第6話 ひかれ合う魂
夏輝が連れて行かれたのは、やはり体育館の裏だった。
先週、下級生の女のコが切なげな表情で立っていた場所に、今日は空手着を着た恐ろしい形相のイノシシ先輩が腕を組んで立っている。
「あの、こちらの先輩方にも言ったのですが、まだ掃除中なんです。急ぎの用でなければ、また後日にして頂けませんでしょうか……」
だが、夏輝の丁寧な言葉使いは、むしろイノシシ先輩の怒りに油を注ぐ事になった。
「テメェが掃除だぁ? ザケンじゃねぇ! 大ボラ吹きやがって、どこまでオレらをナメてんだ!」
「いえ、決してそんな……」
「この鼻を見ろ。骨折は手術で治ったが、鼻を折られたトラウマは克服するのに一年かかったぜ。オレが今、何て呼ばれてるか知ってるか? 『イノシシ金田』じゃねえ。『狂犬新田に鼻を折られた金田』なんだよ!」
「すみません、本当にすみません」
「オレらも、もう三年だ。このまま負け犬で高校を終わりたくねぇ。そもそも、オレが油断さえしなけりゃあ、テメェなんかに負ける筈がネェんだ。さあ、新田! オレと勝負しろ!」
イノシシ先輩は拳を握り、力強く胸の前に構えた。
「いえ、私は闘いたくありません。今度ケンカすれば、退学になってしまいます。先輩の勝ちです、降参です」
イノシシ先輩はニヤリと笑った。目に狂気が宿っている。
「心配すんな、新田。ケンカしたら退学なのはオレも同じだ。お前だけに寂しい思いはさせねぇよ」
「先輩、そんなリスクを冒してまでケンカするのはおかしいです!」
「オレにとっちゃな、お前に負けたまま高校を終える方が、ケンカして退学になるより、よっぽどリスキーなんだよ!」
イノシシ先輩が、拳を構えたまま突っ込んできた。
その顔があまりにも恐ろしくて、夏輝は足がすくんで一歩も逃げる事ができなかった。
☆
予定の時間が過ぎてもバスはまだ来ない。道路事情で遅れているのだろう。
「オレ、やっぱ夏輝を待ってようかなぁ。なんか心配だし」
賢が言うと、メグは頷いた。
「そだね。最近ヘンだけど、今日は特にヘンだったもんね。メグは先に帰っちゃうよ。バイトだから」
メグは『ミッションスクールのサロンで、良家のお嬢様が社会勉強の一環として給仕の練習をしている』という設定のカフェで働いている。いわゆるコンカフェだ。
「オレも今日はメガネを買いに行くからさ、夏輝のこと頼むわ」
誠司も言ったので、賢は学校に戻る決心がついた。
「じゃあな、また明日」
賢が言うと、メグと誠司は不安気に小さく手を振った。
教室に戻ると、まじめなグループの女子達がちょうど話しているところだった。
「新田君、戻ってこないね」
「やっぱりバケツ二個は重たかったかな」
流し台へ行ってみたが、そこにもいない。
また女子に告られているのかと、体育館の裏へ向かう。
果たして、そこに夏輝はいた。
だが、夏輝の前にいるのは女のコではなく、空手着姿のイノシシ先輩だった。
そのイノシシ先輩が、左右の肩を交互に揺らしながら夏輝に接近する。渾身のローキックを打ち込む時の予備動作だと賢はピンときた。
イノシシ先輩のローキックは、ブロックしてもなお骨の髄が痺れるほど威力があった。まともに足に受けると、一発で歩けなくなる。
賢が慌てて駆け寄ろうとした、その時……。
隣を何かが、もの凄いスピードで駆け抜けて行った。
そして、サッカーボールを足裏で止める要領で、イノシシ先輩のローキックを足裏で止めていたのは、同じクラスの夏輝のパシリ、直之だった。
蹴りがカットされ、イノシシ先輩は後へよろめく。
「なんだぁテメェ! ジャマすんなボケェ!」
「新田君が戻ってくれないと、掃除がいつまでも終わりません。彼を連れて行きますので失礼します」
「ザケんなゴラァ! 男と男の決闘をジャマすんじゃネェ!」
「決闘? 一方的な暴力を決闘とは言いません。新田君はこの通り、闘う意思は全くありませんから」
「るセェ! 誰か知らんが、テメェから先にブッ殺してやる!」
イノシシ先輩がパンチのモーションに入った瞬間だった。
直之は斜め前方に一歩入り、拳をイノシシ先輩の鼻に触れる位置に差し出す。
「えっ?」
思わず声が出たのは賢だった。
ノンコンタクト空手の選手が速いのは知っている。しかし、ここまで圧倒的なスピードだったとは。
鼻の前の拳を払い除けたイノシシ先輩は、両腕を伸ばして直之の頭を抱えようとした。動きを封じて、膝蹴りを入れるつもりだ。
だが、両腕を伸ばした時、直之はもうそこにはいなかった。
サイドに移動した直之は、イノシシ先輩の襟首を掴み、膝を後から踏み付ける。
膝カックンの要領で体勢を崩したイノシシ先輩は、そのまま後方へ引き倒され、直之の型通りの下段突きがイノシシ先輩の鼻先で止まった。
直之はゆっくりと拳を戻し、残心のまま立ち上がる。
圧倒的な実力差。
イノシシ先輩も、あらがう気力を失っていた。
「負けだ、負け! オレの負けだよ!」
大の字に寝転んだイノシシ先輩は、ヤケクソで叫んだ。
直之はイノシシ先輩に一礼すると、夏輝の手を取る。
「さあ、教室に戻りましょう。みんな心配しています」
「あ……はい」
夏輝は直之に手を引かれ、賢の横を通り過ぎた。
二人とも、全く賢の存在に気付いていなかった……。
擦れ違った時、夏輝はまるで乙女の様に頬を赤く染めていた。
「マジかよ……」
賢は信じられない思いで呟く。
振り返ると、ヤケになった手下の先輩二人も地面の上に寝転がり、三人で仲良く空を見つめていた。
☆
擦れ違う人々の不思議そうな視線にようやく気付き、直之は夏輝の手を引いて歩いている事に今さら気付いた。
慌てて手を離す。
「あっ! 申し訳ございません。つい夢中になってしまい……お怪我はございませんか?」
恥ずかしさで、夏輝は思わず視線を落とした。
「はい……あの、ありがとうございます。直之君のお陰で無事でした」
そんな夏輝の反応に、直之は笑う。
「クスッ。ヘンですよ、直之君だなんて。いつもの通り、直之と呼んでください。それに、敬語になってます」
「それは、直之……も同じですよ。気付いていますか?」
「あっ」
二人は、顔を見合わせて笑った。
「一緒に教室に入って行くのもヘンなんで、ボクが先に行きますね。夏輝君は少しズラして来て下さい」
「はい」
直之が教室へ向かって歩き始めると、夏輝はそれを呼び止めた。
「あのっ!」
「はいっ?」
「実は……直之のこと、昔から知ってるような気がして……中学とかじゃなく、もっともっと昔から」
直之は大きく口を開けた後、こう言った。
「驚きました……実はボクもなんです。夏輝君のこと、ずっと昔から知ってるような……」
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