第24話 鯨光芒《げいこうぼう》の睨む先に口有り

「天羽…さま…?!」


 声に聞き覚えがあった。その老婆は、背が低くずんぐりと小柄なくせに、初めて遠くから見た時と同じように不思議な威厳を放っていた。

 あの日、海堂を送って下宮に来た時、社務所の小窓からチラとだけ姿を見かけたそれがこの天羽だった。

 天羽は海堂の去っていった方を見つめながら独り言のように「後悔があるのだ」ともう一度呟いた。

 こんな場合、俺達は何と言ったらいいのだろう。

忍び込んでおいて「こんにちは」と言うのも今更白々しい気がして、俺達はただ黙って体を固まらせ、背中に冷や汗を流しながら立っていた。


「アレの母親も、祖母もこの苦界くがいから救うことができなかった。

私がもう少し若く、もう少し力があったなら周をこの運命さだめから今度こそ解き放ってやることができたやもしれぬ」


 唐突で抽象的だったが、アレとは海堂の事だとすぐに分かった。

 まるで一人語りでもするように天羽の囁くような声が滔々と語り始めた。


「我ら下宮の人間はな、人魚の子供を最初に託された時からずっと、その子孫が絶えぬように守ってきたのだ。それが我らに課せられたさだめだからだ。

さりとて私も一人の人間だ。時にこのを運命を覆したいと思うことがあるのだ。苦界の輪廻を断ち切り、人魚の子孫を自由にしてやりたいと何度思ったか知れぬ」


「……なぜ、そうされなかったのですか…」


 おずおずと井上が尋ねると、天羽の齢を重ねたその顔がいっそう枯れて行くように見えた。


「私もまたこの連綿と続く一蓮托生の蓮の葉の上にいるのだ。そこから一人飛び降りる訳にはいかなんだ」


 後悔があるのだと言った天羽の言葉のその意味は、こう言うことなのかと思った。

 この島の人たちにとって、人魚伝説はただのお伽話では済まされない。

 皆で人魚を殺してしまった時の呪いはまだずっとこの人達の中に生き続けているのだ。


「なぜ、そんな話を俺たちにするんですか。

人魚の話はこの島では禁忌ではないのですか?」


 俺がそう尋ねると天羽は鎮痛な面持ちで言った。


「せめて解いてやりたいのだ。可哀想な人魚達に絡む黒い糸を…」


 そう天羽が言った時、にわかに井上の目が何か思い当たったように見開いた。


「黒い糸とは、一体何のことですか…?

もしや、貴女は一連の事件のことを全てご存知なのでは無いですか?

あの沢山の祠の事や五芒星の巨大な石のことや、この島に起こっている数々の殺人事件の事も、全部ご存知なのですよね?

だから僕らにこんな話をされるのではないのですか?」


 その時、本殿の方から天羽を探す声がした。


「天羽様ー?どちらにおいでですか天羽様?」


 見れば本殿の階段を東雲が降りてくるのが見えた。

 天羽は東雲から隠すように俺と井上を手水舎の奥へと押しやった。


「良いか、見誤ってはならぬ。人魚伝説と事件とは一つのようで一つではない。繋がっていても全く違うのだ」

「え…?それはどう言う…」


「東雲、いま参る。そこにおれ」


 恐らく東雲の目を俺たちからそらす為なのだろう。

 天羽は自ら東雲に声をかけると手水舎から外へ出た。

 天羽は後ろ手に向こうへ行けと俺たちに合図を送りながら最後に早口で不思議な言葉を言った。


「潮干するしおひするとき鯨光芒げいこうぼうの睨む先に口有り」


 それは謎すぎる言葉だった。

 天羽は振り向きもせずにその言葉だけ残して俺たちの前から歩き去ってしまったのだった。


『げいこうぼうのにらむさきにくちあり』

いったいこれは何のことを指しているのだ?



