疫病神ハ彷徨ス 4
瓦解音の残響と砂埃が充満する中、俺は地面に這いつくばっていた。頭の中に渦巻く罵詈雑言を流暢に垂れ流すこともできず、ただただ口の中に入った砂利をギチギチと噛みしめていた。
「疫病神」
脳内に、いつぞやの声が響く。心臓が萎縮するような感覚に苛まれる。それを皮切りに、かつて俺をそう呼んだ声たちが、口々になじり始める。
ああ、またやっちまったよ
なんで毎度毎度繰り返すかねぇ
自分が疫病神だって分かってるくせに
だから、とっとと
消え失せれば
よかったのに……
――五月蠅い……!
今はそんな幻想にかまっている場合ではない。
――助けないと……
確かに、俺はこの世から消えるべき人間だ。しかし、今はそれどころではない。会社で同僚を巻き込んだときは、周囲に人がたくさんいた。それを言い訳に、俺は逃げ出した。逃げ出すことが出来た。
「誰かが何とかしてくれるだろう」と。
だが、今回は違う。少年たちを助けてくれる人は誰もいない。俺しかいない。俺が何とかしなくちゃいけない。せめて助け出して、救急車を呼んで……
消え去るのは、その後でいい。
俺は立ち上がり、倒木へ駆け寄る。幹に手をあてがう。
触れた瞬間、絶望が全身を駆け巡る。
ビクともする気がしない。
実際に近くで見ると、その木は思っていた何倍も大きかった。枯れているとはいえ、とても一人で持ち上げられる代物でないことは明白。だが、それでも、どうにかしなければならない。
火事場の馬鹿力を信じて、俺は渾身の力を込める。
……無駄
徒労……
果てなく、ただただ乾いた樹皮に熱量が吸い取られていく
そもそも虚弱体質なうえ、病み上がりで更に体力は削がれているのだ。そもそもこの大木を自力で動かせるという考えが間違っている。
――下は……下から助け出せないか?
這いつくばり、覗き込む。無数の枯れ枝に支えられ、幹と地面の間には何とか隙間が空いている。だが、逆にその茂りが災いして、中の様子がよく分からない。
「おい!頼む、聞こえているなら返事をしてくれ!」
……返事はない。
俺は縋るような思いで何度も呼びかけたが、返事はおろか、呻き声や物音さえも聞こえてこなかった。その静寂が、最悪の結果をいやでも想起させる。なにせこの重量が小さな体にのし掛かったのだ。
普通に考えて、無事で済むはずがない……
――駄目だ。考えるな。
俺は激しく頭を振り、幾度も呼びかける。しかし、何度呼びかけても同じだった。終いに声の全てが幹に吸い込まれているような感覚を覚え、俺はとうとうその場に崩れ落ちた。
――畜生……
「何で俺はいつもこうなんだよ!」
自分でも気付かぬうちに叫んでいた。意味のないことと知りながら、何度も地面を殴りつけた。
「何で…何で俺は……」
「まったくであります」
頭上から、聞き覚えのある声が降ってきた。
「へ?」
俺は情けない
微かに揺れる傾いだ幹の上、少女が座っていた。否、正確にいうと、座った体勢で幹の上に浮いていた。
「庵鬼屋……?なんで……」
俺の口からその名が溢れると、彼女はフフンと鼻を鳴らしてみせた。
「まったくもって、いったい何をやっているのだか。大見得を切って事務所を飛び出したと思ったら、こんな所で枯れ木とお戯れ。しかも鼻水ズルズル涙もズルズル、傍から見れば狂人もいいところであります。まあ、実際、アキラさんはいろいろとトチ狂ってますし、仕方ないのかも……」
庵鬼屋は、あからさまに小馬鹿にした口調で言うと、態とらしく肩をすくめた。白銀のショートボブが揺れ、両の鬢に一筋ずつ流れる黒髪がチラチラと見え隠れする。
「庵鬼屋、今はそれどころじゃないんだ。倒木の下に男の子が二人下敷きになってる。早く助けないと……」
そこまで言って、俺は微かな希望を見出した。
「そうだ。あの変な腕ならこの木だって動かせるだろう。殴って破壊できるかもしれない。頼む。早くあいつらを呼び出してくれ」
