疫病神ハ彷徨ス 1

   神無月 十三日(夕刻)


 凍え死ぬには生ぬるく、だって死ぬにはうすら寒い。


 空はずいぶんと高くなって、何一つ遮るものが無い。遠くで子どもの嬌声と、蹂躙されるボールの音が聞こえる。まったくもってノンビリとした昼下がり。


――最悪だ。


大抵、こういう安穏あんのんな時間に、最悪なことは起こるものだ。


ところどころ塗装の剥げたベンチの背もたれに寄り掛かると、俺はクソほど青い空に舌打ちする。それから、一生分の幸せを追い出すほどの溜息をついた。


――何をやってるんだ、一体……


今度こそ、死ぬつもりだった。ほんの二週間ほど前までは。


職場から逃げ出し、アパートから飛び出し、腐った段ボールの上で惨めったらしく野垂れ死にする予定でいた。


野垂れ死に……恐らく反省点はそこだろう。そんな生半可な考えだから駄目なのだ。だから結局に見つかって、助けられて、ヘラヘラと半年間も生き延びて……


そして、結局を傷つけて……


 とっとと首を吊るなり身を投げるなり腹を切るなりしておけばよかったのだ。サクッと死んでおけばよかったのだ。そうすれば、あんなことにはならなかったし、今現在もこんな憂鬱にさいなまれることはなかったのだ。


               ミシ……


否、そうではないか。


 これまで何度も、何種類も、試みたことはあるのだ。首を吊ったことも、身投げしたことも、腹を切ったこと……は流石にないな。


だが、一度も上手くいかなかった。


怖気づいたのではない。いつも何らかの偶然が重なって失敗してしまう。だからこそを選んだ。それなら邪魔されることはないだろうと判断したのだ。だが、それさえも「彼女」に阻止されてしまった。


最低だ。


どうして自分だけに、こうも悪運が味方するのか……


   ……ギッ……


 それはそうと、先ほどから背後で何かが軋む音がする。まあ、見当はついている。ベンチのすぐ後ろで、クヌギの木がかしいでいるのだ。相当な大木だが、もう枯れてしまっている。


 いっそこの木が今すぐ倒れてきて、俺を押し潰してくれればいい。残念ながら、今の俺には頑丈なロープを用意する気力も、屋上が開放されている高いビルを探す根気も、ましてや腹を切る勇気も……そもそも自ら死ぬ方法を考える元気さえない。


――なんだ?


――死にたく無くなったのか?


あの夜、血みどろの惨劇を目の当たりにして、死ぬのが怖くなったのか?


       それとも……


――それとも、「彼女」に未練があるのか?


 何を一人前な思考をしているのだ。お前のような人間が、そんな「普通」の皆様が抱くようなセンティメントに浸っていいと思っているのか。


――忘れるな。

  お前は、普通の人間ではないのだ。普通の生活など望んではいけないのだ。


 一人前、といえば、こんなところでボサッとしている理由だってそうだ。ついさっきまで、俺はとある事務所にいた。かたじけなくも、そこでとある仕事を紹介してもらったのだ。しかしながら、その話があまりに荒唐無稽で、俺は馬鹿にされたような気分になって飛び出してきた。


 だが、俺に断る権利も道理もない。あの夜、彼らは意識朦朧としていた俺を介抱し、明らかに正規の医療ではないにしろ、怪我の治療まで受けさせてくれた。いわば命の恩人だ。その至れり尽くせりの末、なんと仕事まで紹介してくれようというのだ。


「鍵野さんにピッタリのお仕事」を。


 悔しかったのだろうか。初めて会った人間に見透かされたようなことを言われて、自分が今まで背負ってきた懊悩おうのうを軽んじられたように思ったのだろうか。それじゃまるで子どもだ。


否、それもあるが、何かが違う。


あの男……全てを見透かされそうな、そんな子どもじみた思考まで見透かされそうな……あの厭な笑顔……あれが怖くて、俺は逃げ出したのかもしれない。


 ふと、俺は我に返る。こちらに近づく気配に気づいたのだ。


小さな女の子。幼稚園児だろうか。まだ覚束おぼつかない足取りで、しかし真っ直ぐにこちらへ近づいてくる。


――駄目だ。近づいちゃいけない。


 秋も深まる時分に半袖でいる滑稽なオトナに興味を示したのだろうか。それとも親とはぐれて困った挙げ句、滑稽なオトナでも一応は頼りにしてみようとでも思ったのだろうか。


 俺の取るべき行動はただ一つ。退散だ。だが、何故か腰が重い。いやに気が進まない。むしろ、あの幼女と話すことを望んでいる気さえする。


安心してほしい。俺は断じてペドフィリアではない。今まで自分の好みについてじっくりと考えたことなどないが、少なくとも幼稚園児は射程圏外だ。


――さあさ、こっちにおいで。お兄さんとお話しよう。

  怪しいオジサンじゃないよ。ホォラ、全然怪シクナ~イ。半袖だけどね~。

  優しいお兄さんがピエロの格好でおどけてあげようね。

  ウフフ、さあ、早くおいで


 駄目だ。悪い虫が疼く。否、決して幼女が相手だからではない。断じてない。


いわゆるカリギュラ効果というやつなのだろうか。


どうも俺には、他人と関わってはいけないと自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、誰かと話したくなるきらいがあるらしい。


 いよいよ俺が断腸の思いで立ち去ろうとしたとき、女の子の背後から女性が駆け寄ってきた。彼女が女の子の名前を呼ぶと、女の子の顔がパッと輝き、振り向いて、女性の方へ駆け寄っていく。女性はいかにも苦々しい顔でこちらを一瞥すると、女の子に何やら言い聞かせていた。きっと、


「あんな腐った高野豆腐みたいな怪しいオジサンに近づいちゃあ駄目でしょう。あっという間にハイエースされてお嫁にいけなくなってしまいますよ」


などと吹き込まれているのだろう。


まあ、それで構わない。


俺は心の底から安堵して、さらに深くベンチに沈む。


――さて、これからどうするかな……




いくぶん茜の濃くなった空に、俺は目一杯の幸せを逃した。

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