疫病神ハ彷徨ス 3

   神無月 十三日(再び、夕刻)


 随分と日は傾き、サッカー少年たちも大半が帰ってしまった。赤いTシャツを着たクリクリ頭と、黒いTシャツの癖っ毛が、二人だけ残って練習をしている。


仲間うちでも下手くそなのだろう。時折パスが明後日の方向に飛んで、その度に二人一緒にボールを追い掛けていく。


だだっ広い公園は、ボールが弄ばれる気の抜けた音と、ミシミシと木の軋む音に支配されていた。


 冷静に考えてみれば、「事故物件に住む仕事」という滑稽な話に、あそこまで過剰反応した自分こそ滑稽なのだ。二週間前、俺が満身創痍で見た光景は、そんな都市伝説など遥かに凌駕するほど現実離れしていたのだから。


あの夜、イオたん――庵鬼屋いおにや――と呼ばれる少女がやったこと……


あれは恐らくなのだろう。心霊番組やホラー映画で見るそれとは掛け離れていたが、確かにあのとき、庵鬼屋は退した。


件の仕事というのは、あるいは、そういった除霊だの悪霊退治だのに関わるものなのかもしれない。


 まあ、どちらにしろ、もう俺には関係のない話だ。散々世話になっておいて、仕事の話になったら機嫌を損ねて逃げ出す。そんなクズを追い掛けるほど、彼らも暇ではないだろう。


 やめておけばいいのに、また空を仰ぐ。空の雄大さを思って人はせいせいするらしいが、俺はそんな風に思えない。自分の矮小さが浮き彫りにされて、目の前に突き付けられるだけだ。


――どうして、こんな風になってしまったのだろう……


 未だボールを蹴り合っている少年たちを、じっと見つめる。俺も普通の人間だったら、あんな風に友達と遊んだのだろうか。あんな風に、二人だけでずっと遊んでいられるような親友が出来たのだろうか。


否、そんな贅沢はいわない。


別に上っ面だけでもいい。普通に、ただ普通に、級友だとか、同僚だとか、そういう関係が築けたのだろうか。


――築きたかった……


ふと、脳裏にいやな映像が浮かび上がってくる。


                 走り去る黒い影


     響き渡る悲鳴


――やめろ


        おかしな方向に折れ曲がった手足


              とめどなく流れ出る血泡


――やめろ……


突き刺さる視線


   四方八方から射かけられる非難


          波状に広がっていく悲鳴


――やめてくれ……


ぽつり、呟かれた、言葉


……がみ


……びょう……み


――頼む。やめろ。思い出すな。




この、疫病神




「やめろって言ってるだろう!」


思わず頭を抱えて叫んでしまってから、ふと気づく。そういえばサッカー少年たちがいたのだ。


恐る恐る顔を上げると、彼らは俺の方を見て何やら耳打ちをしている。やはり聞かれてしまったらしい。彼らは俺と目が合うと、さっと目を逸らし、またボールを蹴り始めた。


その瞬間、俺は全身の産毛が逆立つのを覚えた。


それは異常行動を見られたことによる羞恥心でもなければ、ヒソヒソと俺のことを話している少年達への怒りでもない。


あるものが見えたのだ。


一瞬のことだった。


視界の端を走り去る、黒い影。


まるで人のような、人ならぬような……


それは見間違いとか、飛蚊症とか、そういった類のものではない。


俺は今まで、何度もその影を目撃してきたのだから。


そして、それはだ。


俺の周囲で、誰かが災難に巻き込まれるときの……


「駄目だ。ここから離れないと」


俺は今度こそ、ようやくもって重い腰を上げた。だが、ずっと座っていて痺れたのだろうか、足がなかなか思うように進まない。枷をつけられたような足を力いっぱい持ち上げるように、俺は必死でその場から歩き出した。


何やら少年達の喚く声がした。ほんの一瞬の間を置いて、聞き覚えのある音が、背後から近づいてくる。


ボンッ……ボンッ……


ボン、ボン……


――まずい……


そう思った時には遅かった。やがてそれは砂利を転がり始め、


俺の踵に当たって、


ボン……


動きを止めた。


 俺が取るべき行動は一つ。ボールのことなど無視して立ち去る……これに尽きた。最悪、少年達の心証を少しでも良くしたいのであれば、ボールを彼らの方へ投げ、すぐに立ち去るべきだった。


――何故だろう

  何故、俺はボールを持って突っ立っているのだろう


 赤と黒のTシャツが駆け寄ってくる。坊主頭と癖っ毛が口々に、何やら言っている。その光景が、どこか酷く抽象的に見えた。ムンクの「叫び」のモブみたいに、ボンヤリとした記号の塊が近づいてくるような感覚。


目の前に起こりつつある事象と、それに最適な対処を、頭が処理できなくなっていた。


――話したいのか?彼らと?

