第12話 直之の覚醒

 ピアノを弾く直前の、心を整える瞬間が好きだ。

 呼吸と心臓の鼓動、いつもは意識しないことに意識を集中する。

 だが、指先は無意識に動き出す。

 喜びも悲しみも、怒りや悔しさですら、ピアノは心を映す鏡だ。

 そして、グランドレア王国でピアノは鎮魂の楽器とされていた。

 死者の魂を慰めると共に、戦いに疲れ、傷付いた戦士を癒やす。

 だからこそ、ピアノは王侯貴族の姫君の嗜みとされ、週に一度の『祈りの時』には全国の城にある祈りの間は民に開放され、救いを求める者全てに演奏が捧げられた。

 そんな一つ一つの事を、夏輝はピアノを弾くことで思い出していく。


 人類の発生と同時に始まったとされる魔族との戦い。初期の人類は、魔族のエサに過ぎなかったという。

 太陽を恐れる魔物が身を潜める日中に活動し、日が暮れると魔物に見つからないように隠れて眠る。

 そんな時代が何万年も続いた。

 だが、人類の中から魔族に抗う力『魔力』を持つ者が現れ、状況は一変する。それを取り巻く環境として文明も飛躍的に発達した。

 その時、人類はもう魔族の単なる餌ではなかった。

 魔物と違い、人類は常に発情期だ。年中繁殖が可能な人類は、やがて数で魔物を圧倒するようになる。

 やがて人類は、魔力が親から子へと高い確率で遺伝することに気付く。そして、遠い部族の男女間の子ほど、より強い魔力を持つ事も。

 こうして魔力を持つ者の中から指導者が現れ、魔法の能力や種類により貴族や騎士が体系化される。

 民は、自分達を命懸けで守る王侯貴族を敬い、喜んで税を収めた。

 王国と秩序の誕生である。

 だが、権力は代償を求めた。王侯貴族の男は常に戦いと命の危険に晒され、女は愛した男の子供を産む自由を失う。

 そんな代償を抱えつつ生きる彼らには、人々を守るという誇りがあった。

 王侯貴族としての『誇り』。

 それは、人類の為に己を捧げるという、自己犠牲の精神でもあった。


 ピアノは、夏輝の前世の記憶の扉を開く鍵だったのだろう。

 こうして蘇った記憶の中には、もちろんデュークフリードとの清らかな純愛もあった。

 王侯貴族の姫君は、思春期を迎える頃にナイトの爵位を持つ家系から、同世代の優秀な男子を専属騎士として迎える。

 これには幾つかの理由がある。

 一つは、当然ながら姫君の護衛のため。

 実は魔力とは、両刃の剣でもある。魔力を持つ人間の肉を食らった魔物は、より凶暴に、より強くなった。

 したがって、王侯貴族は魔物から恐れられる存在であると共に、付け狙う対象でもあったのだ。

 中でもうら若き姫君の肉は味も格別らしく、魔物から最高の標的とされた。それだけに、専任騎士は常に行動を共にし、例え浴室であっても同行する必要があった。

 もう一つは、騎士は基本的に単独では魔力を発動できないということだ。国王への忠誠、主君への忠義、そういったものがあって始めて恐ろしい魔物と渡り合える力は発揮される。

 そして、姫君と専属騎士の関係は、やはり特別だった。あえて障害の多い複雑な恋愛関係に発展するよう仕組まれることで、騎士は最大の戦闘力を発揮できた。

 簡潔に言えば、姫君と騎士は、身分を越えて愛し合うことが、黙認どころか期待されていた訳である。肉体関係を持つことすらも……。

 専任騎士は、騎士爵の子息の中から、姫君好みと思われる少年を選りすぐる。そして騎士も、歩き始めた頃から徹底的に主君に尽くし、姫君を守り抜く騎士道が叩き込まれる。

 二人が愛し合うのは必然と言えた。

 姫君と相思相愛となった騎士は、まさに超人と呼べる力を発揮し、城を守る最大の戦力となった。

 だが、姫君が騎士の子を身籠もる事だけは、絶対の禁忌とされていた。

 姫君は、いずれ王侯貴族の正妻となり、強い魔力を持つ子をなるべく多く残すという責務があった。十年に満たない人間の出産適齢期に、魔力に劣る騎士の子を十月十日も身に宿すなど、許されない世界だったのだ。

