第10話 仮想空間

 金田寛治が空手を始めたのは小四の頃だ。

 太っていることでイジメられているのを心配した両親が道場に通わせるのだが、そこで寛治はコンプレックスだった体重が格闘技の重要な武器であることを知る。

 巨漢の寛治は、試合ですぐに敵無しになった。

 しかし、中学になると、ルールを巧みに利用してポイントを稼ぐ事で勝ちを取りにいく選手が出てくる。寛治はそういった選手になかなか勝てなくなり、優勝から遠ざかる。

 高校に入ると、その傾向は一層強くなった。

 寛治の空振りを誘い、そこにコツコツと攻撃を当ててくる。全く有効打ではないのだが、たった二分の試合時間では、それを判断材料に判定せざるを得ない。

 しかも、全くの互角では、旗は軽い選手の方に挙がるのだ。

 負けた寛治はいつも思った。

――ルールに守られて勝ちを拾いにくる軟弱者め! ケンカならお前なんかに負けはしないのに!

 実際、ケンカで負けたことは無かった。高一のうちに二年、三年のケンカ自慢は全員倒し、学校で寛治に逆らう者はいなくなる。

 退屈に思っていた頃、新一年に狂犬とアダ名される程のケンカ狂が入学してくると聞く。

 寛治の血が騒いだ。

――久しぶりにノールールの闘いができるぜ!

 ただ人を殴りたくて、寛治の拳はウズウズしていた。


 だが、本当の意味でルールに守られた闘いが身に染みていたのは、寛治自身だった。

 路上での闘いでは絶対にやってはいけない、不用意に敵の襟首を掴む行為。それを寛治はやってしまう。

 狂犬と呼ばれた男は寛治より身長で10センチ以上低く、体重にいたっては半分以下だった。つまり、寛治は油断したのだ。

 狂犬の額が寛治の鼻にめり込んだのは、掴んだ直後だった。

 一瞬目の前が暗くなったかと思うと、急に身体の自由が効かなくなる。狂犬から足を踏まれ、尻餅をついたのだ。

 見上げると、狂犬がニヤニヤと笑いながら寛治を見下ろしていた。

 そして、サッカーでシュートするがごとく足を後方に大きく振りかぶり、ためらいも無く蹴り降ろした。

 止めろと叫ぶ間もなく、蹴りは寛治の股間を直撃する……。

 次に意識を取り戻したのは、病院のベッドの上だった。文字通りの病院送りにされたのだ。

 ベッドの脇に、心配した友人二人が座っていた。

 この二人から、何とか教室まで運んだが意識を取り戻さず、結局クラスの担任に事情を説明して救急車が呼んでもらったこと。予想以上の大騒ぎになって、寛治が狂犬から完膚なきまでに叩きのめされたことは全校生徒が知るところとなったこと、などを聞かされた。

 二人の話が終わった頃、クラス担任が病室に入ってきた。

 狂犬とその親が謝罪に来ているが、会うかと聞かれた。

 寛治は布団を頭から被り、会いたくないと答えた。

 

 三日後、登校すると全てが変わっていた。

 もう誰も寛治を恐れることも崇めることもしない。

 パシリに使っていた陰キャに使いに行かせようとすると、「新田を呼ぶぞ」と逆に凄まれた。

 新田と聞くだけで、鼻と股間が痛んだ。

――競技空手じゃ新田に勝てない。

 そう思った寛治は、古伝の空手に立ち返ることを思い付く。あえて危険な箇所を避けて打ち合うのが競技空手だが、元は刀で襲ってくる敵の急所を狙って打つのが古の空手だと聞いた事があったからだ。