――やめろ。何を言っているんだ、俺は……


 少年たちはあっという間に眼前へ近づいていた。彼らは何と切り出せば良いのか分からないといった風に、しばらくモジモジとしていた。否、ボケッと自分たちを見つめる成人男性に対して、警戒の念を禁じ得なかったのかもしれない。


頭の中で、グルグルと思考が回る。


 オイ何ヲヤッテルンダ早ク渡セ・デモ何カ一言声ヲ掛ケルノガ普通ジャナイノカ・デモ何テ声ヲ掛ケレバイインダロウ・気ヲ付ケナサイカ・ソレトモ「ハイドーゾボッチャンタチ」カ・否モット気ノ利イタコトヲ……ソンナコトハドウデモイインダ・トットトコノ子タチカラ離レロ・大変ナコトニナルゾ……否否デモ一言クライナラ大丈夫・コノ子タチダッテ無言ノママムスットボールヲ返サレタラ気ニ病ムダロウシ・ソコハオトナトシテ何カ気ノ利イタ一言ヲ・嗚呼デモ気ノ利イタ一言ッテドンナダロウカ・駄目ダナァ俺ハドウモソウイウノガ苦手デ……


「あ、あの……」


オドオドとした声で我に帰る。声の主は癖っ毛の方らしい。俺が視線を向けると、彼は「いや、何でも……」と口籠もってしまった。


俺はもはや少年たちが自分の前にいる理由を見失うところだったが、何とか正気を取り戻すと、手の中にあったボールを半ば取りこぼすような形で少年達に返した。


結局、「あ……」としか言えなかった。


 また顔を出し始めた例のカリギュラ効果を無理矢理に押し込めて、俺は踵を返す。逃げ出すように重い足を引きずって歩き出す。


 関わってはいけないと思うほど関わりたくなる。話してはいけないと思うほど話したくなる。もしかすると、俺の中に凄む疫病神が、そうさせているのかもしれない。新たな犠牲者を求めて、俺の口をこじ開けるのだ。きっとそうだ。


だとすれば、畢竟、俺には止められない。


彼らを救うには、無理にでもこちらが逃げるしかないのだ。そうだ、それでいい。年端もいかぬ少年達から必死で逃げる奇ッ怪なオトナを見れば、彼らも気味悪がって自然と遠ざかるだろう。


「あの……」


 だが、少年達は俺が思うよりもずっと純朴で、ずっと優しい心の持ち主だった。俺は聞こえない振りをして、必死に歩を進める。


「あの、大丈夫ですか?なんか顔色悪いですよ。足も引き摺ってるみたいだし……」


――駄目だ。俺に関わっちゃいけない。とっとと向こうへ行って練習再開だ。

  というか、帰れ。


最低なことに、俺が念じれば念じるほど、彼らは俺のことを心配してくれるのだった。あるいは、それも疫病神のなせる業なのかもしれない。


「本当に大丈夫なんですか?救急車呼びましょうか?」

今度は別の声が聞こえてくる。坊主頭の方だろう。


その言葉に、俺は凍り付いた。


駄目だ。救急車なんて呼んではいけない。そんなことをしたら、救急隊員も野次馬も、大量に人を巻き込んだ惨劇が起きるかもしれない。俺は思わず後ろを振り返る。


「だ、大丈夫だから、き、気にせず、元の場所へ……」


末期の言葉よろしく振り絞ると、俺はようやくフラフラと走り出すことができた。


だが、遅かった。


あともう少しで公園の出口というところで、それは聞こえた。


太く、乾いた、それでいて空虚な軋みの音。


そこへノイズのように混ざる、繊維質のものが割れる音。


枯れ枝の立てる、不吉なざわめき。


音の間隔は短くなり、加速度的に増幅し、ついには全てが重なっておぞましい崩壊音へと変わっていった。


俺は振り向く。


少年達は、まだそこにいた。


口をアングリと開けて、迫りくる幹を見つめていた。


「に、逃げえぇぇッ!」


 俺は叫ぶと同時に駆け出していた。間に合うのか、否、間に合わせなければならない。枯れ木とはいえ、あんな巨木が倒れてきたら、幼い子どもでなくともタダでは済まない。


 足が重い。無理矢理に持ち上げる。胸腔から意味不明の罵詈雑言が溢れ出す。速く……もっと速く動けよこの馬鹿足!




だが、心のどこかで認めてしまっている自分がいた。




――間に合わない……




頭からダイブした俺の目の前で、少年たちが大木の影に覆い尽くされていった。

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