第33 闇よりも暗い場所で

「なんて事だ…!あまね!あまねー!

おい!お前ら周が落ちたんだぞ!何とかしろ!潜ってでも探すんだ!」


 茫然と座り込んでいる俺の傍では何よりも大事だった『人魚の末裔』が海に飲まれた事に動揺を隠せない学園長が欄干に齧り付いて喚いていた。

 今にも落ちそうに身を乗り出す学園長を作務衣の男達ご必死で欄干から引き剥がす。


「学園長!危ないです!もう諦めましょう!」


 誰が見ても今この海に潜る事は自殺行為だ。

 二人を見つけるのはもはや無理だった。

 海面上昇はますます勢いを増して行き、とうとう海水は廊下に流れ込むほどに膨れ上がった。

 生ける屍のようになっている俺のガクリとついた両膝や太腿、学園長達の脛の高さまで海水は雪崩を打つようにに押し寄せた。


「学園長!もう無理です!ここはもう水没します!早く上に行きましょう!」


 なかなかここを離れる踏ん切りがつかない学園長に焦りを滲ませながら作務衣の男達が学園長に避難を迫った。

 だが時間が無いと言うのに焦ったい押し問答はしばらく続いた。


「ダメだダメだ!

周は鎮めの儀式に必要だ!何としても周を引き上げろ!」

「もうダメです!」

「ええい!役立たずどもめ!不破!不破!何とかしろ!」


 両脇を抱えられるようにしながら叫ぶ学園長をフランケンが神棚の中へと追い立てた。


「学園長!ここは我々の言うことを聞いて下さい!

後で海堂君の捜索は必ずしますから!」

「何を言ってるんだ!バカなのかお前!

それじゃあ遅い!生きてないと意味がないんだぞ!」


 学園長の頭にあるのは海堂自身の事ではなく、あくまでも鎮めの巫としての役割を担う海堂だ。

 拉致のあかない押し問答にフランケンは小さく舌打ちをすると学園長の身体を神棚の奥へと無理やり押し込みながら作務衣の男達に一喝した。


「何をしてる!お前達!学園長を早く!」


 早くしなければ彼らですら命が危ういのだ。

 学園長は避難口へと引き摺られて行きながら、なおもフランケンに命令していた。


「いいか?!不破!その小僧にとどめを刺せ!!」




 こうして増水した廊下には座り込む俺とフランケンだけが残された。

 だが彼から差し伸べる手は無く、冷徹な眼差しが俺を見下ろしていた。


「瀬尾、悪いがここでお前を助ける事は出来ない。

俺にも事情ってもんがあるんだよ。

このまま行けばお前は遠からず死ぬ。俺がとどめを刺すまでもなくな。

お前達はしくじったんだ」


 フランケンはそう言い放つとにべもなく俺を置き去りにその場から立ち去ってしまった。


フランケンが一瞬でも味方だと思ったのは間違いだったのか?


 いやそんな事は今更どうでも良かった。

 間も無く俺も井上達の元へ行くのだ。

 せめて三人仲良く同じ海の藻屑になれる事は幸いだと思った。


…いやそうではない…。


 それは後から俺が思った事だ。

 ただただこの時の俺は空虚で何もなく、実際にはこの状況もフランケンの事も虚な瞳は何も見てはいなかった。

 ただ水に浸かりながらぼんやりと死を待っていたのた。いやもう待つなんて概念すら無くしてしまっていたのだ。



 そうやってどのくらい時が過ぎたのだろう。

 ほんの数分だった気もするしもっと長かった気もする。

 あるいはほんの数秒の事だったかもしれない。

 激しい渦潮の轟音に混じって誰かが俺と井上を呼んでいた。

 その声は聞いたことのある声で、気力の萎えた俺を見つけるなり水を掻い潜りながら必死で俺をここから連れ出してくれたのだ。


「瀬尾くん!遅くなってすまない!なかなかここに近づけなかったんだ!

それより…井上くんはどこだ?!」


 その人は音無だった。音無は何も喋らない俺を見て直ぐに事情を察したようでそれきり何も聞いてこなかった。


「出口は一箇所だ!あの黒い墓石の下の通路だ。あの階には浸水しては来ないがまだ学園長達がいる!

あいつらが居なくなったら脱出するぞ!」


 確かそんな事を必死で俺に言ってくれていた気がする。

 俺は音無に手を引かれ、導かれるまま足を動かし満ちて来る海水を本能で掻き分け泳いでいた。

 上への階段は既に半分が水没していたがそこから漏れてくる明かりに導かれるまま闇雲に這い上がった。

 そこに待ち構えていたのは俺たちを心配しながら待っていたママだった。


「瀬尾くん!

良く無事でいてくれたわ!」


 そう言うとママは両腕を開いて濡れ鼠の俺をしっかりと抱き締めてくれた。


「音無君も無事で何より!ところで…井上くんは…、」


 そう言いかけたがママの肩に音無がそっと手を置いた。はっとママが音無を見ると、そこには暗い目をした音無が無言で首を横に振っていた。

 ママは直ぐにその意味を悟ったようだったが、ここで三人しんみりしているわけにはいかなかった。

 ママは慰めに俺の背中を何度か強くさすると気持ちを切り替えるように「よし!」と気合を入れて顔を上げた。


「…ともかく!

ここから出よう!

いま学園長達は脱出していったわ!ここにいるのはもう私たちだけよ!さあ、立って瀬尾君!」


 俺に手を差し伸べらたがその手を俺は取ることすら出来なかった。

 体力ではなく、生きる気力を失っていた。


「瀬尾君、もう少しだ頑張れ!」


 音無にもそう励まされたが俺はもう無理だった。


 そこから酷く記憶が曖昧だ。動けなくなった俺を音無が背負い、あの場所だけでなく船で島からも脱出したのだ。

 それだって後から聞いて知った事だった。

 その時、唯一俺が憶えていたのは耳の奥でずっとうるさく鳴り響いていた船のモーター音だ。

 目の前で起きた出来事から自分をシャットダウンするように俺はただ膝を抱え身体を丸め、何も考えなくていい世界にいた。

 そこは海の底よりも深く、氷よりも冷たく、闇よりもまだ暗い場所だった。






指先が触れたのに…。


 指先が触れたのに…。


  この指先が触れたのに…。






 


 


 




 



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