第25話 鯨光芒《げいこうぼう》の正体

 おばちゃんの言ったことは本当だった。

 俺たちは部室に駆け込むなり乱雑に山積した新聞の中から島の新聞を引っ張り出して猛烈な勢いで本日の潮流を探した。


「あったぞ、本日の潮流!」


 それは天気予報のスペースに小さく今日の潮流や風向き、風速など漁師に必要な情報が掲載されていた。

 それによると、干潮と満潮は一日に二回づつ繰り返すらしい。


「井上、今日の干潮は午後三時だってよ、それを逃すと翌日の午前一時になるらしいぜ!

とにかく、海岸へ行ってみよう!」


 二人ともどこに行ったら『げいこうぼう』があるのか分からぬままに体が勝手に動き出していた。

 走る俺を追いかけながら井上が俺のシャツの裾を引っ張った。


「待てよ瀬尾君!君は何処の海岸に向かってるんだ?」


 この島には鮫人海岸、朝日海岸、連座海岸と主な海岸が三つある。



「鮫人海岸!」


 即答した俺に井上が聞き返した。


「なんで」

「いや何となく。ここから一番近いし鮫と鯨は親戚同士だからな」

「そんな適当な!」

「だってヒントが何も無いんだから仕方ないだろう?取り敢えず今日のところは引き潮がどんな感じなのか見れたら良いさ」


 それもそうかと井上が肩を窄めた。

 鮫人海岸は島で一番大きな海岸だ。遠浅の海岸は海水浴をするのにもってこいだが、一方では釣りもできる堤防があったり、遊泳禁止区域があったりと多彩な様相を見せる海岸だ。

 海岸に着いた時にはだいぶ潮が引いていて海面はないでいたが、普段とは少し違う景色だった。

 この日は遊泳している人影も無く、釣り糸を垂れる老人が一人ポツンと糸を垂れている姿が何故か印象的だった。

 普段は海底にある堤防の壁面も今は剥き出しでびっしりとフジツボがはりついているのが見えた。

 俺たちはその堤防をゆっくりと沖の方へと歩き出した。


「風景は何となくいつもと違うけど、特別な何かなんて無いな」

「そうだね、僕はこうもっと海から何かクジラみたいな岩とかが出てくるんじゃ無いかとかちょっと想像していたよ」

「クジラ、鯨ねえ、この海岸じゃ無いのかな。やっぱりそうそう上手くはいかないか」


 そう言って二人で笑い合っていた時だった。「鯨なら居るよ」と背後から声がした。

 振り返るとそこにはさっきの老人がポツンと一人堤防に座って居るだけだ。


「あ、こ、こんにちは」


 声をかけてきたその老人に、井上がぺこりと頭を下げた。


「はい、こんにちは…。龍神学園の生徒さん達かい?」

「あ、は、はい…。あの、今鯨ならいるって言いましたよね?

それ、どう言う意味ですか」


 俺が尋ねると、老人は釣竿の先で遊泳禁止区域の方を指した。


「ほれ、あそこじゃよ。小さい島のような岩が見えるかい?」


 目を凝らすと、沢山のごつごつと切り立った岩の中に一つだけ緑のしげる岩陰があった。


「あれはな、鯨岩と言うのさ」

「クジラ…岩?」


井上も俺も目を凝らしたが、どう見ても鯨には見えない。


「はっはっはっ、そうは見えんじゃろう?