 王侯貴族の減少は、人類が再び魔族の餌へと戻ることを直接意味していたからだ。

 これらの慣習は、全て人類が滅びずに生き永らえる為の手段だったが、受け入れることができずに苦しむ姫君と騎士も当然いた。

 マリアグレースとデュークフリードもそうだった。


 魂とは波動であるとグランドレア王国では考えられている。

 個々人には固有の波動があり、人の相性もこの波動が共鳴し合えるかどうかで決まる、と。

 波動を異世界に飛ばせば転生と同様の現象が起こるし、死とはすなわちこの波動が止まることである。

 だからこそ、ピアノの音色は生きる者の波動を整え、死に行く者の魂を浄化すると信じられていた。

 そして、デュークフリードは、マリアグレースの専属騎士という特権により、そのピアノの演奏を誰よりも間近でいつも聴いていた。

 今、夏輝が視線を上げると、そこに直之の姿があった。

 カフェの、ピアノから一番近い四人掛けの席に、賢と誠司と三人で座っている。

 表情はわからないが、直之の熱い視線を感じた。

――この感覚、身体が覚えてる……。

 世界中から誰もいなくなり、二人きりになったような感覚。

 今、直之も同じ感覚にあり、前世の記憶が蘇りつつあることが夏輝に伝わってくる。

 夏輝は賢に心から感謝していた。

 賢と誠司がフェアリー女学院を何度か訪れ、すっかり夏輝のピアノのファンになった頃、「宇野も誘ってみるか?」と言い出したのは賢だった。

「オマエのピアノ、スゲェし、いつもと違う魅力みせれば、アイツもフラッとなるんじゃね。女装姿もヤベェし」

 からかう訳でもなく、真面目な顔で言った。

「トーゼン、宇野のコーヒー代は夏輝持ちだけどな」

「うん、ぜひ! よろしく! お願い!」

 食い付く夏輝の目があまりにも真剣だったので、賢は思わず笑ってしまう。

「ハハハ。オマエ、必死過ぎ」


 賢がカフェに行こうと直之を誘った時、最初は教室の掃除を理由に断ってきた。

「最近は夏輝君も手伝ってくれるからね、手抜きはできないよ」

「宇野って、ウチのひいバアちゃんみたいだな。毎朝、徹底的に掃除すんの。もう九十なのによ」

 新田君から夏輝君に呼び名が変わっていることを、賢は聞き逃さない。

「だけど、心配すんな。その夏輝がカフェでピアノを弾いててよ、オマエに聴いてほしいってさ。掃除はオレらも手伝うからよ、さっさと片付けて行こうぜ」

「夏輝君がピアノ……」

 直之の思い悩むような表情を、賢は不思議に思う。

「そんな悩むようなことか? そりゃあ、アイツがピアノなんて、信じられなくてトーゼンだけどよ」

「いや……最近、誰かがピアノを弾いている夢をよく見るから……」

「ふーん、今日のデジャブかもな。でもよ、アイツのピアノ、オマエも度肝抜かれるぜ」

 賢は、ふと思い付きで、直之の顔面にハイスピードの寸止めのパンチを放った。

 直之はピクリとも反応できず、鼻先で止まった正拳を目を丸くして見つめる。

「ああ、ビックリした。急にどうしたの?」

 賢はゆっくりと拳を下ろす。

「いや、なんでもネェ」


 大量の記憶や知識、感情が一気に蘇り、処理が追い付かずに呆然としていると、突然の大きな音に直之は我に返った。

 ピアノの演奏が終わり、盛大な拍手が起こっていた。

 見ると、夏輝がピアノの前でお辞儀をしている。

 直之は自分の顔が涙で濡れているのに気付き、慌ててポケットティッシュを取り出した。

 雛壇を降りた夏輝が、真っ直ぐ直之の所へ歩いて来る。

 直之は椅子から立ち上がり、身を屈めて片膝をつく。

「姫様……」

 それを、夏輝が手を差し伸べて立たせた。

「いけませんよ。ここはカフェ、周りのお客様が驚かれます」

「はい。失礼致しました」

 直之は素直に従い、再び椅子に座る。

 その様子を、賢と誠司が不思議そうに見ている。

「姫様はいつから?」

「数ヶ月前から少しずつ。鮮やかに思い出したのは、フェアリー女学院カフェ部に入部してからです。ピアノを弾いたのが切っ掛けでした。騎士様は?」

「私はほんの今、姫様のピアノで。ようやく、よく見る夢の意味や、夏……早乙女様ばかりが気になる理由がわかりました」

 夏輝は指先で口元を隠し、上品に笑った。

「クスクス。わたくしがどんなにアプローチしても塩対応だったくせに」

「それは……クラスで仲の良い佐藤女史と根津女史が腐女子で、和治殿にいたっては腐男子なもので。少しでも早乙女様に気のある素振りをみせると、大袈裟に喜ぶのです」

「まあ、そうでしたの。それにしてもここは、同性愛にも寛大なおおらかな世界ですわね。グランドレアとは大違いです」

「まったく、おっしゃる通りです」

 誠司が賢に耳打ちした。

「なんの話だ?」

「さあ。コンカフェだから、そういうコンセプトじゃね」

「いや、ここは女子校だろ。異世界なんて設定あったっけ?」


 レジの前で三人が財布を取り出すと、メグが言った。

「本日の皆様のお会計は、当部員の早乙女が済ませておりますので」

「やりぃ、アイツのおごりか。ラッキィ」

 誠司はいそいそと財布をポケットにしまう。

「オレは女には金を出させない主義なんだが」

 賢が言うと、誠司がツッ込んだ。

「女じゃないって。それ、わざと言ってるだろ」

 二人は腹を抱えて笑う。

 そこへ夏輝が急ぎ足でやって来る。

「皆様、今日はありがとうございました」

「こちらこそ、ごちそうさん」と誠司。

「今日のピアノも良かったぜ」と賢。

 そして、直之は黙って夏輝と見つめ合う。

 そこだけ空気感が変わり、気まずさに耐えられなくなったメグが言った。

「どうぞ、お気を付けてお帰りくださいませ。またのお越しをお待ちしております」

 そのあと、小さな声で付け加えた。

「んじゃ、また明日ねェ」


 フェアリー女学院を出た直後、賢は前を歩く直之の後頭部に向かって、再び寸止めパンチを繰り出した。

 気付きもせずに歩き続けると思いきや、直之は賢が視認できない速度で振り返り、拳を手のひらで受け止めていた。

 直之は、ニコッと笑うと言った。

「同じ手には引っ掛からないよ」

 賢はゆっくりと拳を下ろす。

「まあ、そうだろうな」

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