうとしない。「アキラさんのようなキンジューの住まう部屋に入ったらオトメのテイソーが」などと訳の分からないことを吐かしていたが……


まあどうでもいい。


「なあ、庵鬼屋、ちょっと聞きたいことがある」

「どうしたでありますか。湿っぽい顔をさらにジメジメさせて」

「ジメジメはしていない。いや、まさかとは思うんだが……」


ふと、自分の質問がとんでもなく馬鹿げている気がして、言葉を飲み込む。はぐらかそうかと思ったが、庵鬼屋の変質者を見るような顔に負けて、昨日から続く家鳴りと視線のことを話した。


「まさかとは思うが、この部屋、実は事故物件で~す……なんてことはないよな?」


庵鬼屋は「はあ」と呟いたきり、しばらく腹立たしいほど遠い目をしていたが、やおらいつもの飄逸な顔に戻った。


「まあ、家鳴りなんてどこの家でもありますし、特にここは見た目に反して結構ボロいでありますから。あと、異臭に関してはアレです……アキラさんの体臭であります」


「悪意しかないのか、お前は。というか、俺は真面目に相談を……」


と、俺の言葉を遮るように庵鬼屋がズイと踏み込んできた。間髪入れず、背伸びをした彼女の顔が俺の首元へと近づいてくる。思わぬ行動に、俺は辟易たじろいでしまった。


――なんだ?な、なんのつもり……


意志に反して鼓動が速まる。思わず庵鬼屋から目を逸らす。どうか誤解しないでほしい。俺はロリコンではない。


「うえ……」

顎の下から渾身の嘔吐えづきが聞こえる。


「やっぱりガチクサいであります。部活終わりの剣道部の臭いがするであります。ガチアキラ臭、パないであります」


俺の健気なコンプライアンス精神は、一瞬で憎悪に変わった。


「貴様、ベランダからぶん投げてやろうか」

「まあまあ、仕方ないであります。何せ何日もお風呂に入っていないのですから。そろそろ一度、事務所に来てシャワーを浴びた方がいいであります」


庵鬼屋に掴みかかろうとしていた手が止まる。


――うん、それはそうだ。そりゃ臭いかもしれない。臭いはずだ。なんか違う気もするが、まあ、いいか。


 俺は体勢と話題を元に戻す。


「それはそうと、視線の件はどう説明するんだ。まあ、俺の勘違いとか脅迫観念だとか言われればそれまでなんだが」


「そんなに気になるなら、一度見てみればいいじゃないですか。そしたらハッキリするであります」


「はあ?」


「案外何かいるかもしれませんね。だいたい、家なんて新築でもない限り、そこで誰かがクタバッテいても不思議ではないであります。まあ、ビビりのアキラさんには無理かもしれませんが」


そう言うと、庵鬼屋は去ってしまった。それにしても楽しそうな顔だ。俺の悪口を言う時だけ、キラキラと輝く悪意がとめどなく散布されているのが見えるようだ。


否、もはや実際に見えた。うん。


 しかし、確かに庵鬼屋の提案は一理ある。「シュレディンガーの猫」だ。ちゃんと見ない限り、そこに「何か」がいる可能性は存在し続ける。とっととその可能性を潰してしまわないと、俺はそのうち本当におかしくなってしまう。


そうだ。きっと勘違いなのだ。


俺は独り頷くと、段ボールの前に屈みこむ。


その瞬間、胸元からフワッとアンモニア臭が漂った。




明日は事務所へ連れて行ってもらおう……そう決意した。

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