 その言葉に頭を支配されながら寮に戻った俺達を出迎えたのは、昼時のカレーの匂いだった。

 その匂いはあっちの世界からこっちの世界へと否応なく俺達を引き戻した。

 同時に腹が減っていたことを気づかせた。

 食堂では夏休みに居残っている学生達のために、食堂のおばちゃんたちが交代で俺達の食事の世話をしてくれていた。

 俺たちの姿を見るなりカウンターから配膳されてくるカレーを受け取ると、俺たちは目立たない隅っこの席に腰を下ろした。

 俺はスプーンの先でカレーの山を突き崩しながらぼんやりと呟いた。


「しおひするとき、げいこうぼうのにらむさきにくちあり…か。アレ何の暗号だ?」

「…それ、僕なりに考えたんだけど…」


 そう言うと井上はテーブル上のペン立てからボールペンを一本拝借し、脇に置いてあったメモ帳を引っ剥がすとサラサラと文字を書いて行く。


「恐らくだけど、漢字にした方が分かりやすいよ『潮干する時』恐らくこれは引き潮のことだと思うんだ」

「じゃあ『げいこうぼう』ってのは?」

「それが分からないんだよなぁ。『げいこうぼう』ってのが分からない。

『げいこうぼう』って君は聞いたことあるかい?」

「俺に聞くなよ、それが分からないって話だろ?

お前が知らないことをおれが知っているとでも思うのか」

「ああ、確かにそれもそうか…」

「………お前ねえ…」


 それはそうなのだが、即座に納得する井上が憎らしい。


「その『げいこうぼうの睨む先に口有り』ってのはつまり、そのまんまその『げいこうぼう』とやらが睨んだ先に口があるってことか?

それがこの事件の解決に繋がるものって事なのか?」

「うん、僕はそれで当たりだと思う。ただその『げいこうぼう』って言うのが分かればね」


 頭で謎解きをしながら俺達はカレーをがんがん口の中に放り込んでいた。

 それはおよそ食べていると言うよりも詰め込んでいると言った方が良い。

 カレーを平らげた井上がコップの水を一気に飲んで「引き潮か…」と呟いた。


「潮の流れは一日に二回づつ満潮と干潮を繰り返すものらしいけど、天羽の言うその干潮はいつの事だろね」

「新月の時は引き潮になるって俺、何かの雑誌で読んだ事があるぜ」

「それ何かの雑誌じゃ無くて、教科書だったんじゃ無い?」

 

 話に没頭していた時、脇から突然食堂のおばちゃんが話しかけてきた。


「なんだいなんだい、あんた達、釣りでもしたいのかい?」

「釣り?どうしてですか?」

「だってほら、干潮満潮を見て漁師達は漁に出て行くからね、釣れるポイントや釣れる魚も違ってくるんだって言ってたよ?」


 的外れだったが、ここはおばちゃんの話に乗っかった方が良さそうだと思った俺は惚けたフリを決め込んだ。


「へえ、そうなんですか…。それは参考にしなきゃ!

ところで干潮満潮が分かる何かってありますか?」

「おや、あんた知らないの?毎日島の新聞には今日の潮流が載ってるじゃないか」

「ええ?!なんだって?新聞に…?!」


 思わず俺は叫ばずにはいられなかった。新聞三社を毎朝くまなく見ていた俺とした事が見逃していることがあるなんて!

 だって、潮流の事など俺にとってはおよそどうでも良いことだったのだ。

 突然大声を出した俺におばちゃんは訝しそうな顔をした。


「ちょっと、あんた達、何でそんな事知りたいの?

本当に釣りなのかい?」


 今までニコニコ話をしていたおばちゃんの表情が一気に変わった気がして、慌てて井上が誤魔化した。


「あ、いえ本当に釣りですよ!釣り!僕たちどっちが沢山釣れるか競争してるもので」

「こほっ、ゴホッ、か、カレー美味しかったっス。ご馳走様!」


 俺は咳き込みながら立ち上がるとこれ以上話すと何かまずい気がして二人とも鉄砲玉の勢いで食堂から飛び出していた。

 その後ろで俺達を見送るはおばちゃんの胡乱な眼差しがある事に気がついた。

 『なんだか見張られてるような気がするのよ』と、いつか『ピンクヴィーナス』のママがそう言っていた事を思い出した俺は密かに鳥肌を立てていた。


 

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