第9話 エウテルぺ

――男だとバレたらどうしよう……。

 店内へ足を踏み入れようとした瞬間、そんな思いが夏輝の頭をよぎった。その時に向けられるのは、怒りか蔑みか……。

 だが、満員だった店内の視線が夏輝に集まった時、なぜかそれを懐かしいものに感じ、足の震えも心臓のドキドキも嘘のように治まった。

 客席から一斉に溜め息が漏れる。その声にならない賞賛すら、遠い昔に聞いたことがあるのを思い出す。

 夏輝はゆっくりと店内を見回すと、軽く会釈した。

 そして、ピアノに向かって歩きだす。

 客と目が合うたびに挨拶を繰り返した。

「ごきげんよう……ごきげんよう……いらっしゃいませ……ようこそお越しくださいました」

 雛壇に上がり、後はピアノの前の椅子に座って本を読むふりをしながら店内を観察しようと振り返ると、店内は静まり返って夏輝の一挙一動に注目している。お客だけではない、店員までもだ。

 このままでは終わらせられない空気を感じ、夏輝はもう一度会釈する。

 そして話し始めた。

「皆様、本日はご来校、誠にありがとうございます。わたくしは、今日よりフェアリー女学院カフェ部に入部致しました早乙女と申します。至らぬ点も多々あるかと存じますが、何卒よろしくお願い致します」

 拍手が沸き起こり、夏輝はとっておきの笑顔を見せる。

 メグは後方からその様子を見ながら、お試しで入ると断らないとはこの事か、と思う。

 雛壇から一番近い席に座っていたOL風の女性が手を挙げた。

「早乙女さんは何年生ですか?」

「二年生です」

 その連れのOLも話しかけてくる。

「もうカフェ部に仲の良い部員さんはできましたか?」

「はい、メグ……伊集院さんとは仲良くさせて頂いております」

 今度は大学生風の若い男が聞いてきた。

「部活は毎週何曜日に参加するんですか?」

「申し訳ございません。まだ、詳しく決まっておりませんので、改めてご報告させて頂きます」

 そして、次の質問がそれだった。

「ピアノは弾いて頂けるのかしら?」

 年配の品のあるご婦人だ。若い頃、ミッション系の名門女子校に通っていたそうで、なぜかフェアリー女学院という偽りの空間に懐かしさを感じるという。毎週のように特別美味しいとは言いがたいコーヒーとケーキのセットを食べに来ていた。

 夏輝は返事をためらった。

 生まれてこの方ピアノに触った事すらないのだから、ためらう余地など無い筈だが、客席の誰もが演奏を期待しているのが伝わってきて、中々「弾けません」と口にできない。そして何よりも夏輝自身、もしかすると弾けるのではないかという根拠の無い予感があった。

 返事ができないまま、ゆっくりと鍵盤蓋を開く。

 予感は確信へと変わる。

――弾ける! 私はこの楽器を知っている!

 前世の記憶なのだろうか、感覚が徐々に蘇ってくる。

 鍵盤の白と黒の配列が逆で、鍵の数も若干多い気がするが、これとほぼ同じ物を王家の娘の嗜みと叩き込まれた記憶の断片が確かにあった。

 幾つかの鍵を押して音を出してみる。音の配列も同じのようだ。

 夏輝は姿勢良く椅子に座ると、呼吸を整えた。

 ある旋律が心の中を流れる。きっと前世で好きだった曲に違いない。

――大丈夫、身体が覚えている。

 夏輝の指が鍵盤の上を踊り始めた。

 少し物悲しい、郷愁を誘う旋律に、店内の人々は飲食を忘れて聴き入った。


 夏輝は二曲演奏した後、立ち上がって客席に向かい深々と頭を下げた。

 しばらくの静寂の後、割れんばかりの拍手が起きる。

 ホッとした夏輝は、経験した事の無い疲労を感じた。

 拍手が弱くなってきたタイミングで、夏輝は再び語る。

「それでは皆様、午後のひとときをごゆっくりとおくつろぎくださいませ」

 店長から無理はしなくていいと言われていた。夏輝は雛壇を降りてバックヤードへ戻り始める。

 客席からの拍手が続くので、夏輝はペコリペコリと会釈を続けなければならなかった。

 先程のご婦人は立ち上がり、夏輝に拍手を送った。

「素晴らしい演奏でした。ありがとう。セオリー無視の演奏なのに、ちゃんと人を感動させる……いえ、私の知るセオリーとは違う流儀のセオリーというべきなのでしょう。ピアノはどちらで習ったの?」