だがあの岩を真横から見ればちゃあんと鯨の格好をしとるんだ」


 ニコニコと穏やかそうに笑う老人に俺は気を許して尋ねた。


「あの、つかぬことを伺いますが…。おじいさんは『げいこうぼう』と言う言葉を聞いたことはありませんか」

「げいこうぼう…。

ああ、鯨道のことかな?」

「鯨道?なんですかそれ」

「一年に一度だけ大潮の日の干潮の時に現れる道があるのじゃよ。

それがまるであの鯨岩の口から光の道が現れるようで、その時間帯の事を『鯨光芒』と呼ぶのじゃよ」


 俺と井上はこれだ!と顔を見合わせていた。

 まるで雲を掴むような話なのに、こうもあっさりと解決するとは思わなかった。

 その時の俺たちにはこののんびりとした老人が神様か何かに思えたのだ。


「ありがとうございます!今の話とても参考になりました!」


井上が声を弾ませる中、その老人はよっこらしょと立ち上がった。


「もう、帰られるんですか?」

「干潮の時にはあまり魚は釣れんのでなあ」


 その言葉が不思議だった。干潮の時には釣れないのが分かっていたのにこの老人は何故ここで釣り糸を垂れていたのだろう。

 まるで俺たちにヒントを与えるためだけにここにいたみたいに…。

 遠ざかる老人の背中を見送りながら、単純な俺たちはこの時ありがたいと思うだけで他に何も考えてはいなかった。



 それにしても干潮の海は静かだった。いつもは海に隠れている砂浜の上を歩きながら、俺はこのまま鯨岩まで泳げるような気さえしていた。


「井上、ちょっとこれ持ってろ」


 そう言うと俺は脱いだシャツと靴を井上に押し付けた。


「瀬尾君?何する気だ!まさか鯨岩まで泳ぐとか言わないよな?」

「そのまさかだ」

「ダメだよ!あそこは遊泳禁止区域じゃ無いか!」

「大丈夫だ。今なら行けそうな気がする」


 その時の俺は海に呼ばれていたのかもしれない。

 いつもはそんな無茶なことなどしない俺が、止める井上の声も聞かずに鯨岩へと泳ぎ出していた。

 実際泳ぎ出してみると行ける気がした。

 鯨岩は老人が言った通り、真横から見ると鯨が岸に向かって泳ぎ出しているように見えた。


「普通、鯨って沖に向かって泳ぎ出さないか?

岸に向かったらダメだろう」


 この時の俺はそんな事を考える余裕があった。

 だが平泳で鯨岩の口のあたりに辿り着いた時だった。足元の潮流が急に速くなり、流れが変わった気がした。

 足をバタつかせ水を掻いても体が勝手に海中へと引き込まれていく。

 焦れば焦るほど水は体にまとわりついた。水嵩も急に増し、干潮の終わりを告げていた。


「瀬尾君?!早く上がれ!」


 井上の声が聞こえたが時はすでに遅しだった。

 遊泳禁止区域にはそれなりの理由がある。この区域は海面は穏やかに見えるが海中では潮の流れが逆になって渦が逆巻いていたのだ。

 俺は海中の中で自分の体が激しく波に揉まれて何回転もするのが分かった。

 天地がどっちか分からない。焦って息を吸い込むと大量の海水が入ってきて苦しさに気が遠くなる。

 手足をバタつかせてもがいている俺は、正しくこの時溺れていたのだ。

 その時だった。俺は不思議なものを見た。沢山の人魚が俺の周りを泳いでいる。

 あのお伽話の漁師達も、船が転覆した時に皆揃って自分たちの周りを人魚がたくさん泳いでいたと証言していた事を、俺はもがきながら思い出していた。


「瀬尾君!瀬尾ーーー!」


俺を呼ぶ井上の声が酷く遠い。



ああ…。


俺は死ぬのか?


もう何も苦しく無い。


何も聞こえない。



 その時、一際美しい人魚が俺の前に現れると俺の腕を捕まえた気がした。

 青白い肌に所々玉虫色の鱗が煌めき、射干玉ぬばたまの瞳が俺を覗き込んでいる。


俺はこの顔を知っている。


誰だっけ…。


そうだ、海堂に似ているんだ…。


ああやっぱりお前は人魚だったんだな…。


 最後にそんな事を思いながら、俺の意識は暗い場所へと落ちていった。



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