 それからは、それまで無関心だった形稽古に力を入れるようになる。細かく一つ一つの動作を確認していくと、競技では禁じ手のオンパレードである事に気付いた。

 もちろん、形も競技化されており、どう考えても見得を切っているだけのポーズや意味の無い緩急はあったが、その技が本来どういうものかを調べるのは楽しかった。

 一年後、寛治はフルコンタクト競技で養った体力と、形の研究で身に付けた禁じ手を併せ持つ空手家となる。

 そして、準備万端で狂犬に挑んだ。


 だが、狂犬と闘う事は叶わなかった。

 まさに闘おうとしたその時に、狂犬のクラスメイトが割って入り、闘いを止めたのだ。

 いや、止めたというより、寛治の戦意を喪失させたというのが正しいだろう。

 見るからにマジメでオタク系のそいつは、寸止め空手をやっているのだろうが、動きの全てが常軌を逸した早さだった。

 寛治はそいつに指先一本触れる事ができず、かといって一発も殴られる事もなく、寸止めという行為で完全に制圧される。

 武術の深淵を垣間見た寛治は、生き方を変えざるを得なくなった。


 という訳でコンカフェである。『フェアリー女学院カフェ部』である。

 寛治は、ご機嫌でオムライスに上手に描かれたウサギの絵をスマホで連写していた。

「いいねえ、ココ、気に入ったよ。グッジョブ、ヤマちゃん」

 ヤマちゃんは、寛治が喜んでくれると自分も嬉しい。

「だろ。ギャルはもちろん、量産型女子も地雷系女子もなんか怖いしね。お嬢様ってバカっぽくなくて、眺めているだけで満ち足りた気分になるよ」

 店員に一人、同じ高校で一学年下のギャルが伊達メガネをしてお嬢様を演じていたが、それには気付かないフリのお約束を三人ともキチンと守っていた。

 タカちゃんはオムライスに描かれたケチャップのイラストには興味を示さず、問答無用でウサギの顔面にスプーンを突き刺す。

「うん、味も悪くない。もう少し大きければね。男子高校生には、チト小さいわ」

 自分は特別でもなんでもない。人より秀でていると思っていた腕力も、上には上がいる。

 その事実を寛治が受け入れたとき、肩の力がフッと抜ける気がした。友達が減ることも無かった。

 強くない自分は魅力が無い。だから、いつも力をアピールしないといけない。

 寛治は長くその呪縛に捕らわれていたが、全て妄想だった。むしろ、弱い自分を認めてから友達は増えた。

 この二人にしても、ケンカに負けた寛治の元を去るどころか、友情は強くなっている。

 そのヤマちゃんが、寛治に目配せする。

「金田君、金田君。とんでもない美人が出てきたよ」

 寛治はヤマちゃんの視線の先をチラッと見た。

 女性の一人客と話をしている。

「うっわ……ヤベェな、ありゃ。フツウに生きてたら、絶対お近付きになれないタイプの美人さんだわ。おい、タカちゃん。あんまりジロジロ見んなって。気味悪がれっぞ。横目でさり気なくな」

 そのタカちゃんが慌てて俯いた。

「しまった。目が合ったら見つめられた」

「見つめられた? んな、バカな。気のせいじゃ……」

 寛治がもう一度美女の方を向くと、なんとその美少女が近付いて来ているではないか。

 そして、三人のテーブルまで来ると、気さくに話しかけてきた。

「いらっしゃいませ。お楽しみ頂いてますか?」

 突然の事に、三人は無言で頷く。

「良かった。実はボ……私、今日が始めてで、面接だけかと思ったら、突然コスチューム着せられて、アタフタしてたんです」

 寛治は素直に驚いた。

「えっ、そうなの? 実に堂々としていて、とてもそうは見えません」

「フフフ、ありがとうございます。でも、本当に良かった。先輩方にお会いできて、少し緊張がほぐれました」

 寛治が返事に困っていると、ヤマちゃんが言った。

「オレらもこの部活、初めてで緊張してたんですよ。えっと……早乙女さん、ね。早乙女さんがいてくれて、凄くラッキーです。なあ、みんな」

 寛治とタカちゃんは激しく頷いた。

 ヤマちゃんの言葉に、美少女は両手の指を胸の前で組んで感動を表す。

「そう言って頂けると、とっても嬉しいです。私達、色々行き違いは有りましたけど、きっとわかりあえると信じていましたわ」

 タカちゃんがシミジミと応えた。

「オレもそう思っていました。これからも通うので、仲良くしてくださいね」

「はい、こちらこそ。私、今からピアノを弾きますので、ぜひ最後まで聴いていってください。先輩方の為に、心をこめて弾きますから」

 そして三人は、ピアノに向かって歩いて行く美少女の姿をうっとりと眺めた。

 我に返った寛治がタカちゃんに尋ねる。

「おい、色々行き違いって何だよ。自分だけ前から知り合いなのか? ズリぃぞ」

 タカちゃんは呆れ顔で寛治を見た。

「ヤダなあ、ここはコンカフェだよ。オレらと彼女は過去に色々あったって『設定』を彼女が考えてくれたんだよ。その色々が何か、続きを知りたければ、足繁く通うしかないね」

「何だ、結局ただの営業じゃん」

 ヤマちゃんはスプーンを立てて左右に振る。

「チッチッチッ、それは違うよ、金田君。ここはね、フェアリー女学院という、現実世界にある仮想空間なんだ。ここでは店員も客も、みんな等しく演者で、即興で物語が組み立てられていく。キャバクラ嬢が次の指名の為にリップサービスするのとは訳が違うのさ。行ったこと無いけど」

「へえ、どっかのテーマパークにあるアトラクションのバックストーリーみたいだな」

 その時、大きな拍手が起きた。

 見ると、先程の美少女が雛壇でお辞儀していた。

 三人も慌てて拍手する。

 そして、美少女の演奏が始まった。

 間近で聴くピアノの音がこれほどまでに美しく、透明感に包まれたものである事を三人は初めて知った。

 いや、ピアノを弾く少女の心の美しさが、そのまま表れているのかもしれない。

 心には琴線があり、美しい音楽はそれに触れるという感覚を、寛治は始めて実感する。

 涙が一筋、寛治の頬を流れた。

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