あの夜、確かに俺は見た。庵鬼屋の背後から伸びる、二本の腕。恐ろしいまでに筋肉の隆起した、金色と漆黒の一対。そして、彼らの見せた恐るべき剛力。
彼らであれば、確実に……
だが、庵鬼屋の反応は俺の期待していたどれとも掛け離れていた。彼女はポカンと口を開けていだけだった。
「この木を動かす、でありますか?」
「そうだ」
「殴って壊す、でありますか?」
「そ、そうだ」
「そんな必要はないであります」
醒めた目で俺のことを見据えながら、彼女はにべもなく言った。あまりに飄然としたその態度に、俺は思わず声を荒げた。
「なんでだよ!幼い子どもの命が掛かってるんだぞ。今すぐ助けないと……」
間に合わないかもしれない……という言葉をすんでで飲み込む。
だが、庵鬼屋はなおも飄々と、底意地の悪い口調を続ける。
「私がアキラさんを手伝う必然性がどこにあるのですか?私たちは他人同士であります。だいたい、こうなったのはアキラさんが片意地を張って、私たちの差し伸べた手を振り払ったからでしょう。その変な腕とやらも、きっと助けてくれないですよ。あまりにも虫が良すぎるであります」
――解っている。
全ては俺のせいだ。
自業自得だ。
そんなことは解っている。
だが……
「今はそんなことを言っている場合じゃないんだよ!もう一度言う。幼い子どもの命が掛かってるんだ。緊急事態なんだよ。ああそうだ。確かに悪いのは俺だ。俺がいつまでも煮え切らずにいたから、こんなことになったんだ。これが終わったら、俺はもう誰も巻き込まないようにこの世から消え去ってやる。だから、最後に頼みを聞いてくれ。この子たちを助けてやってくれ!」
ふと、庵鬼屋の顔に暗いものが走った気がしたが、それはほんの一瞬のことで、すぐに元の顔に戻った。
「いいですか、アキラさん。私たちは慈善事業をやっているのでもなければ、社会正義のために動いているわけでもないのです。私が力を使って、彼らを使役すれば、それだけの対価が発生するであります。アキラさんは、それを払うだけの覚悟があるのですか?」
俺は一瞬言葉に詰まって俯く。流が俺に提示した額が本当だとしたら、仕事の依頼主から払われる報酬はその何倍にもなるだろう。無一文の俺に払えるわけがない。
「だ、だから、もう誰にも迷惑掛けないように……」
「馬鹿ッ!」
苦しい言い分を、突然の罵倒が掻き消す。その声は、明らかに先ほどまでとは違っていた。
思わず見上げた俺は、庵鬼屋の様子に当惑してしまった。
彼女は泣いていた。顔を真っ赤にして、幼い子どものように……否、年相応に表情を歪めていた。
「アキラさんの大馬鹿ッ!阿呆たれッ!腐れロリコン野郎!誰もそんなことは求めてない!……というか、絶対に、そんなことは許さない!」
その剣幕に、今度は俺がポカンとする。
「え……えっと、なんか、ごめん。分かったよ。そうだな、うん……金は何とか工面する。だから……」
訳も解らぬまま、取り敢えず謝る。
庵鬼屋はしばらくしゃくり上げていたが、涙と鼻水を袖口で拭うと、思い切り鼻を啜り上げた。
「フンッ!アキラさんが無一文のド底辺野郎で報酬を払えないことなど解りきっているであります。……まあ、そうですね。アキラさんが私の同僚であれば、無償で助けてあげられないこともないでありますが……」
俺はようやく庵鬼屋の魂胆に気づいた。。まあ、対価云々の話が出たところで、おおかた検討はついていたのだ。だが、そうだからといって、もはや拒否できる状況でもない。
否、もしかすると俺は、それを望んでいたのかもしれない……
「分かった。仕事を引き受ける。それでいいんだろう。だから、早く助けてくれ」
少女の顔が、パッと明るくなる。
「契約成立であります!」
庵鬼屋は、一つ高らかに
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