疫病神ハ彷徨ス 2
神無月 十三日(時は少し戻る)
妙な事務所だった。
そもそも事務所が入っている建物からして異様だ。
異常に奥へ細長いのだ。
中の構造も妙だ。ビルの正面に向かって右手側に入口があり、エントランスを経てすぐ階段なのだが、これが折り返すことなく最上階まで続いている。階ごとに小さな踊り場と各部屋の扉がある。
つまり、最上階の入口は建物の最奥部で、階を下るごとに各部屋の入口がビルの正面へと近づいていく、という具合だ。
さて、肝心の事務所は最上階なのだが、これが贅沢にもワンフロアぶち抜きだ。そのせいで扉を入ってすぐにある応接ソファから部屋の奥を眺めると、感覚が狂いそうになる。ちなみに、事務所の入口が南、奥が北だ。
床には磨き上げられた濃紺のタイルが貼られ、壁は一面の書棚になっている。
文庫本やペーパーバックの小説
黒魔術だの陰陽道だの怪しい文言が背表紙に書かれたハードカバー
かと思えば日本地図、世界地図、歴史書、哲学書、漫画本……
さらには恐らく業務用であろうファイル……
それらが何の分類もなく乱雑に並べられている。神経質な人間は発狂するだろう。
応接ソファから先に何があるかといえば、申し訳程度に長机が二脚と、乱雑に散ったパイプ椅子たち。
その奥に何故かギターが数本と三台のアンプスピーカー。
さらに少しいくと大きめのキッチンワゴンがぽつねんとあり、天板の上にはコーヒーミルとサイフォンが乗っている。
そこからしばらくの空白を経て、ゴール地点には書斎机。恐らく
そして何故かその机上、ド真ん中にクッションが据えられている。もはや立派な机を使う気さえないようだ。
総括――とてもではないが、仕事をする場所だとは思えない。
そして何よりも違和感を演出していたのは、応接テーブルの上、大皿に山積みされたクッキーである。焼きたてなのだろう。事務所の異様さに圧倒された俺の鼻先を、芳醇なバターの香りがくすぐっていた。
「して、本日ここにお越し頂いたのはですね、鍵野さんにお仕事を紹介させて頂くためなのです」
対面から投げかけられた柔らかい口調に、俺はハッとした。ハッとはしたが、視線はクッキーに釘づけたままだった。
俺がこの事務所に来るのは、これで二回目。とはいっても、初めてこの事務所に来た――というより、運び込まれた――とき、俺は満身創痍かつ意識朦朧としていて、この事務所の異様さも、流の外見も、気に留める余裕さえ無かった。
正直なところ、既に後悔し始めていた。半ば強制的にとはいえ、流についてきたことを。
――この事務所、この所長……
絶対にロクな「お仕事」じゃ無い
運び屋か、売人か、それともナントカ詐欺の受け子か。近からずも遠からず、どうせそんなところだろう。喉元にムズムズとした感覚が迫り上がってくるのを抑え、俺は話をはぐらかして逃げ出すタイミングを探っていた。
俯いたまま口を開こうとしない俺を見て、流は何か勘違いしたようだった。
「まあ、残念ながら安全なお仕事とはいえません。多少の危険は伴います。しかし命に関わるようなことはありませんよ。我々が全力でサポートしますし、危険な分、それに見合った報酬はお支払いします」
ますます怪しい。「命に関わるようなことは」というのが特に怪しい。まさかこの適当な事務所で高所作業員や原発作業員というわけでもあるまい。やはり、
俺は俯いたまま目を泳がせていたが、続けて投げかけられた言葉に……
「いかがですかね。人と関わらずに出来る、鍵野さんにとっては理想のお仕事だと思うのですが」
思わず顔を上げた。
「どうして……」
正面から見据える流の表情は、想像していたよりもずっと優しく、力の抜けたものだった。額から一筋垂れた前髪が、どことなく間抜けにフラフラと揺れている。精悍な骨相に浮かぶ柔和な色が、見る者を余計に混乱させる。
「もちろん、お仕事を紹介するのですから、失礼ながらある程度は調査をさせて頂いております。それに、イオたんから報告も受けていますしね」
そりゃそうか……と、妙に納得してしまう。ちなみにイオたんというのは、ホームレス生活をしていた俺につきまとい、俺をこの事務所に運び込んだ少女だ。
「……それで、仕事というのは何なんですか?」
「事故物件に住んでいただきたいのです」
流はさらりと言い放った。
「はい?」
「ですから、事故物件にですね、住んで頂きたいのです。ご存知ですよね、事故物件に住むお仕事」
「ええ、存じ上げておりますよ。あの有名な都市伝説の、ですよね」
「左様でございます。あの有名な都市伝説の、です」
俺は本格的に逃げる準備を始めた。
「はあ、それで、その、報酬というのはいかほどで」
「その物件の難易度や住んで頂く期間にも依りますが、まあ最低でも一件につき百万はお支払い致します」
危ういところで失笑を堪える。仕事の内容もさることながら、一件につき百万……
からかっているのか詐欺なのか知らないが、あまりにも設定が雑すぎる。
「そうですね。お断りします」
殆ど棒読みで言い放つと、流はいかにも心外だという顔をした。
「気に入っていただけませんか?鍵野さんにぴったりのお仕事だと思いますよ」
「いったいぜんたい、どこがどう俺にぴったりだと思うんです?意味が分かりません」
途端、流がずいと応接テーブルに乗り出す。幾分近づいたその顔面を凝視する形になって初めて、間抜けな俺は気付いた。
――柔和……なんかじゃない。
目が笑っていないとか、表情筋だけで装っているとか、そういった類のものでは決してない。流は確かに笑っている。優しく笑っている。だが、何かがおかしい。空虚……というのも少し違う。こちらに向かって優しく微笑んでいるはずなのに、
何一つ、意図が分からない。
何のための笑顔なのか、分からない。
目を合わせていると、思考も記憶も全て吸い取られそうな……
笑顔
「だってそうでしょう。何てったってずっと部屋に篭っていられるんです。周囲を不幸にする疫病神体質の鍵野さんが、誰一人傷つけずに出来るお仕事なんですよ」
思わず、ソファから飛び退いていた。そして、叫んでいた。
「俺を
そこまで言って、俺は口をつぐんだ。
――駄目だ。相手の思う壺だ。このまま怒りなのか恐怖なのか分からない感情に任せて言葉を吐いたら、この流という男に全てを曝け出してしまう。そうなったら……
氾濫しそうな言葉をぐっと飲み込み、軽く一礼だけして、流に背を向けた。そのまま大股で扉に近づくと、ノブを捻る。
と、俺が押すよりも先に扉が開かれた。
思わずつんのめり、顔を上げると、そこにはかの「イオたん」がいた。
「アキラさん。また逃げるでありますか?」
少女は寂しそうな目をしていた。俺はその表情に少し辟易ろぐ。あの夜、俺をこの事務所に担ぎ込んだとき、彼女はそれはそれはもう楽しくて仕方がないという顔をしていたのに……
――何だよ。何でそんな顔してんだよ。
俺は少女を押しのけ、階段を降りていった。
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