 夏輝はこう答えるしかなかった。

「あの……独学です」

 ご婦人は驚き、店内がザワついた。

「独学! 聞いたことのない曲でしたが、この曲は?」

「私が……作りました」

 仕方ない、異世界と前世の事を話したところで信じてもらえないだろうし、店の趣旨とも違ってくる。

「こんな所で……本物の天才に会えるなんて」

 ご婦人の唇が震えていた。


 事務所では、メグと店長が当惑顔で立っていた。

「私、夏輝のこと、知ってるつもりで何にも知らなかったんだね」

 メグはショックを受けていたが、夏輝も前世で学んだ演奏を身体が覚えていた事に衝撃を受けていた。

「早乙女さん、時給割り増しするから、定期的に演奏して頂けないかしら。綾小路さんの教本通りの演奏も良かったけど、あなたのピアノには個性がある。お客様がお金を払ってでも聞きたいと思うのは、そんな演奏だと思うわ」

 きっと、夏輝の演奏も異世界では教本通りなのだろう。だが、流儀が違うこの世界では、個性と受け取られるようだ。

「それとね、早乙女さん。しばらく休んだら、もう一度弾いてくださる?」

「はい?」

 次は真っ直ぐに雛壇へ行くのではなく、客席をブラブラと周りながら、話しかけられたら雑談の相手をして、それからピアノの所へ行けという指令だった。

「でも私、女性のお客様と何を話せば良いのかわかりません」

 メグが鼻で笑う。

「フフン、散々女のコに告られているクセに、いつものように軽くあしらえばいいのよ」

 店長が感心するように頷く。

「そう、早乙女さん、モテるのね。当然よね、それだけ美しくて、ピアノも弾けて、礼儀正しくて」

 メグの目が吊り上がった。

「店長、コイツ今、猫かぶってるだけスから。マジもんの狂犬っスから」

 店長は、やんわりとメグをたしなめる。

「伊集院さん、素が出ていますよ」


 店長が淹れてくれた紅茶を飲み終わった頃、申し訳なさそうに店長が言った。

「ごめんなさいね。初日からこき使っちゃって」

 こき使うと言うか、今日は面接だけだった筈なのにと思いながら、そろそろ店に出ろという催促なのだろうと夏輝は立ち上がった。

「いえ、大丈夫です。では、お店に行ってきます」

「よろしくね」

 夏輝が店内に入ると、それだけで拍手が起きた。

――あれ? さっきとお客さんは入れ替わっている筈なのに。

 女のコの一人客がいた。私服だが、夏輝と同世代だろう。

 夏輝と目が合うと、ここぞとばかりに凝視してきた。

 真剣過ぎる目が怖かったが、夏輝は渋々そのコに近付いていく。

「ごきげんよう。おくつろぎ頂いていますか?」

 女のコは元気良く答えた。

「はい! あの、早乙女さんですよね」

「ええ、そうですが……先程もいらっしゃいました?」

「いいえ。私、これ見て、居ても立ってもいられなくて……」

 見せられたのは、ズラリと並んだ早乙女を賛美するツイートだった。

 夏輝は愕然とする。こういった店の店員になるとは、半アイドル化するという事なのかもしれない。

「……この方なんて『音楽の女神エウテルペに出会った』ですって。そんな大ゲサな書き込みをする方じゃないんですよ。これは本物の女神が降臨したと思ったんです」

「はあ……でも私、ただの高校生ですけど」

 女のコは声を上げて笑う。

「いやだ、ハハハ。早乙女さんって天然ですか? もちろんたとえですよ。あの、ピアノの演奏は?」

「間もなく行う予定です」

「良かった! 急いで飛んできた甲斐が有りました」

「ご期待に添えるよう、心を込めて弾かせて頂きます」

 次に会話した客は、出勤前の看護師だった。夜勤に就く前に、かわいい部員を見て元気をチャージするのだと言う。

 やはりツイートを見て、早乙女に会うのを楽しみにしていた。

 夏輝は、自分がそういった話題の対象になってしまった事に、座り心地の悪い椅子に似た違和感を覚えた。

 こんな時、大して仲良くない相手でも、知っている顔を見るとホッとするものらしい。

 だから夏輝も、意外な場所での再会に驚きつつも、その顔を見てホッとして歩いて行った。

 そこにいたのは、イノシシ先輩と手下の先輩二人、いつもの三人組だった。

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